とにかく、私は自分の子供達を人間として接することで、『相手を人間として接する』ってのを学んでもらっただけなんだよ。前にも言ったと思うけど、『言葉を覚える』のと同じようにして<人間としての振る舞い>も
とにかく、私は自分の子供達を人間として接することで、
『相手を人間として接する』
ってのを学んでもらっただけなんだよ。前にも言ったと思うけど、『言葉を覚える』のと同じようにして<人間としての振る舞い>も学ぶんだからさ。だとしたらやっぱり、
『相手を人間じゃない者として接する』
なんてことをしてたら、<相手を人間じゃない者として接する姿勢>ってのも学び取っちゃうと思うわないの? 乳幼児が言葉を覚えるのってどうやって覚えるのさ? 学校に通って教師から教わんの? 違うでしょ? その子の周囲の人間がしゃべってるのをラーニングしてしゃべれるようになるんでしょ? だったらさあ、<人間としての振る舞い方>もそうやって学んでいくんだとなんで分からないの?
『相手を人間じゃない者として接する』なんてことができるっていうのは、そういう姿勢そのものを誰かから学んだんじゃないの? 『子供は人間じゃないから躾けて人間にするんだ』みたいな態度を取る親とかからさ。
そうやって、
<人間から人間じゃないものが生まれるというファンタジー>
をいつまで信じ続けるつもり? 人間から生まれるのは、たとえ人間の姿をしてなくたって、生きて生まれてこれなくたって<人間>なんだよ。生きて生まれてこれなかったのなら正確には<人間だったもの>ってことかもしれないけどさ。
でも、たとえ死産だったとしてもちゃんと届け出はしないといけないし、火葬しなきゃいけないの。ちゃんと<人間としての尊厳>を守るための所定の手続きが必要とされてるんだよ。ペットが亡くなった時に公的に人間のそれと同じ手続きすんの? ペットは自分の家の敷地に勝手に埋めたって別に罰せられたりしないかもだけど、死産だったからって人間の赤ちゃんを勝手に埋めたら<死体遺棄>になるでしょうが。
責任能力のあるなしに関わらず人間は人間だって現実を見ればこそのそれでしょうが。
それを、一体、いつまでファンタジーに縋るつもり? 創作の中では別にどういう社会制度を描こうと自由だと私は思うけどさ、実際、
<くじで死ぬ人を決める制度が採用された社会を描いた漫画>
とか、
<少子化対策のために児童婚を認めた社会を描いた漫画>
とかあるけどさ、私はそういうのあまり好きじゃないから見ないけどさ、それはあくまで私の<好み>の問題だから別にいいんだよ。
でも、現実においては『人間から生まれるのは人間』だし、その現実を認めればこその法律が考えられているんだよ。
なんでその現実と向き合えないの?




