2
「まずいな……」
普段は能天気とも思えるほど動じない若者が、このときばかりは表情を曇らせている。
ベルリオーズ家騎士隊長クロードの視線の先には、大広間の奥の椅子に、尊大な態度で腰かける若者の姿があった。
その面前で、このベルリオーズ領内においては何者に対しても腰を折るはずのない公爵クレティアンが、今は一段下がった位置で深く頭を下げている。
「王子殿下に置かれては御自らのお越し、恐縮に存じます。――あのようなことが起きたというにもかかわらず、我が館に足をお運びいただき感謝いたします」
皮肉めいた面持ちで壇上の若者は、自らの叔父クレティアンを見下ろした。
本来、王であるはずだったのはクレティアンである。その座を奪ったのは、クレティアンの異母兄であり、ジェルヴェーズの父である現国王エルネストだ。
けれどいかなる経緯にせよ――それが正当か否かはさておき――、現国王がエルネストであり、ジェルヴェーズが次期国王であるというのは、曲げられぬ事実である。
クレティアンは今、ジェルヴェーズに跪かねばならない立場にあった。
「ラクロワでのことは残念でした。まさか叔父上の配下の者に命を奪われるとは」
「……申しわけございませぬ。本件のこと、言葉もございません」
クレティアンの具合は以前より悪化している。こうして突然来訪したシャルム第一王子ジェルヴェーズを迎えている今も顔色は悪かった。
ジェルヴェーズの周囲を近衛兵が固めている。一方、一段下がったクレティアン側の周囲にも、ベルリオーズ家の高位の騎士がずらりと居並んでいた。
物々しい雰囲気のなかジェルヴェーズは、叔父であり正統な王者であったはずのクレティアンを優越感と悪意のにじむ眼差しで見下している。
「もしやラクロワでのこと、叔父上の差し金ではありますまいな」
「けっしてそのようなことは――」
安静にしていなければならない身だというのに、クレティアンは口調を強める。
「我々は殿下を傷つけようなどとは、微塵も考えておりません」
「叔父上のご子息も同様かな?」
「……殿下はリオネルをお疑いですか。今、貴方様の代わりにローブルグへ赴いているリオネルを」
嫌味とも受け取れぬことはないクレティアンの言葉に、ジェルヴェーズは眉をひそめる。
「リオネル殿がローブルグへ赴いたのは、そもそもそちらの家臣であるナタンとやらが私に斬りかかり、腕を負傷させられたからです。私が望んだわけではありません」
「…………」
「いかがお考えですか、叔父上」
「ナタンの罪を贖うため、リオネルは命を賭けて交渉に臨みました。そして同盟の約束は結ばれました」
「それで疑いを晴らせと?」
「お約束いただいたはずです」
ふん、とジェルヴェーズは鼻で笑った。
「私の命を奪った罪を購うには、いささか軽すぎる対価だったかもしれません」
「それは、リオネルが交渉を成立させ、無事帰還するとわかったからこそ生じる思いでしょう」
「結果論であると?」
「あちらで捕らわれ、殺さる可能性もあったのですから」
ジェルヴェーズが声を立てて笑った。むろんベルリオーズ家の者にとっては少しも笑えないことだ。
「もしそうなっていたら、今回の一件はきれいになかったことにしていましたね」
「…………」
「もうすぐご子息は戻るのでしょう?」
交渉に向かったリオネルらが、ローブルグと同盟を結び、すでにエーヴェルバインを発ったという一報は、十日近くまえにクレティアンのもとに届いている。早ければ明日にも帰還するだろう。
けれどそのことをクレティアンは、甥ジェルヴェーズにはっきりと伝えなかった。
リオネルたちは、ジェルヴェーズが館を訪れていることをまだ知らない。知らせを遣ってはいるが、向こうからこちらへ知らせをよこすのとは異なり、こちらからは相手の場所を特定できない。
最悪の場合、なにも知らずに帰還することになるだろう。
そしてもうひとり、急ぎ知らせを遣っているものの、おそらく届いていないと思われる相手がいる。
事態は、望ましくないほうへ向かっていた。
「リオネル殿が戻ってきたら、盛大に宴を催しましょう、叔父上」
「……さようですね」
迎えの挨拶をどうにか終え、大広間を出たところでクレティアンは片手を壁につく。
「公爵様」
クレティアンの身体を支えたのは、そばに控えていた騎士隊長クロードである。クレティアンの顔は蒼白だ。無理をしたせいだろう。
「公爵様、お部屋へ」
「休んでなどおれぬ」
「顔色がすぐれません。どうかご無理をなさらず」
「――再び使者を送り、リオネルと、フェリシエ殿の双方に知らせなさい。二人をここへ来させてはならない」
「すでに早馬を向かわせております」
クレティアンが自らの足で前へ進もうとした、そのときだ。
兵士が駆けてきて、慌てた口調で告げる。
「フェリシエ・エルヴィユ様、ご到着なされました」
「……遅かったか」
クロードのつぶやく声が、鎮まり返った廊下に響いた。
+++
甘い香りが舞う。
花壇に咲き乱れる花々は軽やかに揺れているが、庭園の脇にある木立の木々は黄色く染まりはじめている。散策する貴婦人たちのなかには、肩に外衣を羽織る姿もしばしば見かけるようになった。
「フランソワの隊を引き上げますか」
夕暮れどき。
花壇の合間をゆっくりと歩むシュザンに、シメオンが語りかける。シャルム王国の正騎士隊隊長であるシュザンは、すぐに答えなかった。
シメオンはシュザンより十歳以上も年上だが、副隊長の地位にある。正統な王家の血筋であるクレティアンを支持する王弟派のシュザンとは異なり、シメオンはクレティアンの兄エルネストを支持する国王派に属するバシュレ家に連なる者である。それでも彼はシュザンに対し尊敬の念を抱き、全幅の信頼を寄せている。
無言で返答を待つシメオンをまえに、シュザンは藍色の瞳をかすかに細めた。
教え子であるリオネルやレオンがローブルグ王国との交渉を成功させたとの報は、すでにシュザンのもとへ届いていた。ただし、対外的にはジェルヴェーズが赴いたことにするよう、国王から指示が下っているわけだが。
シャルムとローブルグが同盟を締結する――となれば、ユスター側はおいそれとシャルム領へ侵攻できないはずだ。
しかし。
「我々は、ローブルグとの交渉内容をまだ詰めていない」
「さようですね」
おそらくシャルム政府から交渉に当たる者がエーヴェルバインへ派遣されるか、もしくは先方からサン・オーヴァンへ使者が来て話し合いをしたうえで、最終的に王のあいだで書面が交わされ同盟は正式に成立する。
すべてを終えるまで、どれくらいかかるかわからない。あるいは両国の意見や要望が折り合わなければ、同盟は最終段階に至るまえに頓挫する可能性もある。
そのことは、ユスターとて承知しているはずだ。ならば。
「あくまでユスターがこちらを敵に回すつもりだったとしたら、どうなると思う? シメオン殿ならどうする」
「そうですね――」
考え込んでから、シメオンは顔を上げた。
「――国境の隊はまだ残しておいたほうが、よいかもしれませんな」
「私もそう考えている」
むしろ追加の隊を送りたいくらいだ。
……けれど、シュザンはそれを口には出さない。
フランソワの一隊は、実のところ国王の許可を得ずに派遣している。軍を動かすためには本来、国王の許可が必要だが、シュザンはこの手続きを省いていた。話したところで、許可は下りないだろうからだ。
有事に正騎士隊を動かすかどうかで、官僚らは大きくもめている。
ヴェルデュ大陸の国々を北方から侵略しつつあるエストラダ王国の脅威が迫るなか、正規軍を西の国境へ向かわせるには危険が伴う。そういった背景があり、正騎士隊を王都から動かすことに対し、少なからぬ反対意見が出されていた。
では、ユスターが国境を侵して攻め入ったときには、どうすればよいのか。
国王派の者たちは、ベルリオーズ家を含めた西方の領主らにすべて押し付けようとするかもしれない。
それはなるべく避けたいところだ。いや、今のベルリオーズ家の状況を考えれば、絶対に避けたい。
「ユスター国境へ、これ以上隊を派遣できないのが悩ましいところですな」
シュザンの考えを察したのか、シメオンが言った。
「陛下を説得することができれば――」
途中で言葉を切ったシュザンの視線の先に、庭園をゆっくりと歩む貴婦人の姿がある。両者のあいだには距離があるものの、シュザンは口を閉ざして深く一礼した。
相手は王妃グレース。
侍女を複数従えて、庭を散策している。そのまま通りすぎていくかと思いきや、王妃はシュザンとシメオンのもとへ歩いてくる。シュザンはさらに腰を低くした。
目前までくるとグレースは、いつもの穏やかな口調で告げた。
「シュザン様、シメオン様、顔を上げてください」
命じられたとおり顔を上げたシュザンの瞳に、上品な浅黄色の衣装をまとった王妃の姿が映る。特段美しくはないが、いつ見ても変わらぬ、優しげな面立ちの女性だ。
「王妃様におかれましては、ご機嫌麗しく存じあげます」
「わたくしは今、期待と不安の入り混じった気持ちなのですよ」
なにかあったのだろうか。シュザンが不思議に思うと、グレースは静かに告げた。
「ジェルヴェーズがベルリオーズ邸へ向かったのです」
「…………」
咄嗟に言葉が出せず、シュザンは無言で王妃を見つめた。
「驚いたでしょう?」
「――ええ」
かろうじてシュザンはそれだけ答えた。驚いた――というよりもむしろ嫌な予感がしてならない。グレースは軽くうつむきながら言う。
「お加減の優れないクレティアン様を見舞い、大きな役目を果たされたリオネル様を労いに訪れるのだと、手紙には書いてありました」
「……さようでございますか」
義兄クレティアンの容体が優れぬことは、シュザンのもとへも知らせが来ている。リオネルもローブルグとの交渉を成立させ、ベルリオーズへの帰途にある。いや、すでに到着しているかもしれない。
リオネルとジェルヴェーズは、すでに対面しているかもしれなかった。
「レオンもリオネル様といっしょですから、今、シャサーヌではわたくしの息子たちとお従兄弟のリオネル様が共にいるのです。これから手を携えてシャルムという国を支えていかなければならない三人なのですから、よい機会といえるでしょう」
「さようでございますね」
それは適当な相槌などではなく、シュザンの心からの言葉だった。
三人が心から打ち解けあうことができれば、それはどんなに素晴らしいことだろう。けれどジェルヴェーズが、リオネルを労いにいったとは到底思えない。
それはおそらくグレースも同様なのだ。
だからこそ〝期待と不安の入り混じった気持ち″と表現したはずだ。
……ベルリオーズ邸で問題が生じていなければよいが。
シュザンの気持ちを察したのか、グレースはわずかに表情を曇らせる。
「三人がすぐに打ち解けるとは、わたくしも思っておりません。ただ、きっかけになれば――と、そう思っているのです」
そうでしょう、と眼差しを向けられて、シュザンはうなずいた。
「私もそうなることを望んでおります」
「リオネル様はあなたの甥御、さぞや心配されていることでしょう」
なんと答えればよいか、咄嗟にはわからなかった。
「……ええ、姉の大切な忘れ形見です」
むろん本心だが、なるべく当たり障りのない言葉をシュザンは無意識に探していた。
「これまでジェルヴェーズはリオネル様に会おうともしなかったのです。会って話をしなければ、解りあうこともできません。わたくしは、あの子たちを信じたいと思っています。わたくしには、信じることくらいしかできないのですから」
今度こそシュザンは返す言葉を探せない。――ただ、グレースの心情を察した。王妃という高い地位にありながら、慈しみ深い心の持ち主だと、素直に思う。
信じることくらい、と彼女は言ったが、ただ信じ続けること、それ以上に勇気と忍耐を要するものはないのではないだろうか。それはおそらく真に心の強い者にしかできない。
王妃の穏やかな笑みが、シュザンの脳裏に焼きついた。
事態が急転したのは、シュザンとシメオンが王妃と別れ、騎士館の職務室に戻ってからのことである。
二人が話しあっていたところへ、転がるようにして正騎士隊に所属する騎士が駆けてきた。
「どうした、テオフィール」
シメオンが怪訝な声を放る。すると騎士は一枚の手紙を差し出す。
「ユスターが西の国境を侵した模様――」
はっとした表情でシメオンはシュザンを見やる。手紙を差し出しながら騎士は付け加えた。
「手紙は二通届けられました。一通は陛下に、もう一通は隊長宛てです」
皆が見守るなか、シュザンは手紙を開く。読み終えると、シュザンは手紙から顔を上げてシメオンへ視線を向けた。
「フランソワですか」
返事の代わりに手紙をシメオンに渡すと、シュザンは部屋を飛び出していった。




