『言葉で言っても分からない』これ自体がものすごく便利な言葉だよね。だって、分からないことを相手の所為にする前提の言葉だしさ。私は、正直、こういうのって卑怯な考え方だと思う
『言葉で言っても分からない』
これ自体がものすごく便利な言葉だよね。
だって、分からないことを相手の所為にする前提の言葉だしさ。
私は、正直、こういうのって卑怯な考え方だと思う。
『じゃあ子供だからって、言葉じゃ分からないからって何でも許されると思ってるのかよ!?』
って言うかもしれないけど、そうやってキレるっていうこと自体が、
『自分を甘やかしてください』
って願望の表れじゃん。違うの? そうじゃないならどうしてそんなにいちいちキレるの?
それこそ子供みたいに。
自分が子供みたいな振る舞いをするっていうのなら、つまり自分が子供ってことだから、しかも年齢的にそれなりにいっててそれだったら、それこそ子供に対して偉そうにできないじゃん。
経験積んでも子供のままなんだったらさ。
正直、私自身が子供みたいなものだから、子供達に対して偉そうにできないっていうのも、ある。
とにかく、自分が子供に対して偉そうに出来るかどうか、そういうのを自分で顧みることができるかどうかが、大事なんだと思ってる。
自分で自分を顧みることができれば、自分の言ってることが果たして適切かどうか、自分が果たして大人として尊敬に値する振る舞いをしているかどうか、自分で考えることもできるんじゃないの?
少なくとも、自分の感情ばっかり優先して、些細なことでキレ倒すような大人でいることが、そもそも信頼や尊敬に値するかどうか、考えることができるんじゃないのかな。
なんて、何度も何度も同じことを言うけどさ、こんな風に言ってる私を、
『偉そうな!』
って感じて反発するなら、今の自分が子供に対して偉そうなことをして、それで子供が反発しないかどうか、今の自分が反発を招くような振る舞いをしてるかどうか、考えるくらいのことができるのが、<大人>ってもんじゃないの?
自分が、『偉そうにしやがって!』って感じた時に反発するっていうのがあるんだったら、自分が偉そうにした時に子供や他人が反発するっていうのも当然じゃないの?
他人の<偉そうな態度>に自分は反発してもいいけど、自分の<偉そうな態度>に子供や他人が反発するのは許さない。なんて、冷静に考えてみてどうなの?
そして、<偉そうな態度>と感じるかどうかは、あくまで当人の感覚の問題だから、
『偉そうに感じることを許さない!』
なんてのも、それこそ<偉そうな態度>だよね。
感情の点で私の言ってることが納得できないってのがあるとしたら、それは子供や他人も同じだって理解するべきだと、私は思う。




