なぜに過保護発動なのですか、朱殿……
雪華は立ち尽くし、走り去る豆妹を見送った。
戸口から出て右に向かったので、隣家に戻ったのだろう。
呆けたように開いた戸口を見遣る。いつもより間口が狭く感じた。
通路には賊の流した血が溜まっていて、生々しくもあるし、現実味を欠いているような気もする。
夢か、現か……ぼんやりしかけたところで、嗅覚が刺激された。
熊家の火事がおさまったのかは不明だが、まだ外からいぶくささが漂ってきて、それが妙に神経を逆なでする。
この状況のすべてが、混沌としていて、無慈悲で、滑稽に感じられた。
「大丈夫ですか?」
朱翠影に気遣われ、雪華は上の空で、
「分かりません」
と答えた。
一拍置き、深呼吸をしてから、伏し目がちに告げる。
「旅支度をしてきます……そうお時間はいただきません。しばらくのあいだこちらでお待ちください」
現在地は店舗部分で、客席があるので、朱翠影は適当に座って待つだろう。
店の奥にある引き戸の奥は生活空間になっている――雪華は荷造りをするためそちらに向かった。
視界がぼんやりと歪み、頭の中がふわふわしている。
怖いのか、不安なのか、悲しいのか、自分でもよく分からない。
よく分からないから、今は考えるのをやめよう……雪華は足早に自室へ入った。
無感情に手を動かし、貴重品、当座の着替え、必要な日用品を選んで、大きな一枚布の包袱でくるむ。
――あっという間に、終わり。
団子がゆで上がる時間よりも早い。
ふたたび店のほうに戻ると、朱翠影は中におらず、開いた戸口の外にいた。こちらに背を向けて佇んでいる。
「――朱殿、お待たせしました」
玄関口まで行き声をかけると、朱翠影が振り返った。雪華の全身を一瞥してから、何かを探すように視線を動かし、尋ねる。
「荷物は奥に?」
「いえ、背負っている、これがすべてです」
雪華は首下の結び目を手で示してから、分かりやすいようにくるりと回り、背負った包袱を彼に見せた。
彼が訝しげに眉根を寄せる。
「ほかに櫃などは?」
なるほど……朱翠影が普段暮らしている優雅な都では、男女問わず荷物は多いだろう。
けれど雪華は貴族ではないし、立派な脚つきの櫃にあれこれ詰めて、誰かに運んでもらえるような身分ではない。
「いえ、そんなものは重くて持ち運べませんので」
「移動は軒車ですから、大きな荷物も運べます。積み下ろしは私が行いますよ」
朱翠影が当たり前のようにそう言うので、雪華は耳を疑った。
積み下ろしは私が行いますよ? いや――身分で考えれば、むしろ朱翠影の荷物を、下っ端の私が積み下ろしすべきなのでは?
というか彼は今、「軒車」と言った? 空耳?
ありえない……だって「軒車」は貴人が乗る馬車のはずで……。
そこまで考えたところで、雪華はゾッと鳥肌が立った。
まさか!
嫌な予感がして戸口から外に出ると、通りの先に二頭立ての立派な馬車が停まっているのが見えた。
雨風をしのげる半円型のしっかりした屋根が上部を覆い、四方を囲う瀟洒な壁までついている。これは雪華の知っている馬車ではない。もはや車輪のついた動く『建物』だ。
「朱殿、あれはなんですか……」
「あなたにふさわしい乗り物でしょう?」さらりと穏やかに述べる朱翠影は、一周回って意地悪な気がしてきた。「見てのとおり、ふたりで乗ってもまだ余裕があります。さて――あなたは荷造りをし直す必要がありそうです。今度は私も手伝いましょうか?」
質問の形を取っているが、どういう訳か若干の圧を感じた。
雪華は納得がいかなかった――「平民のくせに荷物が多すぎる、図々しい、わきまえろ」と怒られるなら分かるけれど、「少なすぎる、やり直せ」と言われるなんて。
少し考えてから、雪華は口を開く。
「やはり荷物はこれだけでいいです。宮城で働くなら制服があるでしょうし、平民の服を持ち込んでも、結局は捨てることになるかもしれません」
困らない程度にお金はあるから、不足がある場合は、都度買い足せばいい。家出をした姐姐は商売で稼いだお金を持って行かなかったので、手つかずのまま残されていたのだ。姐姐も雪華も、もうこの家には戻らないだろうし、財産はすべて背負った包袱の中に入れた。だから同行する朱翠影に迷惑をかけることもないだろう。
――そんなふうに考えていると、彼が、
「まあいいか……途中で私が買い足していけば」
と小声で呟きを漏らしたので、雪華は顔が引き攣った。
……なぜに過保護発動なのですか、朱殿……。




