確か前にも言ったけど、私にとってはね、創作の中で描く<世界>は、たとえ現実をモデルにしたものであっても、所詮は<現実>じゃないんだよ。フィクションの中に落とし込んだ時点でもう現実じゃないんだ
確か前にも言ったけど、私にとってはね、創作の中で描く<世界>は、たとえ現実をモデルにしたものであっても、所詮は<現実>じゃないんだよ。フィクションの中に落とし込んだ時点でもう現実じゃないんだ。言ってしまえば<異世界>。そういう意味では、私の作品はすべてが<異世界物>とも言えるかな。
だからね、逆に考えて、いわゆる、
<現実世界とは別に存在する異世界>
も、私の創作の中では<現実>なんだよ。そこには無数の命が生きて、死んで、循環を繰り返してる。だとすれば、同じ世界で別の物語だって生まれる。繋がりがあったりなかったりという違いはあっても、同じ世界の同じ時間軸の中でまったく別の誰かに焦点を当てる形で作品を作ったりもする。
と言うか、私は、私の中にある世界を観察して、興味を抱いた対象をピックアップする形で作品を作るんだ。だから、同時に何人もの人を観察してそれを形にする。
私は『筆が早い』と言われたりするけど、その理由は簡単だよ。私は、私が見たものをただ描写してるだけだから。
『この人も描きたい!』
『こっちの人も描きたい!!』
毎日そんなことを思ってる。その中には、本当に胸糞悪い、描くのも嫌だと感じる輩もいる。
赤の他人の尊厳を踏みにじり嘲り蔑み貶すことでしか自分の存在を実感できないような輩もね。
でもそいつは、自分では幸せなつもりなんだ。多くの人を扇動して自分の価値観に従わせてお金を出させて吸い上げて、普通の会社員よりも稼いでいたりする。世間にもそれなりに名前を知られてて、だからお金を使ってくれる人も囲ってる。
それこそが<幸せ>だと思っているんだ。
なるほど、欲しいものは我慢せずに買えて、好きなところに行けて、美味しい料理も食べられて、ちやほやしてくれる人間が周りにいる。
楽しそうだよね。きっと楽しいんだろう。でも、私はそういう生き方を羨ましいとは思わない。だって、誰のことも本当は信じてないし、心を許しちゃいないからさ。
自分に近付く人間を、<利用できる者><金づるにできる者><役に立つ者>って形でしか見てないんだよ。自分の家族すら。
だから自分自身が、他者から、<利用できる者><金づるにできる者><役に立つ者>という基準でしか見てもらえていない。それ以外の基準を知らない。
私はそれを、羨ましいとは思わない。
だって、安心できないしさ。周りにいる誰も信用できないし信頼できないし、ちょっと自分の思い通りに動かなかっただけで『裏切った!』と感じちゃう。
そんなことばっかり心配してるのって、疲れるよ。




