『あんまり好ましいとは言えない親の下に生まれてしまう』ことがあるのは事実。『この世で作られる作品がすべて自分の好みに合わせて作られることはない』のもまた事実。そのことについてついつい愚痴をこぼしたく
改めて言うけど、
『あんまり好ましいとは言えない親の下に生まれてしまう』
ことがあるのは事実。
『この世で作られる作品がすべて自分の好みに合わせて作られることはない』
のもまた事実。
そのことについてついつい愚痴をこぼしたくもなるのも確かにあるよね。
だから私は、自分の子供達のそういう愚痴に耳を傾けることで、他の誰かに八つ当たりしないで済むようにしてるんだよね。
だってさあ、何度も言うように、いくら愚痴をこぼしたくなったからって、見ず知らずの赤の他人にその愚痴を聞いてもらおうとするのって、礼儀礼節がなってると思うの? 逆に、自分はどこの誰かも分からない赤の他人の愚痴を聞いてあげようと思うの? 思わないってんなら、それこそが<答>じゃないの?
自分は見ず知らずの赤の他人の愚痴なんて聞きたくもないって思うのなら、自分の愚痴を見ず知らずの赤の他人に聞かせようとするのはおかしくないの?
ねえ?
自分の好みに合わない漫画やアニメや小説があるからって、なんでその愚痴を見ず知らずの赤の他人に聞いてもらおうとすんの? それって結局、自分の身近な人がそんな愚痴に対して耳を傾けてくれないからじゃないの?
特に、その人を自分の勝手でこの世に送り出した<親>は、見ず知らずの赤の他人に愚痴をこぼさずにいられないほどの状態になってる自分の子供を何で放置してんの? 自分の子供が他所様に迷惑掛けてんだよ? なんで見て見ぬフリしてんの?
<自分が勝手にこの世に送り出した子供が他所様に迷惑掛けないようにする努力>
を、なんでしないの? 自分はその努力をせずに、子供に対しては、
『努力さえすればどんなことでも乗り越えられる』
って言っちゃうの? 自分は、
<我が子が他所様に迷惑を掛けているのをやめさせる努力>
をしてないじゃん。
『子供をこの世に送り出したのは何をどう言い繕ったって親の勝手』
『スマホやパソコンの画面の向こうにいるのは生身の人間なんだから、何をどう言い繕ったってネットと現実はシームレスに地続きであり現実の一部分でしかない』
っていう現実を受け止める努力を、どうしてしないのさ? 努力すればなんでもできるようになるんでしょ? だったらすればいいじゃん。
<努力>をさ。
で、また言うんだけど、私はありとあらゆることに対して努力してるってわけじゃないから、<努力>って言葉を子供達に対してはあんまり使わないようにしてるんだよ。
精々、
「努力すれば必ず報われるなんてことはないけど、少なくとも自分が成し遂げたいことについては必要な努力をしなきゃ結果は出ないよ」
って言うくらいだね。




