19
ベルリオーズの遥か東方、王都サン・オーヴァンに位置する王宮の一室では、机に向かい、なにやら真剣な様子で紙に文字を連ねる者がいる。
長い時間そうしているのは、したためなければならない手紙が複数あるからだ。
はじめの二通はほど早くしたため終えた。けれど、最後の一通には想像以上の時間を要している。
途中で幾度かシメオンが部屋へ入ってきたが、シュザンはひと言も口を利かなかった。
集中しているシュザンの妨げにならぬよう、無言で書類のみを置いてシメオンは部屋を退室する。よほど言葉を選び、丁寧にしたためているのだろうと察したはずだ。
それもそのはずで、最後の一通は、初めて手紙を送る相手であり、かつ大公爵家の子息であるシュザンでさえ最大の敬意を払わねばならぬほど高貴な相手だった。
ようやく蝋封までを終えると、シュザンは手紙をしばし見つめる。
わずかに開けた窓の隙間から、涼しい風が舞いこみ、シュザンの淡い茶色の髪を揺らした。
この手紙が、少しでも甥リオネルとベルリオーズ家のためになってくれれば――。
そうシュザンは願った。
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なだらかな起伏が連なる丘には、ところどころ羊や牛の群れがある。群れが移動していく様は、まるで草原という名の空に漂う雲だ。
秋空は淡く澄んでいてイシャスの瞳の色をしていた。
涼やかな風が肌に触れて、わずかにアベルは身震いする。まだ身震いするほどの季節ではないはずなのに寒さを感じたのは、空腹と疲労のせいかもしれない。
ベルリオーズ邸を発ってから、ひとときも休まずに馬を駆けてきた。むろんなにも口にしていない。食欲はなかった。
いっそこのままなにも食べずにいてもかまわないとさえ思ったが、三年前に救われた命はリオネルのために使うと決めたのだ。さすがに空腹で野垂れ死ぬわけにはいかなかった。
どこまでも続くかと思われる丘陵地帯の一角に、アベルは村落をみとめる。小さな農村のようだ。食堂くらいはあるだろう。
ベルリオーズ領は広い。ひと晩眠らずに丸一日馬を駆けても、まだアベルはベルリオーズ領内にいた。
この小さな村も、リオネルやクレティアンの治めている場所なのだと思うとアベルは安堵する。これからベルリオーズ領を出ることに、言い知れぬ寂しさを抱いていたからだ。
リオネルが愛する領民を、同じようにアベルも愛していた。
村に近づくと、旅人の姿を見た子供たちが近づいてくる。
「お兄さん、どこから来たの?」
四、五人の子供たちのうち、最も小柄な少年が尋ねる。七歳くらいだろうか、年齢は違うのにエレンのもとに置いてきたイシャスのことをアベルは思った。
「シャサーヌですよ」
「ええっ、すごいなあ!」
少年は感嘆の声をもらした。
田舎で生まれた者は、たいてい自らの村で一生を過ごす。近隣の街まで足を延ばすことはあっても、シャサーヌなどの大都市へ一度も行くことのないまま生涯を終える者も多い。
「ここへは滅多にシャサーヌからの旅人なんか来やしないんだよ。小さな村だからね」
「そうですか」
アベルが笑いかけると、小柄な少年はきょとんとした表情になった。少年が黙ったので、別の子供が話しかけてくる。
「腰に下げているのは、本物の剣?」
「本物ですよ」
「じゃあ、騎士様ってこと?」
目を輝かせて子供たちが見つめてくる。アベルは苦笑した。
「騎士ではありません」
「そうなの? でもとても立派な剣にみえるよ」
アベルの所持しているのは、なんの飾り気もない長剣である。立派に見えるのは、ただ単に見慣れていないせいかもしれない。ただ、リオネルから与えられたものなので、装飾はないが実に丈夫で良い物だ。
「ありがとう、わたしにはとても大事なものです」
「なんでここへ来たの?」
子供らは無邪気に聞いてくる。そんな子供たちをアベルは愛おしく思う。そう思うのは、やはり自分にも弟や子供がいるからかもしれない。
「お腹が空いたので、どこか食事のできるところを探しています」
子供らは顔を見合わせる。
「でも、もうお昼の時間はとっくに過ぎているよ」
「昼食を食べ損ねてしまって」
実際は、昨夜からほとんど口にしていない。
「でも、こんな時間からやっているお店なんてないよ」
農作業は太陽が出ている時間帯に行われる。だから、日が高いうちに農民がぶらぶらしていることはない。おそらくこのような小さな村で食事や酒を出すのは、皆が仕事を終えたあとに集まる酒場くらいなのだろう。
「そうですか、わかりました」
アベルがそう答えると、先程の小柄な少年が不安げに顔を上げた。
「行っちゃうの?」
「夜までにはもう少し先へ進めるので」
そうアベルが答えると、少年は考える顔つきになる。そして、いいことを思いついたように顔を輝かせた。
「そうだ!」
皆の視線が少年に集まる。
「ぼくの家へ来てよ! ばあちゃんがなにか作ってくれるから」
農村の生活は決してらくではない。見知らぬ旅人に食事を振る舞う時間の余裕、あるいは生活のゆとりはないだろう。
実際に、少年がそれを口にした途端、皆が驚く顔になる。
「ありがとう。でも、ご迷惑をおかけしたくないのでやめておきます」
笑顔で断ると、少年はアベルの服をつかんだ。
「あなたみたいなお客さんが来たら、きっと喜ぶからさ。だってこの村は滅多に旅人が来ないんだよ? それなのに、こんなにかっこいい騎士が来たんだ。もう少しいてよ。ね。ぼく、ばあちゃんに聞いてくるから」
呼び止めるまもなく少年は手を放し、走り出す。あっというまに少年は遠ざかり、どこかで曲がったのか姿が見えなくなった。
すると、残った子供たちのひとりが言う。
「あいつ、エディっていうんだよ。この道をまっすぐ行って、大きなマロニエの木が生えてるところを左に曲がってしばらく行ったところに家がある」
食事を断るにしても、一度エディの家へ行かねばならないようだ。
「ありがとう」
礼を述べ、アベルは言われたとおりの道を辿った。
エディの家は低い柵に囲われており、柵のなかには小さな菜園があった。その脇にさらに小さな柵があって鶏が飼育されている。小さな石造りの家のなかからは、話し声が聞えた。
柵の横に生えていた林檎の木に馬を繋ぎ、アベルはそっと家のなかをのぞく。
調理場で作業しているらしい老婆と、先程の少年の姿があった。
「……昨日の残りくらいあるでしょう?」
エディは説得している様子だ。
「ほら、鶉を煮込んだやつ」
「あれは食べてしまったよ」
老婆は長い棒でしきりに樽の中身をかき混ぜている。
「麦と蕪のお粥は?」
「そんなもの騎士様にお出しできるかい」
「お腹空いてるんだよ?」
「剣をお持ちで、良い身なりで、シャサーヌからいらした騎士様なんだろう?」
「うん、でも騎士じゃないって」
「そんなこと言ったって、公爵様にお仕えしている騎士様だったら、おまえ、どうするつもりだい? こんなみすぼらしい家にお招きして粥なんて出したら、身の程知らずもいいところさ」
老婆のかき混ぜている棒の動きが、徐々に重く緩やかになってきている。バターかチーズを作っているようだ。
「そんなことないよ、きっと喜んでもらえるよ」
「おまえ、いい加減なことを――」
話している途中で老婆が言葉を止めたのは、アベルがそっと戸口から姿を現したからだ。
「……すみません」
死人に再会したかのように唖然とする老婆に、アベルは軽く頭を下げる。
「ご迷惑をおかけするつもりはなかったのです。わたしはこのまま村を去りますので、お気遣いなく」
老婆は声を出せぬ様子だったが、エディは違った。
「もうすぐ日が暮れるよ。今夜はここに泊まっていきなよ」
「おばあさまが、困っているようですよ」
アベルはエディに笑いかける。優しく笑ったつもりだったが、エディにはそうは見えなかったようだ。
「どうしてそんなにふうに笑うの?」
え、とアベルは目をまたたいた。
「あんまり寂しそうだから」
「…………」
答えられずにいると、老婆がエディを叱る。
「こら、エディ! おまえ、騎士様になんて失礼なこと言うんだい」
「いいんです」
慌ててアベルは老婆を制した。
「エディは優しいのですね」
アベルが老婆に向けて言うと、老婆は再びぐっと言葉を呑む。
「ありがとう、エディ。気にかけてくれて本当に嬉しかったです」
エディは不満げな顔だ。そう、この表情。よくイシャスは納得できないことがあると、こんな顔をした。
子供は正直だ。成長して大人になっても、笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣き、素直に感情を表すことができたら、どれほどいいだろう。
もしそれができていたら、自分はリオネルの気持ちにどう応えていただろうかと、アベルは頭の隅で思った。
最後にもう一度エディに礼を言って、扉をくぐる。
陽は傾きつつあり、西の空にはかすかな緋色に色づいていた。
「旅の方!」
馬の手綱をほどいていると、家のなかから老婆が現れる。アベルは振り返った。
「か、粥くらいしかございませんが、よかったらどうぞ召し上がりください。泊まる場所もございます、こんな小さな家ですが」
老婆は緊張しきった様子だ。この調子では、もしアベルが一泊したら、明日の朝までに老婆は倒れてしまうのではないか。
「ご親切にありがとうございます。お気持ちだけ嬉しく頂戴します」
――ああ、そうか。
自らの発した言葉のうちに、アベルは思い至るものがあった。
リオネルの告白は、未だに信じることができない。夢を見ていたのか、あるいは、からかわれたのかとも思う。
……けれど、彼は真剣だった。とても冗談を言っているような眼差しではなかった。
そしてその真剣な想いに対して〝嬉しい〟と――〝ありがとう〟と、こんな単純なひと言さえ自分は返さなかったのだ。
傷つけたかったわけじゃない。けれど、あんな言い方しかできなかった。他に言葉を選べなかった。
ありがとう。嬉しい。
そんな言葉を並べたら、自分がどうなってしまうかわからなかった。
怖かった。
彼に愛されるということが、怖かった。
彼の立場を自分のせいで危うくすることと同じくらい、彼の気持ちが怖かった。
突き放すことで、リオネルを守ろうとしたと同時に、脆く崩れそうになる自らの心を保った。
――けれど。
こんなにも哀しい。
あのような方法でしか彼を守れなかったことが、悔しかった。
「旅の方?」
気づけば老婆が心配そうにこちらを見ている。はっとしてアベルは笑ってみせようとする。けれど、うまく笑うことができなかった。
「やはりお泊りになっていっては……」
遠慮がちに老婆が申し出る。けれどアベルは首を横に振った。
「ごめんなさい」
アベルは馬に跨る。
「ありがとう、エディ」
老婆の横で、怒ったような顔をしている少年にアベルは別れを告げる。エディは黙っていた。
馬の腹を蹴ると、たちまちアベルはエディの家から遠ざかる。
再び村を出て、旅路に着いた。
ひとりきりの旅路。
北に向かえばラ・セルネ山脈付近にヴィートがいる。東へ向かえばリオネルやイシャス、そのほか多くの人たちと過ごした思い出の残る王都サン・オーヴァン。西の異国ローブルグへ行くつもりもないので、結果的にアベルは南を目指した。
目的はない。ただ見知らぬ土地を目指した。
けれど、ベルリオーズからはさほど離れた場所へ行くつもりもなかった。
近くでリオネルのことを見守っていたい。そして、もし彼の身に危険が迫るようなことがあれば、すぐに駆けつけるつもりだ。
本人にはもう二度と会わない。けれどリオネルの知らないところで、リオネルのために命を燃やせたら――、それがアベルの望む生き方であり、死に方でもあった。
首にかかる水宝玉の首飾りに触れる。
それから、優しい主人を思い出す。
ディルクの笑顔や、ベルトランの仏頂面、マチアス、レオン、エレン、イシャス……そこにデュノア邸で過ごしたカミーユやトゥーサンとの日々を繋げ合わせて、多くの思い出を胸に、これからひとりで生きていくつもりだ。
自分は、素晴らしい人々との出会いに恵まれた。
けれど彼らになにひとつ返せずに――いや、返せぬどころか深く傷つけてばかりで、別れてきた。
それも、もう終わりにしよう。人と関わらずに生きれば、だれも傷つけることはない。傷つくこともない。
リオネルと離れた時点で、時は止まっているのだから。
思い出と、思い出のなかの人々を愛し、彼らの幸福を願って生きるのだ。
ただひとり馬に跨る少女の影が、夕暮れに長く伸びていた。




