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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
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「街の祭りには行かなかったんだ」

「どうして――」

「慣れないから、ずいぶん時間がかかってしまったけど……おれの命を救ってくれた大切な人のために花冠を作るというのでは、ベルリオーズ家跡取りの、五月祭の過ごし方としては失格かな?」


 アベルは驚きに瞳を見開いたまま、


「――これを、わたしのために?」

「受けとってはくれないか」


 いつになく不安げに揺れるリオネルの声。

 優しい花の香りが部屋に漂う。

 五月祭の香り。

 その甘い芳香に、リオネルの透明感のある香りがかすかに混ざる。


 胸の奥がしめつけられるような、切ないような、苦しいような心地がした。


「わたしは……」


 声はすぐに途切れ、その続きはリオネルに引き取られる。


「男として生きるから、花冠はふさわしくないと――そう思っているのか?」


 アベルは寝台のうえで小さくうなずき、躊躇いつつもリオネルの言葉を認めた。

 五月祭の花冠。リオネルがそれを、感謝の気持ちをこめて作ってくれたこと。それは言葉にならぬほど嬉しい。身に余る贈りものだ。

 けれど、この祭りの日に花冠をかぶるという夢は、死んだシャンティが見ていたものだ。

 それはもう遠い過去の夢。


 花冠を受けとることを躊躇い、瞼を伏せるアベルのまえで、けれどもリオネルは真摯な瞳をひたと相手に向けつづけていた。


「きみの信条は、理解しているつもりだ。でも――」


 瞼を伏せたままのアベルのまえで、リオネルは片膝を床につき、目線の高さを同じにする。


「それでも、今日だれよりも花冠が似合うのは、アベルだと思っている」

「…………」

「春の到来を祝うこの日に、命を救ってくれた感謝の気持ちと、アベルを大切に想う気持ちとを、この花冠に預けたい」


 一切の偽りのない、まっすぐな言葉。

 真剣な声。

 思わず顔を上げたアベルの瞳に、リオネルの宝石のような瞳の色が飛び込んできて、心臓が跳ねる。自分でも感じることができるくらい鼓動が速まり、顔が熱くなった。


 リオネルの真摯な気持ちはきちんと伝わっているのに、どう答えたらよいのかわからない。

 焦るほどに言葉は思い浮かばない。するとリオネルが微笑した。


「無理強いするつもりはないよ」


 混乱におちいっているアベルの手を、リオネルが優しく握る。


「困らせて、ごめん」


 そう言いながら、アベルの華奢な手のなかに、小さく冷たいものを置いた。


「でも、これだけはもうすでにアベルのものだ。もう一度受けとってくれたら嬉しい」


 アベルが手のひらを開くと、そこには水宝玉の首飾り。

 かつてリオネルから贈られたものだが、陰謀を知らせるべく伝言をジェレミーに託した折に手放したままだった。


 水宝玉の首飾り。

 そして、五月祭の花冠。

 ……これらに込められたリオネルの想い。

 アベルはあらためて思い知る。

 男として生きると決断したかどうかなど関係なく、リオネルは「アベル」という存在を大切に思ってくれている――そのことに。


 アベルは首飾りを片手で握りしめ、立ち上がろうとするリオネルの左手を掴んで引きとめた。

 驚いた面持ちでリオネルが振り返る。

 その深い紫色の瞳を直視できぬまま、アベルは消え入りそうな声で告げた。


「花冠」

「え?」

「……わたしが、いただいてもいいのでしょうか」


 沈黙が降りおちる。

 それから、リオネルの輝くような声音が響いた。


「もちろんだ」


 これほど嬉しそうなリオネルの声を、聞いたことがあっただろうか。

 自分のような者に花冠を受けとってもらうことに、これほど喜んでくれるこの主人は、本当に優しい人なのだとアベルは思う。


「ありがとうございます。とても嬉しいです。わたしのような者のために、花冠を作ってくださり……」

「作りたいから作ったんだ」


 アベルはふと思い出すものがあったが、なにかを口にするより早く、リオネルは寝台に横たわったままのアベルの頭にふわりと花冠を乗せた。


 頭上には、今、花冠がある。

 ――リオネルが作った花冠。

 それも、まるで恋人同士のように、リオネルに手ずからかぶせてもらって……。


 頭のなかでこの現実を再確認すると、アベルの頬はどうしようもないほど紅潮した。

 自分でもそのことがわかるので、余計に恥ずかしくて身体中の血がめぐり、しまいには耳朶までが火照ってくる。


 花冠をかぶったアベルを目前にして、リオネルは無言だった。

 やはり男の姿の自分には似合わないのだと、頬を染めたままアベルはやや落ちこむ。


 しばしの沈黙――アベルにとっては拷問のような静寂の後、リオネルがひとりごとのようにつぶやいた。


「すごく綺麗だ」


 切なげに双眸を細め、リオネルは感嘆の声をもらす。


「――なんと言ったらいいか、わからないほど」


 淡い金色の髪、透きとおるように白い肌を、薄紅、水色、乳白色、紫といった色とりどりの花が際立たせている。


 けれど、もはや常の思考回路のなかにないアベル本人には、自分がどのような姿なのか――リオネルになにを言われたのかさえよくわからない。

 顔中が熱くて溶けだしそうなのに、頭のなかは真白に固まっているようだった。

 このような状態のアベルに、助け船を出したのはベルトランである。


「アベルの熱が上がるぞ。そのくらいにしておけ、リオネル」


 リオネルもまた、周囲が考えるよりも意中の相手に花冠を渡すことで緊張していたようだった。そのためか、ベルトランの言葉にはっとする。


「すまない、アベル。体調が悪いときに」

「……そんなことないです」


 なにに対してリオネルが謝っているのかわからなかったが、とりあえず自分の状態をごまかしたくてアベルは適当な返事をした。


 二人の様子たるや、両想いになりたての恋人か新婚の夫婦のようなので、ベルトランは自分まで恥ずかしくなってくるような気がして、視線を二人から外しなるべく遠くを見やる。なるべく遠く――その終着点はむろん、窓の外である。


 そのとき、再び扉が開いた。



「あれ? 春の女神かと思えば、アベルじゃないか」


 思考回路が鈍っているアベルの耳に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。


「ディ、ディルク様……」


 アベルは慌てた。

 かつて、花冠をかぶった姿を見せたいと願った相手が、いつのまにか目の前にいる。彼の入室に気がつかなかったのは、周囲の状況を理解できるほどの余裕が、アベルになかったからだ。


「綺麗だろう?」


 リオネルは平然としている。

 ――が、アベルはそうではない。

 慌てて手を頭にやる。だが躊躇が生じて、手を花冠に乗せたままどうしてよいかわからず、さらに混乱する。


「ああ、すごく綺麗だね。部屋を開けた瞬間、どこの令嬢をリオネルが寝台に引きずり込んだのかと思ったよ」

「そんなことをするわけないだろう」


 リオネルは冷静に言い放った。


「いや、隅に置けないやつだと思ったよ。なあ、レオン」


 水を向けられたレオンが、マチアスの横で迷惑そうに答える。


「花冠はたしかに似合っているが、おれはすぐにアベルだとわかった」

「そう? おれには一瞬、女の子に見えたけど」


 ディルクが口端を吊り上げていたずらっぽく笑うと、レオンは呆れたような顔をし、残りの者はいっせいに冷やりとした。――ディルクはときに、冗談だか本気だかわからないことを口にする。


「なんていうのは冗談だけど。それにしても、美しいとはいえ、れっきとしたシャルム男性のアベルに花冠を贈ったのは、どこのどいつだ?」

「おれだ」


 リオネルは平然と答える。

 ――が、アベルは顔から火がでるのではないかというくらい赤くなる。


「ほう、シャルム貴婦人の憧れの的であるリオネル様が、この愛の祭りの日に、花冠を贈った相手はアベルか」

「今回、毒杯から救ってもらったお礼だ」

「お礼に花冠ね」

「それと、怪我をさせたことに対する謝罪も込めて」

「謝罪に花冠ね」

「花冠は、五月祭だからだ」

「五月祭だから花冠ね」

「なにが言いたい?」


 いつもと変わらぬ表情のなかに、静かな苛立ちをこめてリオネルが問うと、ディルクは肩をすくめて心なしか小さな声で答えた。


「いいえ、なにも」


 事情を知るベルトランとマチアスが視線を交わす。リオネルが花冠を作りアベルに贈ったのは、彼女を心から愛しているからに他ならない。


「これ以上、余計なことを口にすると怒られそうだから、おれは黙るよ」


 親友の不穏な空気を感じながら、ディルクはアベルのそばへ歩み寄った。


「本当に似合っているね」


 淡い茶色の瞳に見つめられ、アベルは複雑な思いを抱く。

 ディルク・アベラールに花冠をかぶった姿を見せる――それは、夢にまでみた願い。

 けれど今、嬉しいという気持ちよりも運命の皮肉を痛感する思いのほうが大きかった。

 なぜ今なのか。夢が現実になり、ディルクからこの言葉を向けられるのが、なぜ、今このときなのか。


 あの日さえなかったら、あの瞬間さえなかったら、自分はこの人の婚約者として――この人の妻としてこの言葉を受け取ることができていたのだろうか。そのときは、父をあれほどまで怒らせることもなく、母やカミーユを哀しませることもなく……。


 アベルは泣きだしたいような心地になる。熱かったはずの顔も、早かったはずの鼓動も、急速に鎮まり冷たくなっていくようだった。けれど。

 するりと頭上から花冠が離れていく。

 花冠を手にしていたのは、リオネルだった。


 はっとしてリオネルに視線を向けると、彼は安心させるように穏やかにほほえんでいた。


「おれが我儘を言って受け取ってもらったんだ」


 だれにともなくそう言って、花冠を傍らに据えられた小卓の上に置く。


「それで? ディルク」


 主語も述語もなくリオネルが尋ねると、「ああ」となにか思い出したように、ディルクが手を振ってマチアスに合図した。


「カミーユ・デュノア殿から、手紙を預かってきたよ、アベル」

「え――」

「ほら、アベルが助けてくれた、デュノア家の跡取り殿だ。手紙だけ渡す約束だっただろう?」


 今朝からディルクが不在であったのは、宮殿に赴き、カミーユから手紙を受け取るためだったらしい。従者であるマチアスが携えていた手紙を、ディルクが直接アベルに手渡した。







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