XXXIII.鍵はいつも近くにある
ジャラリ、と鳴る冷たい金属で精製されている金属の手枷。
両手首の動きを制限するだけでなく、手枷の鎖は天井へ固定されていて、全身の動き全てを制限するという徹底っぷりだ。
そこまでアンミュレーネの抵抗を警戒されているとしたら光栄の極みといったところだが、実のところ意気消沈していてそれどころではなかった。
オリジスト牢獄。
奴隷乙女が市場へ売り物として扱われる前に、まずはこの牢獄へ送還される仕組みになっている。もちろん、アンミュレーネもここへ足を踏み入れたことがあり、奇妙な懐かしさすら覚える。
他の奴隷乙女達と鉢合わせしてしまったらどうしようかと気構えていたのだったが、独房へと押しやられたので杞憂だった。アンミュレーネのコロッセオでの活躍は、他の奴隷乙女に知れ渡っているせいで、あまりいい顔をされない傾向にある。
ただでさえ訳も分からず郷愁すら覚えるこの地に再び落とされて気が滅入るというのに、陰鬱に拍車がかかるような邂逅など体験したくもない。ただでさえここで経験したことは思い出したくないのだ。
だが、思い出したくないと撥ねつければ撥ね付けるほど、何故かぼんやりとここに収監されていたことがモヤとなって浮かんでくる。
この狭い密閉空間で長時間に渡って過ごし、精神が疲弊しきった時に倫理観の説明を永遠に男によって諭された。生易しい声だったが、その場から逃げてしまえば懲罰が与えられるという恐怖感から、男の一方的な意見を聞くしかなかった。
自分が奴隷乙女であることは当然だと永遠に押し付けられ、そうじゃないと反発するればする人間ほど、この監獄の奥へと進んでいくことになる。他の奴隷乙女の悲鳴や絶叫が鼓膜にこびりつきながら、聞こえない振りをして眠れない夜を明かしたこともあった。
だからアンミュレーネは自分が奴隷乙女であることを受け入れることにした。そうしなければ精神が保っていかず、この監獄から抜け出せないことを意味していたからだ。
認めるのは今のただ一瞬だけで、オリジスト牢獄から抜け出せば奔放に振舞おうとあの時は思っていた。だが一度認めてしまえば、ずるずるとなし崩し的に自らの運命が決定づくと知ってしまったのはいつの頃だろうか。
思い出したくもない過去の闇が肉体を蝕んでいくようだった。身震いするようにして、ごみ屑のような記憶を久遠の彼方へと投射する。
「思っていたより元気そうで安心しました」
絡まった思考の糸を解く前に現れたのは、薄気味悪い笑みを貼り付けているKだった。
こいつが神出鬼没であることは既知だったはずだが、ここまでくると気味が悪いを通り越して感嘆する。アンミュレーネにしては珍しく、興味すら湧いてきた。
「なんのようだ。どうしてこんなところにまで来れた。というより一体どうしてこんなところにいる?」
「質問が多くて答えられませんよ。そんなことよりもあなたが一番知りたいことを、まず教えておきましょう」
Kはアンミュレーネの今日中を見透かしたようないい口で、
「ヘルクレスは生きていますが、非常に危険な状態です。事は一刻も争います」
ギシ、と胸が軋む音がする。
ヘルクレスの傷ついた姿をまだ見てはいないが、凄惨な容態を想像するだけで胸に深い傷を負う。
「ベラプの医者では到底治すことができない傷を負っている彼女を救うためには、あなたの力が必要です。どうか協力していただけないでしょうか」
「こんな有様の私が、どうやって彼女を救うって言うんだ」
「確かにあなたは今檻に囚われている。だが問題はそんなところにはない。鍵はいつだってあなたの目の前に転がっている。それを今まで開けようとしなかったのはあなただ。つまり事の発端はあなただったということです」
「なんだ。お前も私がヘルクレスを襲った相手だとでも言っているのか」
「それは違います。はっきりと断言してあげます。ヘルクレスがあんな状態になってしまった直接の……有り体に言えば犯人はあなたではありません」
理知的な物言いをするKに何やら違和感がある。
願望や漠然とした予想をただ言い募っているという様子ではなく、Kは確信めいた瞳の色をしていた。
「……随分、はっきり言うんだな」
「ええ、もちろんです。何故なら私は犯人を知っているからです」
鎖で繋がれているということも忘れて、掴みかかる勢いでKへ突進する。だが、天井へ繋がっている鎖によって、ふたりの間に隔てている檻までは届かなかった。
「誰だ!」
伸びきった鎖が手首を痛めつけながらも、口角泡を飛ばしながら詰問する。我ながら冷静さを失くした行為だったが、Kは余裕綽々で答える。
「残念ながら私の口からはとてもとても……」
わざとらしく肩を上げながら、芝居がかった語調でこちらをチラリと一瞥する。こちらが感情を顕にすればするほどに嬉しがるような気がして、おずおずと元の場所に座りなおす。
「いいんですか。誰が犯人なのかを知らず、このままここに留まる気ですか。あなたは濡れ衣を着せられたまま、檻の中で籠城するつもりですか」
「……別にいい。不遇は私にとって親友みたいなものだからな」
「そうやってすべてを投げ捨てて閉じこもるのはあなたの勝手ですが、本当の親友すら捨ておくなんてこと、あなたにできるなんて思いもしませんでした」
親友。
ヘルクレスと自分の関係性がそんなものであるなんて考えたこともなかった。顔を顰めながら嫌々対応するアンミュレーネに、ヘルクレスはたまに辛そうな表情を浮かべることがあった。
いくら空気が読めない人間だといっても、あれほどあからさまに拒絶の意思を表せば多少は感じ取れる時もあるらしい。そんなアンミュレーネのことを、もしかするとヘルクレスは恨んでいるのかもしれない。
ヘルクレスがアンミュレーネのことをどう思っているのかは、態度や言動からおおよそ察することはできるがあくまで表層的なものでしかない。心の奥底ではどんなどす黒い感情が沈殿しているのか誰にも分からない。
奴隷乙女として生涯を生きてきたアンミュレーネは、すっかり人間不信に陥ってしまった。相手の気持ちが分からないのなら、お互いの胸中を確かめ合えばいいだけの話。もしかすれば衝突するのやも知れないが、それでもやる価値はある。
だが、それが怖いのだ。
今までアンミュレーネは誰かに疎まれるようなことがあれば、すぐさま身を引いた。心の距離を置いて、びびぃとしっかりと太い線で線引きをしてきた。誰かとのあいだに壁を作って、はねつけてきた。
そのせいで冷酷な性格であると他人から間違った評価を頂いてきた。
だが、それで傷つくことはなかった。いくら罵詈雑言が投げられようとも、強固な壁越しでは、伝わる言葉もありはしない。傷つくダメージが少ないから、自分は壁の中に逃げ込んでいた。
独りはとても楽だった。
他人を寄せ付けず、ただ黙々とアンミュレーネはコロッセオで戦ってきた。他の人間は全て敵だと断定してきたのも、そうして距離をとった方が信用なんて面倒なことをしなくても済んだから。
そんなふうな生き方をしてきたアンミュレーネには、素直に生きるなんてことはできなかった。ヘルクレスのように陽気で、実直な生き方ができればどれだけいいだろう。
だが今のアンミュレーネは頑固に今の不器用すぎる生き方しかできない。どれだけ皮肉を言われようとも、ここに居座ることはもう決めたことだ。このまま腐っていけば、コロッセオで戦いに明け暮れていた頃よりも楽に違いない。
「あなたのような人に交渉を持ちかけたのは、私の失敗だったようです。どうか以前から頼んでいたことは忘れてください。他の人間をあたってみます」
諦めたように、それから失望したようにKは睥睨する。
「そうか。やっと私につきまとってくる輩が一掃されて、肩の荷が降りた気分だ。さっさと私の視界から消えろ」
八つ当たりするような言い方をして、アンミュレーネは殻に閉じこもるようにして顔を伏せる。足と足の間に顔を入れこんで、滑ついた石畳を見つめる。それから長らく沈黙の時間が過ぎた後、顔を上げてみるとそこには誰もいなかった。
本当にどこかに行ってしまった。
普段は鬱陶しく思える人間ほど、いなくなってしまうと静かになってしまい、どこか一抹の寂しさを感じてしまう。だがそれ以上に清々とするから、別にどうだっていいのだが。
何もかもがどうでもいい。
もしかすればヘルクレスを討ってしまったという汚名をきせられて、今度こそ奴隷乙女としての運命を全うすることになるだろうか。それとも犯罪者の末路としてふさわしい絞首台へと導かれるのか。
ヘルクレスは一体どうなるのか。
このまま容態が悪化して、もしかすると絶命してしまうのか。あのうざいほどに明るい笑顔をもう見ることなどないのか。
そんなことはどうでもいい。何故ならここから抜け出すことができないアンミュレーネにとって、全ては瑣末なことで関係なんてないのだから。
すると、何やら鈍く光る物が瞳に映る。
もしもアンミュレーネが何も期待せずに、ずっと足元を眺めていたら気づくことがなかった小さな小さな光。本当に心根からどうでもいいと諦観しきっていたのなら、まず視界に入ってもどうでもいいと一蹴したであろう物がそこには落ちていた。
いや、落ちていたというには、鎖でつながれたアンミュレーネがギリギリ届くような場所に置いている。悪趣味めいたことをする奴には、心当たりがありすぎて変な笑いすらこみ上げる。
「あいつか」
今更迷いなどなかった。
アンミュレーネは置いてあった鍵を拾って、手枷と檻の錠を開けて外の世界へと飛び出した。




