表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
455/513

18








 横たわっているのは、恐ろしいほどの静寂と闇。


 トゥーサンが用意していた火打石で松明を灯してはいたが、それでも数歩先には漆黒の世界が待ち受けていた。

 二人の足音と息遣い、そしてどこかで水が滴り落ちる音だけが、この地下通路に響きわたっている。


「ここ、幽霊とか出るんじゃない?」


 ささやくようなカミーユの声が、長い通路の奥の闇へ溶けていく。

 一方、トゥーサンは平然と普段どおりの声音で答えた。


「出るかもしれませんね」

「出るかもって……そんな、普通に言わないでよ」


 カミーユはさらに小声になる。


「デュノア領は長年ローブルグとシャルムの国境に位置し、両国が争いになった際には戦火に巻き込まれました。かつて非常の際には、この通路を通って街の者が館へ逃げこんだこともあったそうです」

「へえ、そんな使いかたもあるんだ」

「道の半ばで息絶えた者や、逃げ切れなかった者も大勢いたでしょう。多くの人々の思いがこの地下通路には残されているはずです」

「なんだか寒くなってきたよ……」


 カミーユは両手で自分自身を抱きしめる。が、トゥーサンはあいかわらず顔色ひとつ変えなかった。


「地上よりは、地下のほうが暖かいと私は感じていますが」

「物理的な話じゃないんだよ、トゥーサン」


 カミーユは傍らを歩む若者を見上げる。


「トゥーサンは幽霊とか怖くないの?」

「幽霊はなにもしてきません。生きている人間のなかに潜む悪魔のほうがおそろしいと、私は感じます」

「……トゥーサンはそのさ、人のなかに潜む悪魔ってやつを見たことがあるの」

「ええ、カミーユ様。すべての人間のうちに悪魔がいるのですよ」


 再びカミーユは両手で自分自身を抱きしめなおす。


「さっきより薄ら寒くなってきた。……悪魔は、おれやトゥーサンのなかにもいるのかな」

「ええ、きっと」

「姉さんにも?」

「すべての人間です」

「姉さんには、きっといないよ」

「どうしてそう思うのです?」

「だって、姉さんなら自分自身のなかにいる悪魔に勝てると思うから。いたとしても、とっくに追い出されて、悪魔は出ていっているよ」


 よく見えなかったが、トゥーサンは小さく笑ったようだった。


「悪魔に打ち勝つ方法を知っていますか?」


 問われたが思いつかなかったので、黙ってトゥーサンへ顔を向ける。


「信じることです」

「なにを?」

「人はすべて、神に愛されて生まれてきたということをです。いえ、人だけではありません。この世界にあるものすべてが、神に愛されたものです」

「それを信じると、どうして悪魔に勝てるんだ?」

「気がつくからですよ、この世界がどれほど愛され、自分が、相手が、どれほど大切な存在であるかということを。気づいたとき、おそらく悪魔は逃げていきます」


 ふうん、と考え込んでから、カミーユはひとつうなずく。


「なんとなく、わかったような気もする」

「ええ、なんとなくでいいのです。何事も完全である必要はないんですよ」

「トゥーサンって、なんていうかさ、いろいろ知っているね」

「カミーユ様より少し長く生きているというだけです。私だって未だに不完全の塊ですよ。だれかを憎んだり、恨んだりすることだってあります」

「だれかを憎んだり、恨んだりする気持ち――それが〝悪魔〟?」

「そうですね。けれど他にも様々な悪魔がいます。数え切れないくらいの。感情を持つことは大切ですが、その感情をもってして、他の人間を貶めようとしたとき、人は本当の悪魔になるのでしょう」


 トゥーサンの話を聞いていて、カミーユは無言になる。

 考え込みながらカミーユは暗闇を歩んだ。


 雪解け水が滴っているのか、時折上から雫が落ちてくる。この暗い抜け道にいるかもしれない幽霊たちは、いつのまにかカミーユにとって恐ろしいものではなくなっていた。


 本当に恐ろしいのは……。



 ついに出口に近づいたとき、先に仄暗い明りを垣間見る。二重になっている葡萄酒倉庫カーヴ・ドゥ・ヴァンの隠し扉だ。

 その脇にある引き戸は、領主の部屋がある最上階へとつづく階段の入口。


「ここからは、松明があると目立って危険でしょう」


 松明の火を消し、トゥーサンが確認した。


「上まで行きますか?」

「そうだね、先に母上に話して――」


 とカミーユが引き戸に手をかけたとき、隠し扉の向こうから物音がして言葉を止める。

 隠し扉の向こうには、二重になっているもうひとつの扉があるはずだ。そして、その存在を知る者は伯爵家とその家族、そして彼らの従者や執事以外にないはず。


 どうやら二つの扉のあいだにだれかいるようだが。

 鼠か、あるいは……。


 トゥーサンが、カミーユをかばうようにまえへ出て、扉をゆっくりと押し開ける。と、


「き――」


 扉の向こうから高い悲鳴が上がりかけたものの、すぐに声は途切れる。

 悲鳴を上げる口を自分自身の手で塞ぎながら、こちらの顔も見ずに逃げだそうとしたのは、カミーユとトゥーサンのよく知る相手だった。


「待て」


 トゥーサンに手を掴まれて抵抗する相手へ、カミーユは小声で伝える。


「おれたちだよ! カミーユとトゥーサンだよ!」


 もがいていた相手が、はたと動きを止めてカミーユの顔を凝視した。それから視線は自分の手を掴んでいるトゥーサンへ。相手は口から自らの手を放して、呆然とつぶやいた。


「……カミーユ様と、トゥーサン様?」

「そうだよ、カトリーヌ。ごめんね驚かせて」


 カトリーヌはまだ信じられぬようで、二人を交互に見つめている。


「まさかお二人も幽霊になってデュノア邸に戻ってきたなんて、言わないでくださいね」

「あいにく幽霊じゃないよ。幽霊よりも怖い、人間ってやつだ」

「最近どこかで、そんな台詞を聞いたような……」


 そうつぶやきかけてから、カトリーヌは再びカミーユを見つめた。


「本当にカミーユ様? 王都にいらっしゃるはずじゃ……」

「ほら」


 カミーユは両手でカトリーヌの手を握る。


「ちゃんと身体があるだろう? それに足もあるよ」


 と長靴を叩いてみせた。


「エマがいなくなったってカトリーヌが知らせてくれたから、戻ってきたんだ」

「でもどうしてこんな場所から?」

「父上に見つかったら叱られるからね。従騎士一年目の立場で王宮を抜けだしたことがばれたら、大目玉だ」

「そんな……よろしいのですか?」

「エマを探すためなら、なんだってするよ。でもさ、カトリーヌこそどうしてこんな場所にいたんだ?」


 隠し扉のあいだでなにをやっていたのか。

 あっ、とカトリーヌは小さく声を上げてなにか思い出した様子だ。


「どうしたの?」

「カミーユ様、大変なんです、助けてください! ……ああ、でも、とても信じられないような話で……カミーユ様、トゥーサン様、わたしの話を信じてくださいますか?」


 カミーユとトゥーサンは軽く顔を見合わせる。

 それから視線をカトリーヌに戻して、カミーユは言った。


「もちろん信じるけど、エマがいなくなったことならもう知ってるよ?」

「違います、シャンティ様のことなんです」

「姉さんの?」

「シャンティ様がこの館にいらっしゃるのです」

「まさか、だって姉さんは……」


 言いかけてカミーユは口をつぐんだ。信じると約束したからには、最後までカトリーヌの話を聞かなければ。


「ごめん、それで? どうして姉さんがここに?」

「わかりません。五日ほど前の朝に、旧館のほうから歌声が聞えたのです。それで、聞き覚えがある声だと思って行ってみたら、牢のなかから声がしました。シャンティ様のお声です」


 信じるとは言ったものの、やはりカトリーヌの話をにわかには信じられない。


「やっぱり、信じてくださらないですよね?」

「いや、いちおう最後まで聞かせて」


 気をつかったつもりだが、カミーユの台詞には半ば信じられないという響きが漂ってしまう。やや不満げな顔をしたものの、カトリーヌは促されるままに続きを話した。


「……それで、シャンティ様がおっしゃるには、ご自分は幽霊だけれど、お腹が空いたり、寒かったりで大変なのだと」

「…………」

「おかわいそうだと思い、膝かけを鉄格子から渡し、毎日ほんのすこしの食べ物をシャンティ様に運んでいるのですが、このごろ気がついたんです。シャンティ様はお風邪を召されたようで、咳をしたり、声がかすれていたりするのです。幽霊が風邪を引くっておかしくはありませんか? それで、やはりあそこにいるのは、幽霊ではなく本物のシャンティ様なのだと思い至ったのですが、どうやってお救いすればいいのかわからなくて」

「その……姉さんがいるっていうのは、旧館下の地下牢なんだろう?」


 はい、とカトリーヌがうなずくと カミーユとトゥーサンは再び顔を見合わせる。


 リオネルのもとにいるはずのシャンティが、デュノア邸の地下牢などにいるはずがない。

 けれど、信じてもらえないだろうことを予測していたということは、カトリーヌとてこの話が尋常ではないことくらいわかっているのだろう。


 だとすれば、真実でないとも言い切れない。


「本当は、シャンティ様からは、だれにもこのことを話してはならないと命じられているのです。だからだれにも言わなかったのですが、このままだと弱って死んでしまうのではないかと思って。カミーユ様ならお伝えしてもいいと思ったのです」

「そうか、教えてくれてありがとう」


 半信半疑だが、勇気を出して言ってくれたということはたしかだ。


「皆でそこへ行ってみよう」

「来てくださいますか?」


 カトリーヌの声が泣きそうになる。


「ああ、もちろん。もし本当に姉さんだったら、大変なことだから」

「すぐに確かめに行きましょう」


 トゥーサンも力強く同意する。


「ありがとうございます」


 すでにカトリーヌは半ば泣いていた。そのカトリーヌの手を引いて外へ出ようとしたとき、再び「あっ」とカトリーヌが足を止める。


「待ってください」

「どうしたの?」

「ここで、蜂蜜酒を瓶に入れ替えていたのです。人目についてはならないとシャンティ様がおっしゃるので、隠し扉で作業していました」


 カトリーヌは小さな小瓶を拾って戻ってくる。


「これと、パンと干し肉を届けているのですが、最近お身体が悪いようで……」


 心配そうなカトリーヌへ、トゥーサンがすかさず尋ねる。


「これ以外に、果物の蜂蜜漬けと、野菜をやわらかく煮たものはないか」

「おそらく食堂のほうへ行けば、少しは」

「持ってこられるか」

「けれど、あまりたくさん運んでこないようにと、シャンティ様が」

「それはおまえの身の案じてのことだ。さりげなく持ってこれそうならば用意してくれ」

「わかりました」


 三人は、幽霊……あるいは牢に閉じ込められているかもしれないシャンティのために食糧を用意して、地下牢へ向かった。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ