もうハサミを使ってはだめよ
「では黄賢妃の殿舎まで案内していただける?」
もしかすると飛頭蛮を目撃してから、病んで寝込んでいるかもしれないが、本人から話を聞かないことには何も始まらない。
そこで甜甜に案内を頼み、並んで歩き始めた。
そういえば……先ほど見た『後宮の禁忌』こと白女士は、煙のように消えてしまったな……雪華は視線を巡らせ、周囲におかしな気配がないかを探った。
ここは後宮の入口部分なので、門を管理する女官たちが行き来しており、怪しい者の気配を探るのが難しい。また故郷にはここまで高い版築壁は存在しなかったため、圧迫感から感覚が狂わされる。
白女士の姿は後宮に入る前、通桂門の外から一瞬姿を確認できたのが最後で、雪華が二重門をひとりで通過しているあいだに、木陰に佇んでいた彼女の姿はなくなっていた。
朱翠影から「絶対に関わってはいけない人です。目を合わせず、近づかず、速やかに離れるようにしてください」と警告されたので、向こうが黙って去ってくれたのは、かえって良かったのかもしれないが……。
「見てください」
隣を歩く甜甜が、前方を指して楽しげに告げる。
「前をふさいでいる朱色の壁――一部が大きく丸く切り取られていますよね? 今私たちがいるのが後宮の入口部分ですが、広場はあそこで終わりです。丸く切り取られた開口部を通過すると、その先は妃たちの居住区に入ります」
「月に向かって歩いて行くような、不思議な感じね」
立ちふさがる朱壁は奥に何層か連なっているらしく、ぽっかりと開いた開口部の円環が、遠近感でそれぞれずれて見え、中心部の穴に引き込まれる。
「月――まさにそうなんです。あの開口部を通ることを『桂月輪くぐり』と言いまして、後宮に入る者たちへの『祝福の願かけ』という意味があるそうですよ」
甜甜の案内は分かりやすくて見事だと、雪華は感心した。そして感心すると同時に、頭の片隅で『けれど祝福の願かけは効いていないみたい』と考える。
だって名家出身で、意気揚々と後宮入りしたはずの黄賢妃は、実家が没落してこれから出家する運命であり、おまけに飛頭蛮を目撃して恐怖に怯えているのだから……。
「ねえ甜甜……入口部分に『桂月輪くぐり』というおまじないがあるのに、後宮の人たちは『飛頭蛮が入り込んだ』とおびえているわけね?」
雪華が横目で甜甜を見遣ると、
「それはそれ、これはこれです」
と身も蓋もない答えが返された。
やれやれ……ため息をついた雪華は、話に気を取られすぎていたのだろうか。
朱壁の丸穴をくぐったところで、左隣にいる甜甜のほうに視線を向けていた雪華は、うなじにゾクリとした寒気を感じた。
死角に誰かいると気づいたのと、背後から声をかけられたのが同時だった。
「よくいらした、救国の巫女よ」
ハッとして振り返ると、壁に寄りかかって立つ老齢の女官がひとり――。
雪華は探るように瞳を細めた。
後宮の禁忌、白女士――一体なんの用だ?
白女士はあだっぽく腕組みをし、こちらを横目で眺めている。その口元は優美に笑んでいた。
彼女がよく響く低い声で告げた。
「――もう鋏を使ってはだめよ」
短く警告したあとでサッと壁から体を離し、しなやかな身のこなしでその場から立ち去った。
* * *
鋏の件を知られている……白女士の姿が消えたあとも、雪華はしばらくのあいだ動けずにいた。
無意識に帯のあたりを手のひらでさする。
家を出て行った姐姐から鋏を託され、『肌身離さず持ち歩くように』と手紙で指示されたので、雪華はそれを守っていた。あれからいつも帯に鋏を挿している。
しかし今は襦裙の上から、丈長の背子を羽織っているため、帯に挿した鋏は外から見えないはず、なのだが……。
慶昭帝は「不思議な鋏を持つ、救国の巫女がやって来た」というふうに噂を流したのだろうか……?
いや――雪華はそれをすぐに否定する。
神秘的な存在として皆の気を惹きたいなら、かえって詳細は伏せたほうが良い。慶昭帝の性格からして、『救国の巫女』という言葉の響きだけを効果的に利用し、鋏の件は伏せるはずだ。
すると白女士は、なんらかの特別な手段を使って、鋏の件を嗅ぎつけたことになる……?
考えを巡らせていると、甜甜が困惑した様子で声をかけてきた。
「雪華様……先ほど声をかけてきた女官と、お知り合いですか?」
先ほど声をかけてきた女官、ね……雪華は訝しく感じた。
「甜甜はあの人を知らないの?」
「ええ、初めて見ました。私はここへ来てまだ半年なので、全員と顔見知りというわけではありません。ただ……人の顔を覚えるのは、得意なほうなんですけどねえ……」
それなのになぜ顔すら知らなかったのだろうと、甜甜は不思議に思ったようだ。
それを聞いた雪華は、『白女士は神出鬼没なわけね』と気味悪く感じた。
朱翠影には「後宮の禁忌だから関わるな」と忠告されたけれど、向こうが興味を持って接触してくるのは止めようがない。
それにしても、「もう鋏を使ってはだめよ」……か。
この先も使い続けたら、一体どうなると言うのだろう。




