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名前とにやけ顔と先輩と私



 初めてのお付き合いというものは、私にとって驚きの連続だ。

 今まで恋愛というものにあこがれたことすらなかった私は、恋人同士がどんなことをするのか、どんな話をするのか、知識として多少知っていただけで、まったく実感がなかったから。

 佐伯先輩の、はちみつよりもチョコレートよりも甘い、言葉と視線と行動と。

 そのすべてに、私はいつも翻弄されている。




「ねえ、美知」

「はい」

「みーち」

「なんですか?」


 休み時間、裏庭での読書の時間を佐伯先輩に邪魔された私は、不機嫌さを隠すことなく問いかける。

 二人でいるときに本を読んでいる私が悪いのかもしれないけれど。

 そもそも、今日は元から一人で本を読む予定だったのを、邪魔しないから一緒にいさせてと言ったのは佐伯先輩だ。

 その約束をこうも堂々と破られては、機嫌も悪くなるというものだろう。


「んー、呼んだだけ」


 ふふふ、と佐伯先輩のきれいな唇が弧を描く。

 うっすら細められた瞳には、見間違えようのない愛情がこもっている。

 それだけで心拍数が一気に上昇して、機嫌の悪さなんて忘れさせられてしまうんだから、佐伯先輩は本当にずるい。


「……バカじゃないですか」


 照れ隠しにそう憎まれ口を叩いてしまうものの、それだって彼にはばれているんだろう。佐伯先輩の笑みが崩れることはない。

 私ばっかり、いつもドキドキしている。

 どうあっても佐伯先輩には敵う気がしなくて、悔しい。


「美知も俺の名前呼んでよ」

「佐伯先輩?」

「そうじゃなくて。一哉、って」


 佐伯先輩の提案に、私は数秒間固まった。

 一哉。それは佐伯先輩の名前だ。

 今まで一度も呼んだことのない名前。

 呼んでほしい、と言われたことはあったけど。

 男の人の名前なんて、弟や親戚くらいしか呼んだことないのに。


「……無理です」

「練習あるのみだよ」


 にっこり、と佐伯先輩は屈託なく笑う。

 励ますようなその笑顔は、どこか強制力を持っていて。

 名前を呼ばない限り、解放してくれないような気がした。

 しょうがない、と私は覚悟を決めて、深呼吸をする。


 かずや、かずや。

 練習にと、頭の中で何度も唱える。

 めずらしくもなんともない名前のはずなのに、それが佐伯先輩のものだと思うだけでなんだか特別に感じる。

 好きだから、私にとって佐伯先輩が特別だから。

 そういうことなんだって、恥ずかしいけれど認めるしかない。

 名前を呼んで、佐伯先輩が喜んでくれるなら。

 私だって、ちゃんと呼んであげたいって、そう思っている。


「……か、かずや……さん……?」


 ごくごく小さな声で、けれど間違えたり声がひっくり返ることなく、その名前を呼ぶことができた。

 心臓はバクバクと音を立てているし、頬はきっと真っ赤になっている。

 今すぐこの場から逃げ出したいくらいだったけど、佐伯先輩の反応が気になって、ちらりとうかがってみる。

 佐伯先輩の顔は、ものの見事に笑み崩れていた。

 すごくおいしいものを食べたみたいな、温泉にでも浸かっているかのような。

 しあわせ、という文字がでかでかと書かれた表情に、私は少しビックリしてしまった。


「いいなぁ、さんづけってなんだか新婚さんっぽいよね」

「なっ、何言ってるんですか!! もう呼びませんからね!」

「えー」


 勢いよく立ち上がって、教室に戻ろうとする私のあとを、佐伯先輩はへらへらした表情のままついてくる。

 王子様然とした顔立ちには、その表情はだらしなくて似合わないけれど。

 うれしくてうれしくて仕方ない、っていうのが伝わってくるから、私は嫌いにはなれそうになかった。




 それだけ喜んでくれるなら、また呼びたいって。

 そう思ってしまったことは、今は内緒にしておこう。







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