30
借りているのは、二部屋である。
この面々で宿に止まる際には、いつも同じ組み合わせと決まっている。つまり、アベルはリオネルやベルトランと同室で、残りの面々――ディルク、マチアス、レオンが同じ部屋なのである。
どこで宿泊しても、この組み合わせだけは変わることがなかった。
この夜も、アベルはリオネルやベルトランと寝台を並べている。
当初は、異性と同じ部屋で眠ることにひどく緊張したが、回を重ねるごとにさすがにアベルも慣れてきた。慣れなければ、旅先で疲れを取ることはできない。疲れが残れば、翌日に響く。
けれど今宵、アベルは布団のなかで眠れずにいた。
皆と就寝の挨拶を交わしてからどれくらいの時間が経っただろう。用心のために窓は閉め切られており、時間の経過を知る術はなかった。
何度目か数えられぬほどの寝返りを打ったとき、低い美声がアベルの耳を打つ。
「眠れないのか?」
――リオネルの声だった。
はっとして部屋の中央の暗がりへ視線を向けると、リオネルが半身を起こす気配が伝わる。アベルも慌てて起きあがった。
「起こしてしまいましたか?」
粗末な寝台である。すこしでも揺れれば軋む。何度も寝返りを打ったせいで、アベルはリオネルの睡眠を邪魔したことに気づいた。
けれど、軋む音などしなくとも、リオネルにはアベルが眠ったかどうかくらい気配でわかったに違いない。
「おれは少し暑くて目が覚めたんだ」
アベルのせいではないことを告げてから、リオネルは穏やかに尋ねた。
「きみは? なにか気になることがあるのか?」
アベルが暑がりではないことを、リオネルはよく知っている。眠れないのは暑さのせいではないだろう。
「いえ――なんとなく寝付けないのです」
答えてから、アベルは独り言のように付け加えた。
「……今日はいろいろなことがあったから、余計に寝付けないのかもしれません」
「そうだね」
闇のなかでリオネルがうなずく。
「たしかに今日はいろいろなことがあった」
「エーヴェルバインに来るのもはじめてなのに、王宮へ行き、フリートヘルム王とも面会しました」
「おれもエーヴェルバインへははじめて訪れた。国王には会ってないけどね」
アベルが単独でとった行動を咎めるふうでもなく、リオネルは笑った。
フリートヘルムはあのような変人であるというのに、リオネルはなにも知らず呑気な様子だ。
「笑っている場合ではありませんよ」
やや声をとがらせてアベルは言う。
すると、リオネルがいるはずの闇は無言になった。
相手の姿が見えないのがひどくもどかしい気持ちになり、アベルは手燭に手を伸ばそうとする。だが、その手を止めたのは、灯りをつけたらベルトランを起こしてしまうと思ったからだ。
アベルの気持ちをくみ取ったのか、リオネルが立ちあがりアベルの寝台のほうへ歩み寄る。
ここまで来るのかと思いきや、リオネルはそのままアベルの寝台を通り過ぎ、窓辺まで行くと、窓の扉を開け放した。
夕方に雨は上がり、今は月が静かにエーヴェルバインの街を包んでいる。
差し込む月明りは、故郷のデュノア領や、ベルリオーズ領で見ていた光と同じ色をしていた。
「きれいだね」
「……窓を開けてはならないと、ベルトランが言っていました」
用心深いベルトランである。リオネルを守るため、常に細心の注意を払っていた。
「今だけだ。少し室内が蒸し暑いだろう? それに、このほうがアベルの顔がよく見える」
月明りに縁取られたリオネルの輪郭が、アベルを見下ろしている。
「フリートヘルム王は、どんな方だった?」
問われた途端にアベルは口をきゅっと引き結ぶ。リオネルにはけっして伝えてはならないことがあったからだ。
「……気の抜けた麦酒のような方でした」
アベルの答えに、リオネルが笑い声を上げる。そして、夜更けなのに思わず笑ってしまったと口元を手で押さえた。その仕草が、リオネルを普段よりも幼くみせる。
不思議とアベルは不安な気持ちに駆られた。
「リオネル様は、フリートヘルム陛下と絶対に二人きりにならないでください」
「どういう意味だ?」
「――とにかく、ベルトランとわたしから離れないでください」
「きみこそ明日、ひとりでフリートヘルム王のもとへ行かなければならない。そのことのほうが、おれは不安だ」
「いいんです、わたしは」
強い口調でアベルは言った。リオネルの訝る眼差しがアベルを見つめる。その眼差しから逃れるように、アベルはうつむいた。
「フリートヘルム王とは、公式な場で会うべきだということです」
言い訳するようにつぶやくと、リオネルが微笑する。
「なにか言われたのか?」
「いいえ、なにも」
やけにはっきりしたアベルの口調に、さらにリオネルは笑った。
「笑っている場合ではありません」
「それはさっきも聞いたよ」
たしかに、この台詞を口にするのは今宵、二度目かもしれない。
「……リオネル様があまりに呑気だから」
ついアベルはこぼした。
今度こそフリートヘルムと交渉を成立させなければならないのに、相手は筋金入りの変わり者である。
交渉が成立しなければ、リオネルは「恐怖の塔」行きだ。そのうえ、リオネルの左腕はまだ動かすことができていない。
自分は寿命も縮まる思いでリオネルのことを心配しているというのに。
「おれが笑っていられるのは、アベルがこうして元気な姿でおれのそばにいてくれるからだ」
「お言葉は嬉しいですが、ご自身の置かれている状況というものも少しは考えてください」
「きみといっしょなら、なんでも乗り越えられる気がする」
「なんでもって……」
アベルはやや戸惑った。
「わたしはそんなに役に立つほうでは……もちろん持てる力を尽くしますが」
控えめにアベルが言うと、リオネルは「そんなことないよ」と笑んだ。
「笑っている場合では――」
言いかけて、途中でアベルは言葉を止める。この台詞を言い終えたら、三度目になってしまうことに気付いたからだ。
「アベル」
名を呼ばれてアベルは視線を上げる。斜めから月明りを受けた、リオネルの秀麗な顔がこちらを向いていた。
「明日、きみをひとりで再び煙突に登らせ、フリートヘルム王に会わせることを、おれは不安に思っている。けれど、おれがまったく知らないところでそれをきみがやっているよりは、いくらかましだ。――だから、これからは必ず相談してくれないか」
「……善処します」
アベルの回答に、リオネルは軽く溜息をつく。
「おれはよほど信頼されていないのだな」
「リオネル様は心配症すぎるのです」
「心配症ついでに、もうひとつ」
口調は軽いが、向けられる視線は真剣であるように感じられて、アベルは紫色の瞳を見返した。
「ジークベルトには、もう会わないでくれないか」
「どうしてですか?」
リオネルがジークベルトを気に入っていないことは、アベルも薄々気づいている。だが、それにしても会ってはならないと言われる理由までは、思い当たらなかった。
「いや、言い方が悪かった。だれかを伴って、ジークベルトと世間話程度をしにいくぶんにはかまわない。けれど、ジークベルトを頼ってひとりで行動しないでほしい」
「ジークベルトに助けてもらってはならないと?」
「彼の素性をおれたちは知らない。友人として話すことと、助けを求めることとは違う。情報をもらったり、フリートヘルム王との足掛かりを期待したりするのは、もう今回で最後にしてくれないか」
「…………」
「――聞き入れてはくれないか」
懇願するようなリオネルの声音が切ない。
リオネルは、アベルの単独行動を赦し、そのうえジークベルトから預かった包みをフリートヘルム王に届けることも承知してくれた。本来は受け入れがたいことを、リオネルが許容してくれているということは、アベルもよく理解している。
だからこそ、アベルはうなずかないわけにはいかなかった。
今度はアベルが受け入れる番だ。
「わかりました」
少女がうなずくのを確認すると、リオネルは安堵に頬をゆるませた。
「ありがとう」
主人の顔をまっすぐに見つめることができなかったのは、約束が守られた例がこれまでになかったからだ。
リオネルを守るために避けられないと判断したなら、自分は幾度でも誓いを破るだろうとアベルは思った。
けれど、リオネルは信じている。
いや、アベルの真意を知っていて、それでも信じようとしているのかもしれない。
窓から入りこむ風は冷ややかだった。
シャルムでもそうだが、真夏であっても朝夕は気温が下がる。部屋にこもっていた昼間の熱気が外の空気と入れ替わり、室内は過ごしやすい温度になっていた。むしろこのまま開け放していたら、冷えすぎて風邪をひくことになってしまうもしれない。
「明日アベルには大仕事が待っている。眠れなくてもかまわないから、寝台で休んでいたほうがいい」
ゆっくりとリオネルは窓を閉めた。
光が部屋から遠のく。
明日、エーヴェルバイン王宮へは皆で行くが、フリートヘルム王に会いにいくのはアベルひとりである。煙突に入れるのはアベルだけだからだ。
話し合いの結果、この手法以外に、何者からも怪しまれずにフリートヘルム王と接触することは難しいという結論に達していた。
「こんな時間まで、ありがとうございました」
疲れているはずなのに、眠れぬ家臣につきあってくれたリオネルに対し、アベルは礼を述べる。
「アベルが幸せな夢を見られるよう、祈ってる」
どう返事をしてよいか、アベルはわからなかった。
リオネルは優しい。
優しすぎるから、ときに苦しくなる。
その優しさに心を委ねてしまったら、いつか底知れない恐怖で歩けなくなることをアベルは知っていた。
心を閉ざしていれば傷つくことない。だが優しさというものは、閉ざしていた心を開かせ、そしていつか心を粉々に砕く力を秘めている。
だから自分自身を戒める。
心に蓋をしようと。
それなのに、すでにリオネルの優しさに心を預けている自分がいることも、アベルは気がついていた。そうだ、だからアベルは怖れているのだ。
「三年前から、わたしは常に幸福な夢のなかにいるような気がしています」
室内に漂う闇も、窓の外の月明かりも、沈黙していた。
おやすみなさい――と言って、アベルが布団に入ろうとすると、ふと温かい手がアベルに触れる。壊れやすいものを扱うかのような触れ方は、ジークベルトに手を繋がれたときの感触とは少し違った。
驚いてアベルが動きを止めると、リオネルの声が先程よりも近くで響く。
「おやすみ、アベル」
すぐにリオネルの温もりがアベルの手から遠ざかる。
リオネルの触れていた感覚だけが布団に入ったあとも残りつづけ、アベルは切ない思いに駆られて、触れられた手をもう片方の手で包むようにして眠りについた。




