雪華殿が言う『ありがとう』は、この世で一番美しい響きだと思います
その後、黄賢妃のもとを訪ね、寝込んでいる本人だけでなく、お付きの女官二名とも面談した雪華は、状況の複雑さに頭を痛めることになる。
――あとで朱翠影に詳細を報告しよう。
誰かに話すことで、頭の中が整理される。
* * *
一刻前に通った道を逆に辿り、ふたたび後宮の入口に着いた雪華は、案内役を務めてくれた甜甜に礼を言って別れた。
――これにて本日の調査は、終了。
ひと息つき、後宮と外を隔てる堅牢な通桂門を開けてもらい――……。
「そうか……これから朱殿を探さなければ」
外に出る直前、雪華はひとり呟きを漏らした。
後宮に入る前は、調査のことで頭がいっぱいだったので、彼の予定を確認していなかった。
朱翠影は高貴な身分だ――一刻前、雪華を後宮に送り届けたあとは、旅の疲れを癒すためにどこかに行ってしまっただろう。
別れる前に「住居にご案内いたします」と言ってくれたけれど、彼からすれば『今なら一緒にいるから、連れて行ってあげてもいいよ』くらいの軽い発言だった可能性はある。後宮前で別れたあとは『もう義務は果たした、あとは勝手にしてくれ。ひとりで安宿でも探せば?』と気持ちが変わっているかも。
どうしようか……もしかすると門衛が朱翠影の居場所を知っているかしら? 試しに「朱殿に会うには、どこへ行けばよいですか?」と尋ねてみようか。
そんなことを考えながら外に出ると、通桂門のすぐそばに建てられた東屋から、朱翠影が出て来るのが見えた。
え……。
あまりに驚き、雪華は目を瞠って立ち尽くす。
端正な彼が対面に立ち、案ずるようにこちらをじっと見つめて口を開いた。
「――雪華殿、無事ですか」
雪華は呆気に取られたまま、上の空で言葉を返した。
「ええ……おかげさまで」
「おかげさまでと言われると、耳が痛いな」
苦悩に満ちた彼の佇まいは、しっとりしていてどこか耽美に感じられる。
それで雪華はますます混乱してしまった。
「どうして耳が痛いのです?」
「あなたを後宮に送っただけで、私は何も力になれていない……故郷を離れ、心細いはずの雪華殿をひとりで行かせた。本当に無事ですか?」
彼がこちらに手を伸ばしかけ、肩に触れる前にピタリと動きを止めた。
宙に浮いた朱翠影の手の甲を眺めるうちに、雪華は胸の中をぎゅうっと締めつけられるような、くすぐったい心地になった。
故郷を離れ、心細いはず……ずっとそんなふうに気遣ってくれていたの?
だけどあなたはいつも隣にいてくれたじゃない――都へ向かう道中で、美しい羊躑躅を見た時だって、あなたは隣にいてくれた。
「私に触れずに手を止めたのはなぜ?」
「女性に気安く触れるわけにはいきませんので」
朱翠影の行儀の良さは驚異的だった。故郷で散々絡まれた女たらしのうつけ者、熊郎獲なんて、何かというとベタベタ触ろうとしてきたけれど……。
けれどまあ、朱翠影の場合は動機が違うか。
「そもそも……朱殿はなぜ私に触れようとしたのですか?」
「触れて、安心したかったのかもしれません」
「私に触れると安心できるの?」
謎すぎて眉根が寄る。
「雪華殿が中で嫌な思いをしたのなら、触れたらそれを分かち合えるかも、と思って……」
言っているうちに自分で馬鹿馬鹿しくなったらしく、朱翠影が苦い顔つきになり身を退く。
それを見た雪華は、衝動的に彼の手を取っていた。
「朱殿――ごめんなさい」
「なぜ詫びるのです?」
「分からないけれど……私はあなたに悪いことをしたかも」
少し泣きたい気持ちになっていた。許してくれますか、という気持ちで朱翠影を見上げると、彼が驚いた様子で固まる。
ふたり手を取り合い……しばしの時間が流れた。
やがて朱翠影の視線が物柔らかになった。
「……詫びられるより、ほかの言葉が聞きたいです」
「そう――ええとじゃあ――私は無事よ、これでどうかしら?」
「良い感じです」
褒められ、雪華は笑みを浮かべた。
心がほぐれて、彼にもっと気持ちを伝えたくなった。
「朱殿、門の前で待っていてくれてありがとう。あなたの顔を見たら、すごくほっとしたんです」
「雪華殿が言う『ありがとう』は、この世で一番美しい響きだと思います」
「え、それはさすがに……」
「なんですか?」
「……甘やかしがすぎますよ」
言葉に詰まりながらなんとか朱翠影をたしなめたものの、なぜか急に恥ずかしくなり、雪華は耳まで赤くしながら俯いてしまった。




