確かにさ。今も完全に私と同じことができてるわけじゃないよ? てか、それ自体が当然のことだよね? 私だって昔は今の自分と同じことができてなかったんだからさ。経験と共にできるようになっていっただけの話でさ
確かにさ。今も完全に私と同じことができてるわけじゃないよ? てか、それ自体が当然のことだよね? 私だって昔は今の自分と同じことができてなかったんだからさ。経験と共にできるようになっていっただけの話でさ。
でもそれも、経験を積むことで理解が深まって、やがてできるようになっていくんだと思うけどね?
それまでの間に錯誤や思い違いがあれば随時訂正していくしさ。
錯誤や思い違いがあるのにそれを放置して、間違ったまま突き進んじゃったらダメじゃん。自分が痛い目を見るだけならまだしも、他の誰かに被害を及ぼしたら、私の無作為がその被害を生んじゃったってことになるじゃん。
しかも、そういうのを放置してる親とかって、自分の無作為が何か大きな問題を生んだって、責任を取ろうとしないよね? そんな親の姿を見て育った子供が、そのままで、
『自分の無作為が何か大きな問題になるかもしれないからちゃんと対処しよう』
と考えるような人間になれると思う?
確かに私も、両親から教わってないことをできるようにはなったよ?
『子供をこの世に送り出したのは、何をどう言い訳したって親の身勝手』
『子供に対して事前に確認も承諾もとってない』
『生んでやったとか育ててやったとかで恩を売ろうなんて思わない』
これらは、私の両親はまったくこれっぽっちも理解しようとはしてなかった。
でもね、私がそう考えられるようになったのは、さくらやダンナに出逢えたおかげであって、私の独力でそうなれたわけじゃないんだよ。さくらやダンナに出逢えてなかったら私は子供が欲しいなんて欠片も思わなかっただろうね。てか、自分が子供を育てられるなんて想像もしなかったと思う。
それが、さくらやダンナに出逢ったことで二人からたくさんのものを得て、結果、今の私になれるきっかけができたんだ。
だったらさ、『自分の無作為が何か大きな問題になるかもしれないからちゃんと対処しよう』と考えもしない親の下で育った子供がそう考えられるようになるには、相応の<きっかけ>が必要になるって思わない? 私は思うよ。
逆を言えば、そういうきっかけに出逢えなければ『自分の無作為が何か大きな問題になるかもしれないからちゃんと対処しよう』と考えられるような人にはならないってことじゃないの?
ホントにさ、どうしてそういうことを考えようとしないんだろうね? まあこれについても、そういうことを考えようとしない親の下で育ったからかもしれないけどさ。




