『いくら自分が他者を傷付けないようにしても、他者は自分を傷付けようとしてくる!!』 そんなことを言うのもいるかもだけど、だからって自分から他者を傷付けようとするのは、『他人の所為にしてる』っての
『いくら自分が他者を傷付けないようにしても、他者は自分を傷付けようとしてくる!!』
そんなことを言うのもいるかもだけど、だからって自分から他者を傷付けようとするのは、『他人の所為にしてる』っての。
<犯罪加害者>が動機を語ったら、
『他人の所為にするな!』
『親の所為にするな!』
『社会の所為にするな!』
って合唱するじゃん。なのになんで、自分が他者を傷付けようとする時には『自分以外の誰か何かの所為にする』ことが許されると思うんだか。
それが<甘え>じゃなきゃなんだって?
確かに、自分が他者を傷付けないようにしてても、他者は自分を傷付けようとしてくるかもしれない。てか、傷付けようとしてくる奴は確かにいると思う。私に粘着してるアンチだってそう。
でもさ、だからってそれを理由に私が誰かを傷付けようとするのは、間違いなく『他人の所為にしてる』ってことじゃん。
それに、私が誰かを傷付けようとするなら、結局それが元になってもっと攻撃されるのは分かり切ってるじゃん。ただでさえアンチがいるのに、さらに増やしてどうすんの?
『自分だけが我慢するのはおかしい!』
って思いたいのかもだけど、私には、そう思ってしまいそうになるのを和らげてくれる家族がいるからね。
ん?
『自分にはそんな家族がいない!! だから我慢なんてできない!!』
って?
そっかあ、
『癒してくれる家族がいないから抑えられない』
って認めてくれるんだ? 伴侶とかはいなくたって、<親>はいるよね? この世に生まれてきた以上はさ。その<親>は、
<他者を傷付けずにいられないくらいに追い詰められてる我が子>
に手を差し伸べてもくれないんだ?
『親が手を差し伸べてもくれないから、他者を傷付けることがやめられない』
って認めてくれるんだ?
『親の所為だ』って認めてくれるんだ?
子供が何歳になろうが親にとって子供は子供だよ。
<自分の勝手でこの世に送り出した存在>
なんだ。その<自分の勝手でこの世に送り出した存在>が追い詰められてるのに見て見ぬフリができる人間性を持った親を見て育ったら、
『他者の痛みに鈍感になる』
とは思わない?
少なくとも私は、子供達が何歳になろうが『自分の勝手でこの世に送り出した』事実は消えてなくならない以上、<他者を傷付けずにいられない状態>で放っておくつもりなんてないよ。その程度の覚悟も持たずにあの子達をこの世に送り出したわけじゃない。
なるほど、親の方が先に死ぬかもしれない。だけどそれは、
<見て見ぬフリをしていい理由>
になるとは私は思わないよ。
先に死ぬとしても、死ぬまで努力は放棄しない。




