笑う首
――事件当日、豊紈が見たものとは。
「私はあの夜……確かに飛頭蛮を目撃しました」
これまでの流れではずっと桃義が横から場をかき回していたのだが、目撃者の豊紈から、一番聞きたかった話がやっと聞けそうである。
重い口を開いた豊紈は、姜道士からもらった魔除けの数珠を、しきりに指で弄っている。ひどく不安そうだ。
雪華は当夜の状況を確認した。
「桃義さんが武官と宦官を足止めしているあいだに、あなたと黄賢妃はこっそり建物から抜け出し、境内を歩き回ったのですね?」
豊紈が小さく頷いてみせた。
「はい、そうです。私たちはふたり並んで、裏門のほうに向かいました。それは黄賢妃の指示でした――『表門で小火騒ぎが起きたということは、魏祥は反対側にいるのではないかしら』とおっしゃいまして」
その判断は理に適っている。
豊紈が小声で続けた。
「境内の端に向かって歩いて行くと、前方にどっしりした造りの牌坊が見えてきました。寺院は山の上に建っているので、あの門をくぐると、先は下り階段になっています。門柱のあいだに満月が浮かんでいて、牌坊を背後から明るく照らし出していました。黄賢妃が眉根を寄せ、『なぜ門衛が誰もいないのかしら?』と呟きを漏らしたのですが……あとで聞いたところ、表門付近で上がった火を消すのに手こずり、たくさんの桶に水を入れて、それを大勢で手渡しして対処する必要があったそうです。人手が足らず、裏門を守っていた門衛も消火を手伝っていたのだとか」
都の城門では兵が持ち場を離れるのはありえないだろうが、寺院なので外敵をそこまで警戒する必要がなく、消火活動を優先させたのは自然な流れだ。
「まだ牌坊までは遠かったため、黄賢妃が私の手を握り、『急ぎましょう』と促しました。この段階で黄賢妃は『魏祥は悪いことをしている、彼女は今、牌坊の裏にいるに違いない』と確信しているようでした。私が頷いてみせた時、遠くのほうで犬の鳴き声がしました。私たちがいる位置からはやっと聞き取れた程度でしたが、断末魔のような悲しくおそろしい声でした」
月明かりの中、遠くから聞こえてきた犬の断末魔――……一体何があったのか。
豊紈が体を縮こませ、ぼそぼそと語る。
「犬の鳴き声は牌坊の向こう――下方から響いてきました。おそらく下り階段の途中でしょう。寺院には人懐こい垂れ目の熊犬がいて、いつもは裏門付近に張りついているのですが、姿が見えません。黄賢妃が『まさか』と恐怖に顔を引きつらせ、縋りついてきました。黄賢妃を転ばせたらまずいので、私は牌坊から視線を外し、お体を支えたんです。その時、フッと視界が翳り――……」
当時の状況を思い出しているのか、豊紈の瞳が小刻みに揺れ、一瞬上の空になった。
雪華は固唾を呑みそれを見守った。
そのまま空白の時が流れ――。
「――黄賢妃が狂ったように絶叫しました」
そう語る豊紈の語調は不安定で、当時ふたりが味わった混乱と恐怖が雪華にも伝わってきた。
豊紈が唇を震わせながら続ける。
「私は一瞬、訳が分かりませんでした。すぐ隣で黄賢妃が叫び続けていて、すごい力でぐいぐい引っ張るので、余計に混乱してしまって……爪がギリギリと私の手に食い込み、とても痛かった。黄賢妃が目を見開いて牌坊のほうを見ているので、私も咄嗟に首を左に回し、そちらを見ました。すると……『あれ』がいたんです。門の先で月を背景に、飛頭蛮が宙に浮かび、私たちを見て嗤っていました」
雪華は背筋がぞっとした。何かおそろしいものがこの場に潜んでいて、皆を死角から眺めているような錯覚に囚われる。
「飛頭蛮はどのような外見をしていましたか?」
「月明かりを背後から浴びていたので、顔の中心部が影になり、細部までしっかり確認することはできませんでした。ただ、髪の長い女性であるのは間違いないと思います。結い上げておらず、ざんばら髪が夜空に広がって見えました。胴体がなく、首だけが不気味に浮いていたのです」
「大事なことを確認したいのですが……その飛頭蛮の顔は、魏祥さんと似ていませんでしたか?」
雪華はついに核心に迫った。状況から判断すると、『魏祥の正体は飛頭蛮である』というのが矛盾もなく筋が通る。
しかし……。
「それはないわ」
ここで桃義が口を挟んだ。
「なぜそう言い切れます?」
そもそもあなたは現場におらず、飛頭蛮を見ていないでしょう?
魏祥が飛頭蛮除けのお守りを着けていたから、違うと主張しているの? けれどその数珠には、なんの効力もないかもしれないわよ。
桃義が口元をへの字に曲げてから答えた。
「私はこの話を、豊紈だけでなく、黄賢妃からも聞いているんです。豊紈も黄賢妃も言っていることはまったく同じで、飛頭蛮の顔は醜く歪んでおり、鬼のようだったと語っています。宙を飛ぶ首が少し回転して、裂けるほどに大きく口が開いているのが見えたのですって。確かに魏祥は普段髪を結っているけれど、堅苦しいのが嫌いで、ひとりになるとほどいてしまう癖がありました。けれど、その……魏祥はなんていうか……醜い女ではないので」
最後のほうはあまりにも小声で、よく聞き取れなかった。
戸惑って豊紈のほうを見ると、彼女が困り顔で説明してくれた。
「はい、あの……魏祥は美人なんです。私と黄賢妃が見た鬼のような形相の飛頭蛮とは、似ても似つきません。絶対に違うかと言われると、周囲は薄暗く、視界良好ではなかったので断定はできませんが……でもやはり美しく優雅な魏祥とは明らかに違いました」
「飛頭蛮を確認できた時間は?」
「ほんのわずかです。すぐに消えてしまいました。黄賢妃は私よりも早く飛頭蛮に気づきましたけど、それでもそんなに長い時間見たわけではありません」
視界が悪く、見えたのはわずかな時間……これをどう判断したものか。
恐怖で認識が歪み、見間違えた可能性はもちろんある。
しかし黄賢妃と豊紈、その場にいたふたりの証言は矛盾なく一致しているようだから、すべてを『目の錯覚』で片づけるのは無理があるかもしれない。飛頭蛮は月明りの中に浮かんでいたそうなので、まるきりの闇夜でもなく、ある程度は目視できたはずであるし……。
「そのあと……飛頭蛮が消え、豊紈さんはどうしましたか?」
飛頭蛮の正体を突き止めるのはとりあえず保留にして、雪華は先を促した。




