31
長いこと遥か彼方に見えていた山々が、今はこんなにも近い。
アンオウェルやルエルの山脈はもう間近だ。
アベルがいるこのあたりも平坦な道が続いているわけではなく、坂が多く、高配もきつくなりつつある。
景色は相変わらず長閑で、道の脇には木々が生え、その向こうでは草原に羊の群れが流れていた。
午前中に降った雨があちらこちらで水たまりになり、夕陽に照らされて真珠のように輝いている。
日没前に辿りついたのは、ファヴィエール領内の田舎町だった。シャサーヌを出発地点とすれば、ユスター国境まで半分近く来ている。
だが、リオネル達はさらに二日分先を行っている。もう山脈地帯を超えているだろう。
少しは距離を縮めただろうか。急いできたつもりだが、それでも長い旅程なので、定期的に馬を休ませなければならず、休憩の回数を考えれば、距離を縮めたといってもしれている。
ともかく、陽が暮れるまえに町に着くことができたことは、僥倖だった。
男装しているとはいえ、女ひとりでの野宿は避けたい。
けれど辿りついたのは田舎町……というよりは小村。宿屋はおろか、食事を提供する店があるかどうかもあやしい。
アンオウェルの山々を目前にしたこの場所では、大きな街など期待できないのは当然のことだ。今夜泊まる場所を見つけることができれば、それでよしとするべきだろう。
村は、本通りから一本入った坂道に立つ一軒の民家から始まっている。坂道の麓に置かれた標石には「セルドン」と記されていた。この村の名らしい。
先へ進めば、同じように本通りに沿って幾本もの道があり、数軒の家がその奥に見える。
この坂を登れば、もう少し家はあるようだが、大きな道沿いに宿屋や飲食店がないことからすると、やはりここでは民家に一夜の宿を頼むしかないようだ。
田舎の村はたいていそうだが、やはりここも人気がない。
まずは本通り沿いの一軒を訪ねる。
小さな石造りの家で、前庭は低い柵で囲われており、菜園や鶏舎がある。家の窓辺には花が飾られているが、寒くなってきたせいだろうか、ところどころ枯れかけていた。
「すみません」
声をかけると、しばらくしてなかから五十歳前後と思しき女が顔を出す。
丸顔で、両眼はわずかに濁っている。
「なにか」
こういった田舎の家にはたいてい大勢の子供がいるが、この女性には子も孫もいないのか、家の奥はひっそりと静かだった。
「今夜の宿を探しています。ひと晩泊めてくださらないでしょうか。もちろんお礼はします」
「宿を探しているという客人はよく来るが、いつもわたしはこう言うんだ。村をもう少し行ったところに、ここより大きな街がある。そこへ行ったほうがいい」
「けれど、陽が落ちかけています」
あたりには闇の気配がひたひたと近づいている。隣町へ移動するあいだに、右も左もわからぬほどの暗闇が訪れるだろう。闇夜の移動は危険だ。
「できればこの村に泊まりたいのです」
じっとアベルを見つめてから、老婆は首を横に振る。
「うちには泊めないよ。この村じゃ、きっと他の家もそうだ」
「なぜですか?」
この家の主が泊められないというなら納得するしかない。けれど他の家も同じだというのは理由を聞かせてほしい。
アベルから視線を背けて、女は「理由なんざ、自分で考えな」と答えた。
「見知らぬ旅人を泊めると不用心だから……でしょうか?」
「そうかもしれないね」
ぶっきらぼうに言い放って、女は扉を閉める。すぐあとに、カタンと施錠する音までが聞こえた。よほど迷惑だったのだろうか。
十月に入ってから、朝夕は冷え込むようになった。
冬の気配が音もなく近づいている。
冷たい態度を取られても今更傷ついたりはしないが、見知らぬ土地でひとり寒空のもとにいる侘しさは否めない。
半信半疑で二軒目の戸を叩く。けれど一件目の女性が予言したとおり、そこでもまたアベルは断られることになった。それも今度は「二度と来るな」とひどく苛立った様子で。
念のために三軒目を訪ねたとき、家の主は怯えたように慌ててアベルを追い返した。
「早く、早く去ってください。お願いします」
――と。
お願いまでされて立ち去ったわけだが、むろんアベルは腑に落ちない。
「どうなっているの……?」
他の民家を訪ねる気になれず、アベルは村の一角で呆然とつぶやく。
一軒目の女性が言ったとおりになったわけだが、いったいなぜなのか。
旅人を泊めると、なにかよからぬことが起こるとか……。
けれどそのようなことが、あるのだろうか。かつてこの街に、旅人と称して悪党が訪れ、悪さをして回ったとか? それとも領主に、旅人を泊めてはならぬとでも命じられているのか。
考えても結論など出るはずがないので、アベルはしかたなく先へ進むことにした。
この村で宿泊を断られ続けて深夜に至るよりは、早く隣町へ急いだほうがよさそうだ。
暗い夜道は、旅慣れているアベルでさえ心細い。街から外れた夜道には、夜盗だけではなく熊や狼が現れることもある。
狼に対しては特にアベルは、リオネルを傷つけられたことで、強い警戒心を抱いていた。
月明かりがあるのがせめてもの救いだ。
けれどそれも、流れてきた雲に覆い隠されては、真の闇に落ちる。昼ごろまで降っていた雨は止んだものの、やはり空に雲は多いようだった。
馬蹄が地面を蹴る音だけが、闇に響く。
隣町に関してアベルはなにも知らない。本当にあるのだろうか。セルドンからもう少し行ったところにあると女性は説明していたけれど。
ふと気配を感じて、アベルは馬の速度を緩めず周囲へ注意を向ける。
ほんの一瞬だが、なにかの気配があったように感じられた。
速度を緩めてはいけない――直感でアベルは思った。
獣、ではない。
これは人の気配だ。
それもひとりではなく複数の。
――夜盗か。
なるほど、山にほど近く、宿場町の少ないこの場所なら物取りもしやすいはずだ。
それに光の少ないこの場所では、わずかな星明かりでも弾き返すアベルの金糸の髪は、目立つ。
馬の足を速める。が、すぐにアベルは手綱を引くことになった。
前方からも気配を感じたからだ。背後から追いたてたのは罠だったのか。まんまと敵の思惑に乗せられたというわけだ。
手綱を引いたアベルの周囲を、またたくまに無数の影が囲う。
彼らの瞳と、携える得物が、かすかな明かりを反射して鈍い輝きを放っていた。
馬上でアベルも剣を引き抜く。
賊のまとう空気が変化する。せいぜい護身用の短剣を携えている旅人と、彼らは踏んでいたのかもしれない。
「大人しく剣を下ろせば、命は助けてやる」
ひとりが低く脅す調子で言った。
「お金が目当てですか」
静寂のなかで、アベルの声は鈴が鳴るように美しく響く。姿形もさることながら、声だけ聞いても、少女か、もしくは幼い少年のように聞こえるだろう。
「金も、馬も――そして、おまえ自身もだ」
アベルが無言になると、敵はいっせいに襲いかかってきた。
もとより盗賊らは、馬もアベルも傷つける気はない。なぜなら、馬もアベルも無傷であるほど商品価値が高いからだ。
馬の手綱を奪おうとする男の手を、アベルは長剣で払った。男は瞬時に手を引いたものの、剣の先にはたしかに手ごたえがある。男の口からくぐもったうめき声が漏れた。
瞬間、無数の手と刃先が伸びる。彼らはアベルの足を掴み、馬から引きづり下ろそうとしている。アベルは遠慮なく彼らに剣を見舞った。
一方、彼らも慣れているらしく、最初に腕を斬られた男以外は、攻撃を巧みに避けてはアベルと馬を捕らえようとする。
血の流れぬ無言の攻防戦がしばらく続いたあと、先手を制したのはアベルだった。
ひとりの男の肩を剣の先で捉えたのだ。
絶叫が上がると、怯んだ夜盗たちに、アベルはさらなる攻撃を見舞う。
立て続けに二人の男が倒れ、敵がわずかに躊躇を見せた。
が、すぐに彼らはまた襲いかかってくる。
今度はこちらを多少は傷つけても手に入れることにしたのか、短剣がひらめいた。アベル自身が避けることは容易だが、馬を傷つけられては困る。ベルリオーズ邸の厩舎から拝借した大切な馬だ。
アベルは咄嗟に馬から飛び降りた。
好機とばかりに男たちは馬の手綱を奪いにくる。
けれど、馬のほうは興奮して後ろ蹴りを繰り返しながら、身体を震わせて動きまわる。そうしながらも、騎手であるアベルのそばから離れようとしない。男たちは容易に馬へ近づけずにいた。
一方、馬から降りたアベルだが、地上での勝負でけっして不利になるわけではない。むしろ同じ土俵で剣を交えることができるならば戦いやすかった。
襲いかかってきた相手をアベルは次々と斬り倒していく。流れるように優雅でいて、けれど確実に相手を負傷させる剣の動きに、賊は手も足も出ない。
それは、夜盗たちがかつて目にしたことのないほどの、鮮やかな剣技だったことだろう。
軍神のごときアベルの姿に、たちまち男たちはひるみ、ひとり二人……と動きを止め、ついには背中を見せて走り去っていく。
敗走をはじめる者が出てくれば、こちらのものだ。最後まで残って戦おうなどという酔狂な盗賊はいないだろう。
敵がいなくなるのは一瞬のうちだった。
皆が逃げ去ると、道に残ったのはアベルが斬った男たちだけになる。痛みに悲鳴を上げている者もいれば、すでに息絶えている者もいる。わずかに目を細めてから、アベルは馬にまたがろうとした。
が、そのとき、ふと懐かしさ似た奇妙な感覚に襲われて、背後を振り返る。
胸を刺されて血まみれになりながら悶える男がいた。その傍らに、彼を支え起こそうとしている賊の姿。動かされると負傷者は悲鳴を上げた。
助けようとしているのか、とわずかにアベルが意外に思ったとき。
厚い雲が流れ月明りが周囲に広がる。
支え起こそうとしていた男が、こちらへ顔を向けた。
アベルは瞳を見開く。
それはまるで死者に会うように――、いや、たしかに彼は死んだと聞いたはずだった。
かたや相手もまた、亡霊に出会ったかのような表情を張りつけていた。
互いに言葉を発せられぬまま見つめあったすえに、先にアベルが口を開いた。
「あなたは――」
こちらを見つめる男の瞳は、記憶の断片を拾いあげようとするようだ。
「……ア、ベル?」
たしかに聞き覚えのある声が、負傷者を助けようとしていた夜盗の口から発せられる。
それはかつて、アベルの命を救った――。
「サミュエル……? そんな、まさか」
相手が自分の名を知っていたのだから、もはやサミュエルでないはずがない。けれど、それでもアベルには信じられなかった。
「どうして、あなたが」
「アベルなのか?」
「……はい」
息を呑む気配が伝わってくる。
「生きていたのか」
「あなたこそ……亡くなったと聞きました」
――全身を刺され、川に流されて。
サミュエルは口を閉ざした。それからゆっくりとしゃがみこみ、胸に怪我を負った仲間を担ぎ上げようとする。けれどその途中、サミュエルははっとした面持ちになって仲間の首に指を添えた。男はすでに事切れていた。
月が陰る。サミュエルは遺体を地面に横たえる。それからしばしのあいだ遺体を見下ろしていた。
サミュエルが再び顔をアベルへ向けたのは、雲が流れ、月が現れたとき。サミュエルの右腕から血が流れていることに、アベルは気づいた。
思い至るものがある。襲われて間もなく、馬の手綱を奪おうとする男の手を長剣で払ったとき、剣の先にたしかに手ごたえがあったのを覚えている。
あれはサミュエルだったのか。
こちらを見つめるサミュエルの瞳からは、感情が読みとれない。ただ、明るく屈託のなかった三年前のサミュエルとは明らかに様子が違う。
「このあたりは夜盗と人攫いの巣窟だ。夜にひとりで出歩かないほうがいい……といっても、すごく強いみたいだけど」
そう言ってしばしアベルを見つめてから、サミュエルは踵を返す。
去っていこうとする相手の手を、アベルは咄嗟に掴んで引きとめた。途端にサミュエルが呻く。アベルが掴んでいたのは怪我を負っているほうの手だった。
「ご……ごめんなさい」
そう言いながらも、アベルはサミュエルの手を放さない。
「痛い」
「薬酒を持っています。手当てします」
訝るような視線が返ってきた。
「おれはきみを襲おうとしたんだよ?」
「三年前、助けてくれました」
サミュエルの顔が歪む。
「……おれが三年前、アベルになにをしたのか、わかっているのか」
「それでも、あなたに助けてもらわなかったら、わたしは死んでいました」
「おれはアベルを人買いに売った」
「イレーヌを助けるために?」
その名を耳にするや否や、サミュエルは表情を一変させた。
「――イレーヌに会ったのか」
「ええ、たまたま……コカールの街で」
サミュエルは黙りこむ。
月は陰り、また現れる。そのたびに世界は色彩を失っては、再び取りもどす。
流れる雲は、何食わぬ様子で二人のいる世界を翻弄する。
「少し座って話しませんか?」
逡巡の色がサミュエルの顔には浮かんだ。




