XXXVI.殺人鬼と復讐心
瓦礫の山からスタッとKは降りる。
そのまま悠然とこちらに歩み寄ってくるKは、武器になるような所持品は何一つ持っていないように思える。だとしたら、どうやってあの見るに耐えない惨劇を引き起こしたのかが分からない。
それから、一体どうしてそこまで余裕でいられるのか。
アンミュレーネがコロッセオでどれだけ戦えるかは、Kも熟知しているはず。それなのに、これだけ余裕を持って構えられている理由が見当もつかない。
暗器でも隠し持っているのか。
それとも、ナジットのように《精霊》を保有しているがため、絶対的な自信が滲みでているのか。だとしたら、このまま距離を縮めていいのか。転がっていた男達のように瞬殺されてしまうのではないのか。
「震えていますけど、大丈夫ですか?」
Kの視線の先には、アンミュレーネの震える指先。
いつの間にか剣が震えていた。
「問題ない。もうすぐその震えも止まるからな」
――全てを瞬時に終わらせてやる。
殺意に満ちた表情で向かってくるKを迎撃しようとすると、
「……ときに、アンミュレーネさん。そういえば、あなたにはまだ私の頼みの内容を聞いてもらっていませんでしたね」
まるで戦闘する気がないような雰囲気を漂わせながら、ポツリと呟く。まるで独り言のようなその質問に答える必要性は皆無だったのだが、夜空を眺めているKはあまりにも無防備だった。
隙だらけで、今すぐにでも叩き斬ることができる。
だが、だからこそ罠であるとしか思えなく、剣を鞘から抜くことができない。何故か、何もされていないのに、眼前のKに追い詰められている気がする。
「聞く耳なんて持つ必要なんてなかったからな……」
いつでもKを斬ることができる。
ならば、このどうでもいい問答に終止符を打ってから、相手の出方が分からないモヤモヤとした気持ちを発散させたい。少し話に付き合ってやらば、あっちも納得して斬り合いに応じるだろう。
「2つほど……。あるんです。あなたに頼みたいことが。いいえ。恐らくあなたは自ら私に懇願するはずです。『その2つとも、どうか私にやらせてください』……と」
Kの確信めいた物言いに、眉が八の字に寄る。
「何を言っているのか、さっぱり分からないな」
Kは、こちらの反応を想像していたのか、作ったような微苦笑をする。
「今に分かります。もう私ですら止めらない事態に発展してしまったので……確実にそうなることでしょう」
それから、とKが付け足すように、
「アンミュレーネさん。あなたは周囲に問題が発生した場合、自分のせいにしますか、それとも誰かや環境のせいにするタイプですか?」
「…………さあな」
「あなたの場合は後者です。普段から自分は奴隷乙女だから、こうなってしまったのも仕方ない。ベラプの奴隷乙女制度のせいで、こんな状況になってしまったのだとか、男達が不当な扱いをするからとか、そうやっていつだって周囲のせいにしていませんか?」
「…………」
まるでこちらの心情を透けてみたような指摘。
驚きもあるが、それをわざわざ口に出して言い放ったことが苛立ちを覚える。
「ちなみに私はどちらでもありません。身の回りで何か試練が起きたとしても、それを後悔するのではなく楽しむことを優先します」
――楽しむ?
それは、ヘルクレスに危害を加えたことが楽しかったと。
そういうことなのか。
「他に……いうことはないのか?」
とうとうアンミュレーネは剣を抜く。
最早、斬るのを躊躇する理由など微塵もない。何かあちらに手があるにしても、そんなものはもう無意味だ。どんな攻撃をされようとも、全て完封してみせる。
「そうですね、一応謝っておきます。こうなってしまったのは、私が原因の一つみたいなので。……まあ、全然私が悪いとは思ってはいませんが、そう言った方が世の中渡っていけますからね」
「ああ、そうか」
もう、禅問答のような質疑応答はしたくない。
アンミュレーネは躊躇いもせず、剣尖をKの腹部に突き刺――
ドゴォオオン、と横の建物が爆発する。
「なっ……」
横から飛来してくる瓦礫の雨に、アンミュレーネは剣で対応する。体に当たってくる大きめの瓦礫にだけを凝視して、横っ飛びに回避する。
「はぁ……はぁ……」
全てを破砕しきることはできなかったが、致命的なダメージを負うことはなかった。Kのことを見やると、さっさと退避していて、どういう理屈なのか、全くといっていいほど外傷が見当たらなかった。
あの突発的な爆発にも関わらず、アンミュレーネよりも生身の体でいい動きをするなど考えれなかった。やはり、《精霊》を使役して、瓦礫をその身に受けなかったとしか想像できない。
だがそれよりも今は、一体何が起こったのか。
その事実確認が何より優先されるべきこと。
Kは何もしていない。
少なくとも、可視化できる怪しい挙動など見受けられなかった。
アンミュレーネはKがどんな反撃をしてくるか分からなかったので、全神経を集中させていた。いくらKが未知数の力を持っていたとしても、何の予備動作もなしにここまでの規模の破壊を引き起こせるとは考えづらい。
ということは、一体――と、建物の破壊によって舞い上がった白煙が晴れるのをじっと堪える。ただでさえ真夜中。見えづらいが、それでも薄くなってきた煙の中から微かに見えたのは、二つの人影。
一つは、倒れふしている人間と、もう一つは、その人間を吹きとばしたと思われる、対角線上にいる人間。
さっきの破壊はまさか、建物を人間ごと吹き飛ばしたということか。
そんなこと一体誰ができる。
それにしても、一体どういうことなんだ、と独りごちようとすると、声が掠れて何も言えなかった。
何故なら、倒れている人間は見知った顔だからだ。
こんなところにいるはずがない。
今も重症で、ベッドにいなければ、安静にしていなければ命の危険すらある人間だ。
「へ、ヘルクレス……?」
信じられないという想いで駆け寄る。
衰弱しきっている彼女の表情は土気色どころか、全く色というものが感じられない。息をしているのかどうかすら怪しい彼女に、心が揺さぶられる。
は、がっ、と訳の分からない声が、口から漏れる。
何故か眼蓋の辺りが熱くなって、瞳がフィルターがかる。
なんで。
なんで。
いったい、なんでこんなことに。
誰のせいだ。
いったい、誰の――
「アンミュレーネ……!? なん……でお前がここに……」
弾かれたように、声の先へ首を捻る。
そこには、傷だらけのナジットが立っていた。
その手には炎熱を帯びた剣を持っていて、全身は返り血を浴びていた。まるでバケツいっぱいに入った血を、頭から被ったようだった。
赤く染まったナジットは、狂気じみた表情でこちらを睨んできた。憎々しげに、ここにいることを、存在そのものを全否定するような双眸だった。
「それは……こっちの台詞だ」
ナジットが……ヘルクレスをこんなにした人間。
ナジットという人間に、好意というものを一切持っていなかった。むしろ悪意しか持っていなくて、見る度に憎しむという感情すら胸の内に感じていた。
だが、ただそれだけだった。
つもりに積もった恨みつらみも、コロッセオで無心に戦うことによって、忘我できていた。
今にして思えば、その程度の怒りだった。
だが、今はどうだ。
目の前で。
アンミュレーネの目の前で、ヘルクレスが倒れていて。それを実行した人間が、のうのうとまだ生きている。
そんなことが許されてたまるのか。
そう思うと、形容しがたい感情が生まれる。
初めての――感覚。
なんといえばいいのか。
とにかく、目の前が真っ白になる。まるで霧にでも包まれたように何も見えなくなって、足元がおぼつかない。瞼が痙攣する。全身が痛くて熱い。
ああ、そうか。
これが――怒りだ。
「……来るな」
ナジットは恐れ慄く。
アンミュレーネに焦点が合っていない。まるで、アンミュレーネの力ではなく、もっと何か別のことに恐怖しているかのようだった。
それでもアンミュレーネは、修羅と化して剣を握る。
ただ眼前の敵を斬る。
それだけを考えて――
「速く、逃げろっ……!」
ナジットの叫びとともに、アンミュレーネは後ろから闇のように黒い剣で突き刺される。
剣は、完全に――身体を貫通していた。
がっ、と嗚咽にも似たかすれ声を出す。
何も信じたくなくて。
それをやった人間が誰なのか、頭の中で否定したかった。だが、突き刺された方向から、犯人は一体誰なのかが分かってしまっていた。
ス――と、闇の剣を引き抜かれると、膝をつく。
貫通した腹部をさすってみると、あまりにも切れ味が鋭いのか、出血はしていない。だが、傷口から痛みが波紋のように広がっていく。歯噛みしても、堪えきれない激痛が、心臓の動きと同調して、ズキズキと断続的に痛み出す。
ただの剣撃ではない。
何か、特殊な、超常的な力だ。
「そいつはもう……手遅れだ……」
ナジットは、ただ現実をそのまま告げるかのように、
「もう……殺すしかないんだよ」
ヘルクレスを殺すことを呟いた。




