XXXVII.奴隷乙女のアンミュレーネ
「どういう……ことなんだ」
呆然と立ち尽くしたまま、変わり果ててしまったヘルクレスを見やる。
血だらけであること以外、外見に異常はない。
ただ、持っている剣が異様。
ズズズ、と音を立てていて、剣の輪郭がはっきりと視認できない。湯気のように輪郭のない闇が溢れている。焦点を合わせているだけで引き摺りこまれそうな闇の剣を携えているヘルクレスの表情が見えない。
最初は闇夜だから知覚できないと思っていたが、凝視しても、どんな風貌をしているのかが分からない。
全てが闇に染まっているかのようなヘルクレスは、剣を振り上げる。すると、爆発的に剣が肥大化する。
まるで周囲の闇を喰らっているかのように、ズズズズズズと闇の剣は建物と同等の大きさまで膨らんでいく。
あんなこと、ヘルクレスにできるはずがない。
偽物か。
それとも、ただの別人か。
どちらにしてもこれは――
「馬鹿っ! 何やってるっ!」
ドン、と横合いからナジットが突進してくる。そのせいで態勢を崩し、蹈鞴を踏んで横に倒れてしまう。何を――と、文句を言おうとしたヘルクレスの横を巨大化した闇の剣が全てを断絶する。
ドゴォォオオンン!! という轟音にアンミュレーネは、眼蓋を閉じ、耳を塞ぐ。
なっ、と両目を開くと、地面がまるで溶岩でもぶっかけられたかのように溶けていた。それだけじゃなく、一直線に斬撃の跡が広がっていて、建物までもが両断されていた。斬れている箇所は綺麗にスパッと斬れているのだが、その斬られた跡の周辺はじくじくと闇が侵食していた。
何が起っているのかが理解できない。
「ヘルクレスなのか? ……ほんとうに?」
よろよろと立ち上がる。
こんなこと、ヘルクレスにできるはずがない。
例えできたとしても、ヘルクレスがこんな無慈悲な破壊をするわけがない。建物の中には人がいたかもしれないのに、それを分かっていながら攻撃できるなんて、そんなこと人間の普通の神経でできるはずがない。
「どうして……ヘルクレスが。それに、なんでナジットがここにいる。お前が……ヘルクレスをこんな目に合わせたんじゃないのか」
その質問に答えたのはナジットではなく、遠いところから高みの見物を決め込んでいるKだった。
「ナジットさんは、最初から薄々気がついていたんですよ。ヘルクレスさんが《精霊》を暴走させることを」
「精霊……だと? だが、ヘルクレスは精霊なんて」
「精霊砂塵の一つが収束し、その契約相手にヘルクレスさんを選んだ。たったそれだけのことです」
異形の怪物と化してしまったヘルクレスの剣が振り下ろされる。うっ、とアンミュレーネは、横っ飛びに避ける。さっきの巨大な剣と違って、今度は普通サイズの剣だ。
何度も連続であんな恐怖の権化みたいな剣撃はできないようだ。
だが、だからといって油断できるわけじゃない。
網目のような連続の剣撃が襲ってくる。
その全てが出鱈目の攻撃であるが、あまりにも疾い。アンミュレーネが反撃しようとするが、防御一辺倒にならないと致命傷を負ってしまうかもしれないぐらいに、速度が半端ではない。
ギィン、ギィン、と剣戟の火花が闇の虚空に光る。
今まで受けてきたどの剣よりも速く、裂傷が刻まていく。初めは、指、それから腕へと、どんどん傷が広がっていく。最初は痛くないのだが、段々と傷口から痛みが拡散していく感じがする。
チラリと斬られたところを一瞥すると、肌色ではなく闇が巣食っていた。
このままじゃ、痛みのあまり動かなくなってしまう。
「……どうして……こんなことに……」
ナジットが横から炎の剣で、ヘルクレスに向かって斬りかかる。
だが、弓なりに形状を変えた闇の剣で受け止められる。
ギョロリと瞳のようなものが動く。そしてナジットに標的を変えると、闇の剣が猛威を振るう。
「ヘルクレスさんには覚悟があったんです。何を捨てても強くなりたいという覚悟が。それに感化された精霊はヘルクレスさんを所有者に選んだ。ですが、そのせいでヘルクレスさんは自我が崩壊してしまったのです」
ヘルクレスの闇の剣が、細いレイピアのように尖り、そして伸びる。突然の形状変化に反応しきれなかったナジットの肩に、剣が掠る。
本来ならば、そこまで目の色を変えることでもないことだが、あの剣に少しでも当たってしまったら、それだけで気絶しそうなぐらいの痛みが走る。
アンミュレーネは斬られた箇所が酷く痛み、地面に膝をついてしまう。
「ヘルクレスさんには才能がなかったんです。精霊を制御できるだけの才能が。精神的に不安定な彼女は精霊を暴走させる恐れがあった。だからナジットさんはヘルクレスさんを処分しようとしたんです。だけどそれをあなたが止めてしまった」
ビアウッドでの出来事を思い返す。
ヘルクレスに狂剣を振るおうとしていたナジットは、顔を顰めていた。
それはヘルクレスを痛めつける残虐性を秘めているのかと思っていた。
だが本当は、全てを分かっていながら、他の誰にも相談することなく、自分の手でケリをつけようとしていた苦痛の表情だったのかもしれない。
もしも他の人間に一言でも漏らしていれば、ヘルクレスはベラプの敵となっていたであろう。
もしかしたら、救えたかもしれない。
だが、ベラプという土地で奴隷乙女の身分の人間に、そんな猶予を与えられるはずがない。
だから、ナジットはただ独りで戦っていた。
他の人間に疎まれることが分かっていても、それでもヘルクレスを救うためだけに奮闘していた。
そんなことがありえるのか。
だとしたら、いったいアンミュレーネがナジットに抱いていた憎しみとはいったいなんだったのだろうか。
「しかも最悪なことに、憧れていた、彼女の全てとも言えるあなたが、こともあろうに憎き男の前で屈服してしまった。そのせいで彼女の精神は崩壊したんです。どんな姿になろうとも、跪いたあなたを否定するために強くなろうとした。その愚かな人間の末路がこれです」
「……愚かだと?」
「だってそうでしょう。彼女はだだを捏ねているだけです。自分の目指していた人間がどうしようもなくちっぽけだという現実から目を逸らすためだけに、こんな化け物に成り果ててしまったんですから」
ヘルクレスは偏った憧憬の念を、アンミュレーネに抱いていた。
その想いは肥大化されていたはずだ。
膨れて、膨れて。
そして今破裂してしまったのだろう。
情けないアンミュレーネの這い蹲る姿を見て、スッ……と熱が冷めてしまったのだ。
何も考えたくなくて、人間の殻を捨ててしまった。
その成れの果てがこれか。
「精霊と人間はそもそも相容れない存在。その能力を高いレベルで使役する時に、必ず存在するノイズ。齟齬。食い違い。それらを埋めるのは至難の業です。完全に精霊の力を引き出すとなると、長い年月をかけるか、または精霊と一体化する必要があります」
精霊を所有したことがないアンミュレーネには、全くわからない。
だが、流暢に語っているKが嘘をついているようには見えない。
「精霊と一体化するのにはそれ相応のリスクが伴う。だからナジットさんは剣に精霊を装填して、安全に精霊伝達率を上昇させている。ですが、ヘルクレスさんは、さらなる力を得るために、身体そのものに精霊を装填してしまった。それがどうなるかぐらい、彼女にもわかっていたはずです」
ヘルクレスの持っている剣が、甲高い悲鳴を上げる。
耳をうんざくその響きに、思わず両耳を塞ぐ。
闇の剣は先刻のように不細工に巨大化するのではなく、剣身だけが少し長くなる。振動するようにブレている剣先は袈裟斬りに、空間を引き裂く。
炎の壁を作って攻撃を逃れていたナジットの身体をも、斬撃は飛来して身体を引き裂く。
がはっ、と血混じりの唾を吐くナジットはもう限界だ。
だが、ヘルクレスの闇の剣は未だに形状を変化している。まるで剣そのものが固有の意思を持っているかのように動いている。剣というよりは、生物と言ったほうがいいだろうが。
闇の剣は、恐らくはまだ発展途上。
未だにどんな形状がしっくりくるのが探り探りといった感じで、色々と試しているようにも思える。
つまりは、まだ破壊力の底が見えていないということ。
それなのに、恐らくベラプで最も強い剣客と思われるナジットと、奴隷乙女にして一目置かれているアンミュレーネが、まるで相手になっていない。
つまりは、ベラプが終焉を迎える。
誰ひとり、今のヘルクレスと相手になる奴なんて、ベラプにいるとは思えない。
「彼女が『極西の王女』ほどの天賦の才を持っているのなら話は別ですが、こうなってしまってはもう手遅れです」
死なせてしまう。
このままアンミュレーネは何もできずに、ヘルクレスが少しずつ死に近づいてくのを観ていることしかできない。
そんな現実直視したくなくて。
その瞬間を目撃したくなくて。
アンミュレーネは、地面に視線を落とす。
その時――
「何、俯いてんだ」
ナジットの声が虚無の空間に響く。
ゴォ!! とナジットは立ち上がると、今まで見た中で最も強い炎を撒き散らす。
なぜだ。
何故ナジットは立ち上がることができるんだ。
アンミュレーネの倍以上、いや想像できる範囲を超えたダメージを、ナジットはその身に受けているはずだ。それなのに、アンミュレーネは立ち上がることはおろか、身じろぎすることすら苦しいほどに身体が動かない。
意識がないはずのヘルクレスが、一歩退く。
決して動くことができないはずの、もしかしたらこの瞬間にも息絶えてしまうほどの負荷を負っているナジットが立ち上がる姿に、気圧されたかのようだった。
まるでヘルクレスにとり憑いている精霊が恐れをなしているかのような退き方だった。
「お前に今できることなんて何一つない。失せろ」
ナジットの声に反射的に反駁する。
「止めろ。他に、何か……ヘルクレスのためにできることが……救うことが……」
「ッお前は――お前は本当にヘルクレスを救うつもりなのか!?」
ナジットは魂の叫びを上げる。
「だったらお前は――もう奴隷乙女以下だっ!」
恐らくナジットは鈍臭いアンミュレーネがここに駆けつけて来る前に、色々な救済策を試したのだろう。
宥めすかしたり、恫喝したり、憤怒したり。
とにかく様々な方法を使って、ヘルクレスを救おうとがむしゃらだったはずだ。だが、それら全ては無駄になってしまった。
だからこそ、ナジットの剣に迷いなどない。
そんなナジットだからこそ自分のすべきことを見定め、立ち上がることができたのだ。
だけど、アンミュレーネはどうだ。
逃げろと言われても、どこにも逃げ場所なんてない。どこに逃げていいのかわからないぐらい、アンミュレーネには今のベラプに安住の地などなかった。
コロッセオで戦うのは心地よかった。
戦っている時には、何も考えず、現実から目を逸らすことができるのだから。
だが、いつもどこかで虚しかった。
心休める、身体の疲れを癒せる場所が欲しかった。
戦っているだけじゃ、それが見つかることなんてできないって分かっていたのに、怖かったのだ。
本当は、そんな場所なんてなかったらと思うと。
いつも自分の心の中に逃げていた。
戦うべきなのは、本当は一体なんだったんだ。
男なのか。
それともベラプそのものなのか。
いや、きっとそれは違う。
「こいつのことを想う気持ちが少しでもあるんだったら、殺すよりも残酷なことを平気で口にするんじゃないっ!!」
ナジットが喘ぐみたいに叫ぶ。
ずっと憎んでいたナジットのことを、今どんな感情で見ていいのかわからないアンミュレーネに、Kが追い討ちをかけるように、
「分かりますか? ナジットさんはあなたを救うためにここまで尽くしてくれているんですよ」
渋面を作るナジットと対照的に、Kは満面の笑みを浮かべながら、
「あなたに罪を被せたのは、安全な場所に追いやるため。ヘルクレスさんがこんな無残な姿になってしまった原因が、アンミュレーネさんにあることを悟らせないために全てやったことなんです」
はっ、となってナジットのことを凝視する。
「ナジットさんだって、本当はヘルクレスさんのことを殺したくないと――」
「黙れ。くだらない妄言をそれ以上吐くなら、お前から焼き殺すぞ」
憎々しげにナジットは、Kを睨みつける。
「俺はただ目の前をちょろちょろうろつくアンミュレーネとヘルクレスを、まとめて片付けれるチャンスを逃したくなかっただけだ。だから俺の邪魔をするな。消えろ」
最後の言葉は、アンミュレーネに向けて言われる。
逃げろと、そう言われているように聞こえた。
「こんなことになってしまった全ての元凶は私だったんだな……」
重体のヘルクレスがベッドで寝込んでいた時。
アンミュレーネは元凶たる人間に殺意を覚えた。
憎しみを込めて、その人間を殺そうとした。
だが、それは自分自身だった。
殺そうとした想いは今でも消えていない。殺したい。自分自身を今すぐにでも殺したい。
憎しみは増すばかりだ。
憎んで、憎んで。
過去の自分のしでかしたことを、後悔するばかりだ。ビアウッドで、あそこで跪いたりしなければよかった。
あそこでアンミュレーネは、ヘルクレスを救うためにこんなことをしているのだと胸中で嘯いた。
だが、そんなものは欺瞞でしかない。
ただアンミュレーネは、変化を恐れた。
男に支配されていることに疑問なんて持たず、今の現状で満足しようとした。アンミュレーネは、ヘルクレス救済を自己保身の言い訳に使ったのだ。
「なんて私は馬鹿なんだろうな」
随分遠回りをしていたように思える。
コロッセオでの戦いは全て無駄だった。
ただ自分が戦うべき理由が見つからず、苛立ちをぶつけるためにただ剣を振るっていたに過ぎない。
狂ったように。
ただ、心を縛る鎖の存在を忘れるために。
「確かに私がここにいても、ナジットが思い描いていることは、何一つできる気がしないな」
フッ、と剣を握る手を緩める。
もう何もかも投げ出したい気分だ。
今までの全てが無意味だと気がついた。こんなことになってしまった原因がアンミュレーネのせい。誰かのせいにして怒り狂っていたアンミュレーネのために、誰もが心を痛めて、自分なりの行動を起こしていた。
そのせいで、ヘルクレスは異形の存在となってしまった。
「だって私は――ヘルクレスと戦うことなんてできない」
取るに足らない存在であるアンミュレーネが、一体何ができる。ヘルクレスと戦って、彼女を殺す覚悟なんて持ちあわせていない。
返り血を浴びて、ああこれでハッピーエンドでした、と満足したようにその日眠ることなどできるのだろうか。
ベラプを滅ぼしかけた化け物を退治したとしたら――その後どうなる。
拍手喝采とパレードが開かれるかもしれない。
アンミュレーネはベラプを救った英雄として称えられ、コロッセオで銅像が建てられる。そして、奴隷乙女ガベージ制度がなくなるやもしれない。
誰もが唖然と立ち尽くすことしかできなかった危機に、アンミュレーネが立ち向かい、そして崩壊を食い止めたのだから、そのぐらいの待遇を期待してもいいだろう。
一つの国を救うとは、そういうことだ。
英雄譚は歴史に残り、そして後世にまで語られるだろう。語られるように脚色されて、どこまでもアンミュレーネが英雄らしかったのだと、それなりの苦難があって、それを乗り越えるだけの勇気を持っていたのだと歴史書に載せられるだろう。
だが、そんなことできるわけがない。
力がないから?
違う。
英雄なんて柄じゃないから?
違う。
ヘルクレスを救うことなんてできないから?
違う。
それは――
「だから――」
ヘルクレスはアンミュレーネにとって、かけがえのない存在だからだ。
倒すべき相手ではないからだ。
だから――
「だから私は――お前の闇と戦ってみせる」
奴隷乙女としてではなく、ただひとりの人間として、アンミュレーネはヘルクレスと向かい合いたい。
「私はずっとお前のことを疎ましく思っていた。関わらないで欲しいと願っていた。私はずっと独りでいたかったのに、どれだけ拒絶してもお前はくっついてきた」
後ろをついてくるヘルクレスをどれだけ追っ払おうとしたのか、数えることをいつの間にか辞めてしまった。
イライラしながらも、顔は笑顔だった。
そのことに気づいてから、必死に表情を固くしていた。
「そんなウザイくらいにくっついてくるお前が……本当は嬉しかったんだ」
独りぼっちでいいと思っていた。
そうしなければ、強くなれないと思っていた。ただ剣を振るっていれば、戦う理由が見つかると思っていた。
だが、独りきりでは何も見つけることなどできなかった。
ただ、コロッセオではない空間で、ヘルクレスの一方的な会話を聴いている時に、なんだかわからない感情が胸の中燻っていた時に気づけばよかった。
戦うべきなのは自分自身だった。
現実から逃げようとしていた、何も考えないようにしていた、自分自身だった。憎むべきは、そんな奴隷乙女ガベージのアンミュレーネだった。
「お前に、救われた気がしたんだよ」
剣を思いっきり握る。
戦う理由なら、ようやく見つけた。
今度こそ、逃げるための口実ではない。
生きる目的を教えてくれた大切な人間のために、この剣で斬ろう。今のアンミュレーネに斬れないものなどない。
今まではまるで違う。
ヘルクレスの中に蔓延っている闇を、この剣で八つ裂きにしてみせる。
「だから今度は……私が――お前を救ってみせる」




