つくづく思う。他人を攻撃しておいて自分は幸せになろうとか、他人がそれで納得してくれるとか思うの?ってさ
つくづく思う。他人を攻撃しておいて自分は幸せになろうとか、他人がそれで納得してくれるとか思うの?ってさ
もし、私がこうして言ってることを見てそれを<攻撃>と感じて『ムカついた!』ってなったとして、それで私が幸せそうにしてたら、
『そんな幸せぶち壊してやる!』
とか思ったりしたら、それがもう<完璧な答>だよね?
私はなるべく言葉を選ぼうとしてるつもりだけど、それでも『ムカつく』って言うんなら、この程度でも十分に刺さるってことだよね? なのに罵詈雑言や誹謗中傷や蔑称まで使ったりして攻撃したら、それこそ『殺してやる!』って思われたって不思議じゃないじゃん。
他人からそれだけ思われて幸せが掴めるとか、どんだけ危機感ないの? 何とかして幸せをぶち壊してやろうと思われないとでも?
そういうのを跳ね返して防ぎ切って幸せを掴めるだけの力が自分にあるとでも?
少なくとも私にはそんな自信ないなあ。
『他人を攻撃しない』っていうのは、自分が攻撃される可能性をそれだけ減らすための<戦略>なんだよ。ただの<優しさ>や<思い遣り>じゃない。
もちろん、自分は攻撃するつもりない、攻撃してないのに、一方的に攻撃されることはある。通り魔とかに巻き込まれる可能性だってゼロじゃない。元からそういう可能性があるところに、自分からわざわざ他人から攻撃される可能性を増やしてどうすんの?
他人の攻撃から身を守るために備えるのは必要かもしれないけど、自分から他人を攻撃しておいて反撃に備えるとか、なんという悪質な<マッチポンプ>。
自分の不幸の原因を自分で蒔いておいて『自分は不幸だ!』『この世界はクソだ!』とか、おかしいよね?
いや、ホント。
『理由があってもイジメちゃいけない』
っていうのは確か。事実。理由があろうとなんだろうと、イジメたらそれは犯罪。
でも、自分が誰かを攻撃してそれをきっかけにイジメが始まったなら、『理由があってもイジメちゃいけない』というのは、自分にも返ってくるんだよ?
『理由があってもイジメちゃいけない』というのは、『理由があっても攻撃しちゃいけない』ということでもあるから。
もし、自分が誰かを攻撃するのを、
『理由があるから』
『原因があるから』
で正当化しようとするのなら、自分が学校や職場で嫌な思いをするのも、
『理由があるから』
『原因があるから』
で正当化されるのを認めなくちゃいけなくなるよ?
『空気が読めなくて周りに迷惑を掛けたから』
『仕事を言われたとおりにできなくて周りに迷惑を掛けたから』
そんな理由で攻撃されるのを認めなきゃならなくなるよ?
私はそんなのおかしいと思うから、
『理由があっても攻撃しちゃいけない』
って言ってんの。




