ところでさ、<傲慢>ってのは、『あなたのことより自分自身が大事』ってことだよ? どんなに立派なことを口にしてても要はそういうこと。そんな人の言葉なんて聞きたくないでしょうよ。ただ<自己愛の塊>だしさ
ところでさ、<傲慢>ってのは、
『あなたのことより自分自身が大事』
ってことだよ? どんなに立派なことを口にしてても要はそういうこと。そんな人の言葉なんて聞きたくないでしょうよ。
ただ<自己愛の塊>だしさ。
で、こんなことを言ってる私のことも<傲慢>に見える? 傲慢に見えて私の言ってることになんて耳を傾けたくないと感じるなら、それこそが<傲慢であることのリスク>だよね。
『自分のことばかりが大事で、相手のことなんて実はなんとも思ってない』
って他者からは思われちゃったりする。そんな人の<お説教>よりも、カルト教団の甘言の方が魅力的に見えても何も不思議はないと思うけど?
だって自分だけが高みにいて、相手のことは下に見てるんだからさ。
『神はあなたを必要としています』
的な、分かりやすい甘い言葉を掛けてくれる方がずっと魅力的に思えて当然だと思うけど?
『お前のために厳しい言葉を掛けてやってるのに、なんて恩知らずな!』
って? あのね? そういうのは相手にちゃんと伝わらなくちゃただの<自己満足>なんだよ。自分がそれをしてるという自身の行為の段階で満足しちゃってて、実際の効果が伴うかどうかは二の次三の次になっちゃってるの。違う?
本当に<実>を望むなら、敢えて自分の望まない形をとることだって必要になるじゃん。まともに社会で生きてきたのなら、そんな場面、いくらでもあったんじゃないの? ぞれなりに経験を積んできてるなら自分にもそういう時期があったんじゃないの? 本当にやりたいことじゃない仕事とかをこなしてた時期とかあったんじゃないの? そのおかげで今の自分があるんじゃないの? どうしてそのことを忘れちゃってんの?
『甘やかすなんてやってられるか!』
みたいに<自分の感情>を優先して<実>を捨てるとか、経験を積み重ねてきた大人がするべきことなの?
私にはそうは思えないんだけどなあ。
せっかく連れ戻した家族がカルト教団に戻ってしまうことよりも、自分の感情が大事だってんなら、自分の感情を優先するリスクについても負うべきなんじゃない?
『自分の感情を最優先したい。でも、それによるリスクは負いたくない』
って、世の中はそんな甘いものだったっけ? そんな風に甘えたいなら、カルト宗教に逃げ込みたい人の<甘え>をバカになんてできないと思うけど?
とにかく、
『自分の家族と一緒にいるのが一番安心できる』
って思ってもらえなきゃ、とどめておくのは無理でしょうね。
それだけの話だと思うけど?
『自立させられなきゃ意味がない!』
って? カルト宗教に依存してることも『自立できてる』とは言わないと思うけどなあ。




