よくさ、<綺麗事>って言葉を伝家の宝刀みたいに使うのがいるけどさ、いやいや、それって、『綺麗事を看破できる自分カッコイー!』ってだけだからね? もし、<綺麗事>云々の話をしたいなら
よくさ、<綺麗事>って言葉を伝家の宝刀みたいに使うのがいるけどさ、いやいや、それって、
『綺麗事を看破できる自分カッコイー!』
ってだけだからね? もし、<綺麗事>云々の話をしたいなら、普段の自分自身の振る舞いにも丸ごと返ってくるんだよ?
例えばさ、他人との関係が上手くいかなかった時、
『自分はこれだけやってあげたのに!』
的なことを言うのがいるじゃん? だけど、
『やってあげたんだからその見返りがあって当然』
ってのがもう<綺麗事>だよね? そんなムシのいい話がこの世の摂理なわけないじゃん。
この世ってのは、自分の思い通りに行かないことが大半で、自分の思い通りになることなんてごくごく一部に過ぎないんだよ。思い通りにならないことの方が当たり前なんだ。
綺麗事云々を突き詰めるなら、
『そもそも、自分の対応に瑕疵があったんじゃないのか?』
ってところにまで突き詰めなきゃダメなんだよ。
親の場合とかだと、
『子供が自分の思ったとおりに育たなかったのは、自分の接し方に瑕疵があったのでは?』
って部分から見直さなきゃ意味がない。
『愛情を注いだ』
だの、
『子供のために努力した』
だの、そんな<綺麗事>じゃ『人間を育てる』ってことの本質は見えないと思うよ? 愛情や努力なんて、そんなのは最低限必要な基礎の基礎であって、その上に積み上げたものに瑕疵があったら上手くいかないってのが、<綺麗事じゃない現実>でしょうが。
そもそも、
『自分の都合を一方的に押し付ける』
ことを<愛情>だとか<努力>だとかのお綺麗な言葉に言い換えてる時点で話になんないじゃん。
『常識』
だとか、
『当たり前』
だとか、
『こうあるべき』
だとか、そんなものを持ち出してきたらそれがもう<綺麗事>なんだよ。
『世界を敵に回してでも自分の家族は守りたい!』
っていう気持ちとかは、ものすごく生々しい<エゴ>そのものだけどね。で、それを否定するために、
『他人にも生きる権利はある!」
だとか、
『犠牲になる人の気持ちも考えろ!』
だとか、
『社会に迷惑を掛けるな!』
だとか並べたら、それがもう<綺麗事>じゃん。
『他人が口にする綺麗事は否定したいけど、自分の思う綺麗事は正しいことだ』
って思いたいわけ?
『たとえ他人に迷惑を掛けることになっても自分の家族には生きててほしい』
その気持ちは<綺麗事>なの? 私にはとてもそうは思えないけどな。
どっかの誰かに自分の家族の生き死にを勝手に決められるとか、なんで受け入れなきゃいけないのさ?
ああそれと、
『自分が自分じゃなくなったら死にたい』
なんてのも、自分の家族の気持ちとか蔑ろにしてるよね?
それとも、
『自分が死んだ方が家族は清々する』
って思えるような家族だってこと?
もしそうだとしても、他人の家族も同じだと思われるのは迷惑千万なんだけど?




