私が作品の中で描くキャラ同士の関係性とかについて、『そんなことできるはずがない。作者の妄想だ!!』って意見があるそうなんだけど、でも、それを言う人は、いったい、どれだけ人間のことを知ってるの?
私が作品の中で描くキャラ同士の関係性とかについて、
『そんなことできるはずがない。作者の妄想だ!!』
って意見があるそうなんだけど、でも、それを言う人は、いったい、どれだけ人間のことを知ってるの? って思うんだけどね。
だってさあ、人間が実際に顔を合わせて、しかもその人の裏も表も知れるくらいに関われるのって、生涯に何人くらいよ? 両親と兄弟姉妹くらいならまあ、裏表を知れるくらいには関わるだろうから、十人はいけるかな。
でも、親戚までとなると、その内の何人の人間性を知ることができる? それこそ数年に一度しか顔を合わせる機会もないような親戚とかだったら? そんな人の何が分かるって?
学校でも、同級生の内の何人と、表も裏も知ってるくらいの付き合いがあった?
職場では? 近所付き合いでは?
ほんの一部だけなら百人くらいはまあ分かるとしても、千人は? 万人は?
あなたが知ってる範囲の人間だけで、人類すべての何が分かるっての?
しかも、『類は友を呼ぶ』って言葉もあるように、自分の身近な人間って、その傾向に偏りがあるはずなんだよね。その事実を理解してる?
私は、自分が知る範囲の人間だけで人類というもののすべてを分かった気になるなんて思い上がりはしたくないんだよね。
そう。私の両親や兄がどうしようもない<ロクデナシ>だったからって、それがすべての人間に当てはまるわけじゃないってことを知ってるんだよ。
自分の周りに私がしてるようなことができる人がいなかったからって『できるはずがない』なんてのは、ただの思い込みだってこと。
テレビとかがあるから短距離走のトップアスリートの存在を知ることもできるけど、そうじゃなかったら、百メートルを十秒以下で走れる人間がいることなんて信じられないんじゃない?
『百メートルを十秒以下で走れるなんて、空想上のキャラクターだ!』
とか思っちゃうんじゃない? 私がやってる程度のことなんて、百メートルを十秒以下で走ることに比べれば、凡人でも心掛け次第でできることだと思うんだけどな。
『子供を自分とは別の人間と見做して接する』
『他人を自分とは別の人間と見做して接する』
程度のことはさ。
『自分が気に入らないからって『この世から消えてなくなれ!』なんて考えない』
程度のことはさ。
私程度の人間にできることを、それをやる努力もせずに『できるはずない!』って、ドヤ顔で言えること?
そう、<努力>だね。努力。結局はここでも<努力>だよ。
やりたくない努力かもしれないけどさ。
やりたくないからその努力をしないって言うなら、他人に『努力しろ』なんて言えないよねえ。




