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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
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26






主人公たちが出てこない回になってしまいました。

フェリシエやジェルヴェーズなど不人気キャラ(?)ばかりなので、全体のストーリーにも影響は大きくありませんし、読み飛ばしていただいても大丈夫ですm(_ _)m









 健気に互いを思いやる兄妹がいる一方で、こちらには、なにかがずれてしまったままの兄妹がいる。


 幾度扉を叩いても返事はない。

 かつては扉など叩かず無断で入室していたが、さすがに年頃の妹の部屋に勝手に入るのはよくないと、近頃はなるべく扉を叩くようにしていた。


「フェリシエ……聞こえているのか、フェリシエ」


 侍女のライラもいっしょのはずだが、うんともすんとも聞こえてこない。

 エルヴィユ家嫡男であるシャルルを無視するとは、フェリシエはともかく侍女であるライラは咎めを受けても仕方のない無礼な振る舞いだ。


 けれど、そのようなことを気にする女性ではない。ライラはフェリシエのためなら、嫡男である自分の飲み水に毒だって入れるだろうとシャルルは信じていた。いとまを出そうにも、そんなことをすればフェリシエが発狂するだろうからできない。


「――おれはもう行くぞ。戦場に行くのだから、死んでもう会えなくなる可能性だってあるのだ。別れの挨拶くらいしなさい。あと、リオネル様には戦場で会うことになるだろう。伝えたいことはないか?」


 返事はない。


 エルヴィユ邸に戻ってからというもの、フェリシエはこのような調子が続いていた。父公爵に挨拶したきり、フェリシエは自室から出てこなくなってしまった。食事はライラが運んでいるから、生きてはいるのだろう。


 溜息をついてシャルルが踵を返そうとした瞬間、鍵を回す音が響いた。

 堂々と開いた扉の向こうに立っていたのはライラである。


「……ライラ」


 眉根を寄せて、シャルルは不機嫌に妹の侍女の名を呼ぶ。けれどライラは涼しい様子で、深々と腰を折った。


「申しわけございません、お嬢様はお召しものを着替えている最中でしたので」


 どれだけ時間のかかる着替えだ!

 内心でシャルルは文句を言ったが、声には出さなかった。


 部屋の奥、長椅子に腰かける妹の姿をみとめて、シャルルは片眉を上げる。部屋に足を踏み入れ、妹のそばまで行った。


「フェリシエ……その、だな。今回のことは残念だったが、この世界の男はリオネル様だけというわけでもあるまい。あまり気落ちしないことだ。おまえなら、いくらでも嫁ぎ先はある」


 先程までは、扉が開かないことに苛立っていたが、こうして思いつめた様子の妹を目前にすれば、自ずとシャルルの口調も柔らかくなる。


「父上も心配している。早く出てきて、元気な姿を見せてさしあげなさい」


 フェリシエは、顔をこちらへ向けようともしない。口を利かないつもりかと思えば、平坦な声で言い放った。


「どうせお父様は、わたくしのことを、リオネル様の興味を引くこともできぬ役立たずな娘と思ってらっしゃるのでしょう」


 久しぶりに聞く妹の声だった。思いのほか元気そうで安堵する。ディルクの婚約者のこともあるので、シャルルは妹のことを案じていた。


「そんなことはない。父上は、どんなおまえでも愛している」

「嘘よ。お兄様もそうでしょ。リオネル様のお嫁になれない妹を、馬鹿にしていらっしゃるのだわ。だってお父様もお兄様も、わたくしなどより、リオネル様のほうがよほど大切なんだから。知っているわ、そんなこと」

「馬鹿になどしていない。していないぞ、フェリシエ」


 シャルルはフェリシエが座る長椅子のまえまで行くと、しゃがみこんで両手を取る。


「父上もおれも、おまえのことが大切だ。むろんリオネル様のことは敬愛している。リオネル様のもとに嫁ぐことができたらそれは素晴らしいことだが、そうではなくともかまわない。なにもなくとも、おまえは私たちの宝だ」


 三年前、婚約破棄をされたアベルことシャンティが、父親からこのような言葉をかけられていたらどれほど救われただろうか。けれど恵まれた境遇で育ったこの娘には、そのありがたさが理解できないようだ。


「下手な慰めはけっこうです」


 心からの言葉を、「下手な慰め」と言われてシャルルは困り果てた顔になった。


「リオネル様に好きな方がいるなんてきっと嘘よ」

「しかし、ご本人の口から聞いたのだろう?」

「アベルあたりが入れ知恵したに決まっているわ。そう伝えれば、わたくしが諦めるからと」


 あくまでフェリシエは、すべてアベルのせいにしたいようだ。山賊討伐の折りに、リオネルから婚約の意志がないと告げられたときも、フェリシエはすべてアベルが仕組んだことだとシャルルに訴え、アベルを殺してほしいと嘆願した。

 複雑な表情でシャルルは妹を見下ろす。


「……だが、リオネル様とおまえの婚約に反対していたという従騎士のアベルは、すでに館から出て行ったそうじゃないか。それでもリオネル様が、おまえとの婚約を取り止める旨を父上に書き送ったということは、やはりご本人の意志だということではないのか?」

「お兄様!」


 きっと顔を上げてシャルルを睨むフェリシエの瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。


「そんなひどい言葉を、どうして妹に突きつけることができるのですか!」

「ひどいって……客観的にそう思ったから言っただけだが」

「客観的な意見など聞きたくありません」

「…………」


 主観的な思い込みだけでは、どうにもならないではないか!

 内心でシャルルは文句を言ったが、やはり声には出さなかった。


 どうもフェリシエは現実を直視できぬ状態にあるようだ。だれかのせいにでもしていなければ、心の均衡を保つことができないのだろう。


「とにかく、フェリシエ。ここまではっきりとリオネル様から婚約の話は断られたのだ。おまえが至らなかったからだとか、だれかのせいだとかではなく、リオネル様には心を寄せる相手がいる――ただそれだけのことだ。なにも気にする必要はないし、だれかを恨む必要もない。おまえは新しい相手を見つければいい。……ディルク殿などはどうだ? いい男だぞ」


 きゃああああ、とフェリシエは悲鳴を上げて両頬を押さえる。


「やめてください、お兄様! なにを仰るの! 絶対いやです、ディルク様なんて!」

「どうして」

「どれだけいじめられたか、お兄様ならご存知でしょう!」

「そんな昔の話……」

「絶対に嫌です! 死んでもいやです!」


 おそらくディルクのほうも願い下げだろうが、フェリシエもまた心の底から嫌がっているようだ。


「そのようなことよりも、お兄様――」

「話したいのは山々だが、おれはもう館を出て兵を率いていかなければならない」

「聞いてください!」


 強い口調で言われて、シャルルは微妙な面持ちになる。


「お兄様は、リオネル様が想いを寄せているという女性を探して、わたくしに教えてください」

「リオネル様に好きな方がいることは嘘だろうと、さっきおまえは言っていなかったか? アベルの入れ知恵だとかなんとか……」

「過ぎた話はいいのです。とにかくリオネル様のお心を捉えている女性を、なんとしてでも探し出してください」


 過ぎた話……と首を傾げてから、ふとシャルルは苦い口調で尋ねた。


「探してどうするつもりだ?」


 この勢いだと、探し出したところでフェリシエはろくな行動に出ないだろう。


「密かに呪います」

「…………」

「というのは嘘で、リオネル様が想いを寄せる女性なら、よほど素敵な方なのでしょう。その方から、わたしも女性としての在り方を学び、負けないくらいの魅力を身につけて再びリオネル様に振り向いてもらいたいと思っています」

「……それは悪くない心構えだが、他に目を向けたほうがいいんじゃないか?」

「お兄様は、わたくしがどう頑張っても、リオネル様に振り向いてもらえないとお考えなのですね」

「いやいや、そういうわけではないが……」


 そういうわけではないが、リオネルの性格からすると、一度心に決めた相手から容易に心変わりすることはないだろう。

 しかし、フェリシエのまえではそのようなことは言えるはずもなく……。


「まあ、わかったら教えるが、まあ、おそらくわからないだろうが……」

「なにをおっしゃってるのです? わかるかどうかではなく、聞き出し、探し出すんです!」


 妹はいつからこのように気が強くなってしまったのだろうと、シャルルはあらためてフェリシエを見つめる。と、すぐに視線は吸い寄せられるように、背後に控えるライラへ移った。


 ――そうか、この女のせいか。


 シャルルは片眉を上げた。

 幼く、太っていたころのフェリシエは、もっと素直でかわいらしい少女だったのに。ライラが来てフェリシエを美しく作りあげていったころから、なにかがおかしくなったのだ。


 溜息をついて、シャルルは妹の頭に手を置く。


「やれることはやってみる。――だが、フェリシエ。大切なことを忘れてはいけないよ。リオネル様と結婚することだけが人生の目的ではない。それが叶わないなら、他の幸せだってきっとある。それはフェリシエ、おまえがどれだけ周囲の者や、友人を思いやって生きることができるかどうかで決まるんだ。人の幸せを願える者は、自身も幸福になれる」

「わかっていますわ、お兄様」


 にっこりとフェリシエが笑う。

 いざというときに現れる完璧な美しい笑みだが、それはかつての純朴な笑顔とは程遠い。


「私はおまえを愛しているから」

「ええ、わたしもよ。お兄様」


 再び溜息をつきたくなったのをどうにか堪えて、シャルルは妹の部屋を出る。扉が閉まると、溜息をつく暇もないほど慌ただしく出陣したのだった。






+++






 邸内の応接間サロンで、二つの杯がぶつかりあう。

 涼やかな音が響き、傾けられた杯の中身はそれぞれの口に吸い込まれていった。空になった杯に、すかさず酌取りが葡萄酒を注ぎ足す。


「このところ、なにもかもが思いどおりになる。愉快でならないぞ」


 上機嫌なジェルヴェーズの様子に、ふっとフィデールも笑む。


「それはよかったです」

「おまえの描く筋書きは、実に巧妙でおもしろい」

「お褒めに預かり光栄です」

「いっそ劇作家にでもなったらどうだ」

「それもいいですね。けれど台本書きのほうに夢中になって、宮廷勤めが手につかなくなってしまうかもしれないので、もう少し暇ができたときにはじめることにします」


 嘘をつけ、とジェルヴェーズは笑った。


「劇の台本を書いているより、現実にベルリオーズ家を陥れるほうが愉しいのだろう」


 返事をせず、代わりにフィデールは微笑だけを返した。


 ユスター侵攻の報が届いてすぐに、フィデールと、彼の父であるブレーズ公爵は王宮のエルネスト国王へ手紙を出した。

 すなわち、今度の事態では正騎士隊を動かさず、ベルリオーズ家の軍事力を利用するべきだということ――さらに、負傷したリオネルの代わりにジェルヴェーズがベルリオーズ家の騎士を統率すればよいとの旨を書き送った。


 そうなれば、あとはジェルヴェーズがベルリオーズ家の騎士を使い捨てにしようが、リオネルが兵の統率をジェルヴェーズには任せず自ら出陣しようが、かまわないというわけだ。


「そなたほどの策士ならば、兵を持たずして一国を手に入れることができるだろう」

「買いかぶらないでください。所詮、私など小策士です」


 現在ブレーズ公爵は王宮へ向かっており不在である。

 この緊急事態に国王を補佐するため赴いたということになっているが、それは建前であり、実際はブレーズ家の騎士を戦場へ向かわせぬための口実作りだった。

 つまり、公爵が不在ならば、フィデールはブレーズ邸に残らなければならないので、援軍を出すことはできぬと言い張れるわけである。


 ブレーズ公爵のほうは実際にエルネストを補佐するために赴いたかもしれないが、フィデールのほうはより策略的に考えていた。


「ベルリオーズ家の出陣に呼応して王弟派の貴族らが、ユスター国境に向かっているだろう。せいぜい勇敢に戦ってユスターを追い散らしてもらおうか。王弟派勢力が戦いで弱まったところで、リオネルを玉座に推す輩を徐々に粛清していけばいい」


 再び微笑しただけで、フィデールはなにも答えなかった。


「ジルは解放せざるをえなかったが、代わりに得たものは大きかったな」

「家臣を解放されてベルリオーズ家の人たちは喜んでいたでしょう?」

「ああ、喜んで戦場へ向かったとも」


 笑いながらジェルヴェーズは再び杯を干した。


「ベルリオーズ邸の居心地はいかがでしたか?」


 ふん、と鼻で笑ってから、それなりにおもしろかったと頬を歪める。


「楽しまれたようで、なによりです」

「いや、リオネル・ベルリオーズの婚約者は抱かなかった」


 意外そうにフィデールは眉を上げた。それが目的のようなものだと思っていたからだ。


「ベルリオーズ邸では、なにをご堪能されたのですか?」

「私の言動にあたふたとするベルリオーズ邸の使用人や、我慢を強いられる騎士らを見ているだけで充分に愉快だ」

「なるほど」


 珍しくフィデールも声を上げて笑う。といっても、実に控えめな笑い方だ。


「それは愉しそうですね」

「そなたも来ればよかったものを」

「私は、見ているだけではすまないかもしれないので」

「物騒だな、フィデール」


 杯を口に運びながら、探るようにジェルヴェーズはフィデールを見やる。それはすでに他のことを考えている目だ。

 それを察したフィデールは、言葉を発せずジェルヴェーズの次なる台詞を待った。


 小卓に杯を置いたジェルヴェーズが、口端に笑みを刻む。


「なにかよいことがありましたか」


 静かにフィデールが問うと、ジェルヴェーズが笑みを深くする。


「察しがいいな」

「煙突掃除の少年が見つかりましたか」

「いや、そなたにどことなく似た子供にしか会わなかった」


 よく意味がわからないという顔のフィデールへ、ジェルヴェーズは口端を吊り上げる。


「イシャスという名の者は、二、三歳の幼児だった」

「私に似ていたとは?」

「なんでもない。こちらの話だ」

「……では他になにか? クレティアン様が死にかけているのでしょうか」

「いや、病気だったが、まだ死なないだろう」


 眼差しだけで回答を問うフィデールに、ジェルヴェーズは「女だ」と短く告げる。


「女? リオネル殿の婚約者ではなく……」

「踊り子だ」

「踊り子、ですか」

「神話から抜け出てきたような娘だった」

「ベルリオーズ邸で会われたのですか?」

「夜に突然現れ、翌朝には消えていた」

「さようですか」


 興味深そうにフィデールは目を細める。ジェルヴェーズが女を求めることは度々あるが、たいていは一度抱けば興味を失う。そうでない場合でも、クラリスや一部の令嬢のように気まぐれに抱くだけだ。それが、夜が明けても「神話から抜け出てきたよう」と形容するほど気に入っているとは珍しい。


「よほど好みの娘だったのですね」


 ジェルヴェーズは小さく笑った。機嫌がよさそうだ。


「それほどお気に召したのなら、なぜ連れてこられなかったのですか?」

「言っただろう、翌朝には消えていたと」

「居場所がわからないのですか」

「踊り子自身は、ローブルグからシャサーヌを訪れ、偶然館を通りかかったのだと語っていた。実際、ベルリオーズ邸の者は踊り子を呼んだ覚えはないという」

「偶然通りかかった?」


 あまりに不自然な話だ。


「館に住まう者だったのでは」

「私もそう思った。だが、ベルリオーズ邸内をくまなく探し回ったが見つからなかった」

「なるほど」

「自ら私のために館を訪れたというのに、娘は私に抱かれるときには震えていた」


 フィデールは黙ってジェルヴェーズのうえに視線を注ぐ。


「レナーテと名乗っていたが、実の名ではないだろう」

「『クラウディア』ですか」

「彼女は悪魔に魂と身体を売った。だが、売りきれなかった。……彼女は愛しい男の心を、手に入れることができたのだろうか。フィデール、そなたはどう思う?」

「あるいはすでに手に入れていたのかもしれませんよ」


 はっとした面持ちになってから、ジェルヴェーズはゆっくりと顔を歪めた。


「そうか、すでに手に入れていたのか。だからこそ、悪魔にすべてを委ねることができなかったわけか」

「そういうこともありうると思っただけです」

「あるいは、はじめから愛する男などいなかったのではないかと、リオネル・ベルリオーズは言っていた」

「…………」


 すなわちフィデールとリオネルは正反対の仮説を立てたということだ。


「おまえたちは本当に仲が悪いな」

「そのようですね」

「いずれにせよ、もう娘の居場所はわからない」

「よろしいのですか?」


 手元の杯をジェルヴェーズが揺らす。


「遊ぶつもりが、遊ばれた。――なるほど、遊ばれるのもいいだろう。容易に手に入らないのも一興ではないか。だが、いつか必ず探し出して私のものにしてやる」


 酔いに心地よく身を委ねるジェルヴェーズの様子を、フィデールはゆっくりと葡萄酒を喉に流しながら観察する。

 欲しいものは、なにもかも手に入れてきた男だ。

 彼が唯一手に入れることのできなかったのは、王位後継者としての正統性。

 だからこそジェルヴェーズは、リオネルに固執してきた。


 けれど、いまひとつジェルヴェーズは手に入れることのできないものを見つけた。

 それが、踊り子「レナーテ」だ。


 どちらのことを話すときも、ある意味においてジェルヴェーズは活き活きとしている。

 人生を彩る新たな興味の対象――あるいは無意識に抱く虚しさを埋めるものを、ジェルヴェーズは見つけたのかもしれない。そうフィデールは感じた。








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