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空気が輝くような朝だった。
鳥はさえずり、花は香る。蝶や蜂は蜜を求めて花のまわりを飛び回り、人々は春の訪れを歌い、踊り、酒を酌み交わす。
五月祭。
――これは三美神のうち、愛と平和と豊穣の女神リュドミーラに捧げる祭りである。
つまり、「春」の祭りであるとともに、「愛」の祭りでもあった。
子供たちは花冠を作り、若者は街へと繰り出す。相手のない者は出会いを求め、相手のある者は恋人と花を贈りあい、愛の言葉を交わす。
大陸中至るところで、幼子から老人までこの日を祝していることだろう。ここシャルムの地においても、歌と笑い声が、春の風に乗って空に舞い上がっていた。
けれどこの日、祭りの浮かれた雰囲気とはかけはなれた空気をまとっている娘がいた。
彼女は、宮殿で催される宴の音も届かぬ、寂然とした裏門のひとつから、表へ出るところである。
荷物は白い籠ひとつ。
はじめから、なにも持たずにここへ来たのだ。去るときも後生大事に携えていかねばならないものなどなかった。
朱色の髪を洒落気なく結い上げ、地味なドレスをまとっているが、その美しさは以前と変わらない。
なにも以前と変わらぬはずであったが、彼女は、ここを去ることとなった。ジェルヴェーズからの寵愛を失ったためである。
それを決定的にしたのが、先の事件だった。ジェルヴェーズの関心を失い、余計な問題を起こした今、クラリスの居場所は宮殿にはなかった。
『即刻、ここを去れ。それがおまえの望みなのだろう』
宮殿から立ち去るようにと告げたのは、ここへ自分を導いた男――フィデールである。
陽も、とっくに沈んだ頃。
『もう少し、殿下のお役に立ってもらいたかったが』
政務を処理するような淡々とした口調で、彼は告げた。
『しかたがない、殿下は気まぐれだ』
クラリスは青ざめた顔で、けれど、この世で最も愛おしい人から視線を外さなかった。
――外すことができなかった。
愚かであるとわかっている。
この人が、自分に対し微塵も愛情など抱いていないことは、知っている。それでも心は止められない。惹かれる心は――。
『早々に関心を失ったのはともかく、おまえのせいでカミーユを傷つけるところだった。このことだけは計算外だった』
青灰色の瞳が、鋭くクラリスを射る。
『……申しわけございませんでした』
『謝罪はいい。これ以上カミーユと関わるな』
小声でクラリスは『はい』と答えた。
『それに殿下はこの頃、ひどく苛立っておられる。これ以上、殿下の周囲で問題を起こされては困る』
蝋燭の明かりが、フィデールの整った顔を照らしだしている。光と陰の二色に染められた愛しい人の容貌に、クラリスの胸は締め付けられた。
『殿下に仕えた報酬だ』
先日の事件のぶんは差し引いてあるが、とつけ足しながら手渡された革袋を開けば、そこには信じられぬほどの金貨が入っていた。
『ブレーズ領に戻るなり、王都に住みつくなり、好きなように生きるがいい』
その革袋の重みを――金貨の冷たさを手に感じながら、クラリスは呟く。
『これが、あなたが仰っていた「幸運」ですか?』
そのときはじめて、青灰色の瞳が真にクラリスを映したようだった。
王族の寵愛を受け、有り余る金を手に入れた――それが、クラリスをブレーズ領から連れだしたときにフィデールが口にした「幸運」の意味なのか。
『他になにが望みだ?』
クラリスは押し黙る。
なにが望みか。
それはただひとつ――けっして得られぬもの。
『あなたの……』
ならばせめて。
『……あなたのおそばにお仕えいたしたく存じます』
束の間の沈黙。その一瞬にフィデールがなにを思ったのか、それを知ることが、クラリスはひどくこわかった。
『召使いなら足りている』
冷ややかな声。
『では、せめて口づけを――』
口づけをください。
終わらない夢を。わずかな希望を。たしかな痕跡を――ください。
『それが、おまえにとっての「幸運」か?』
まるで情のこもらぬ眼差しを、フィデールはクラリスに向ける。その瞳の冷たさに、クラリスは一瞬、答えるのをためらった。
彼の気持ちはわかっている。傷つくのは怖い。
それでも口を開く。
『……はい』
この会話の果てに、自分がフィデールという存在に惹かれた理由が見えるような気がした。
そうでなければ、この会話が終わったころには、この男への恋情を完全に断ち切ることができるほど、心がずたずたになっていればいい。そうでなければ、あと一歩も前へ進むことができないような気がした。
『フィデール様を、お慕いしております』
燭台の炎が、耐えず涙を流しながら、ゆらりゆらりと揺れている。
涙が枯れたころには蝋は溶けつくし、命を終えているのだ。
『それが、カミーユと関わった理由か?』
クラリスの告白に驚いた様子もなく、フィデールは尋ねた。
『……そうだったのかもしれません』
『浅はかなことだ』
クラリスは瞼を伏せる。
『言ったはずだ。騒動を起こしたぶんは差し引いてあると』
『…………』
『おまえにこれ以上与えるものなどない』
伏せられたクラリスの瞳から、涙が零れ落ちた。
怖れていた。
けれど、望んでいた。
これが――、この人と、そして己の恋心との別離。
『おまえは、己の浅はかさに見合った相手を探すといい』
席を立ちながら、フィデールはクラリスの顔を見ずに告げる。そして扉口へ。
手つかずの葡萄酒が、哀しげに震えた。
去っていく愛しい人の姿を、クラリスは直視することができない。
けれど、部屋を去る直前のこと――。
『私のもとに真実はない』
フィデールは言った。
『幸せになりたいなら、私から最も離れた場所にいくことだ』
クラリスは、はっとして顔を上げる。けれど、すでにフィデールの姿はなかった。
訪れた静寂。
フィデールがこの場所にいたことが幻のようである。
小卓のうえに二つだけ残された硝子の杯だけが、彼がここにいたという事実を証明していた。
最後の、フィデールの言葉が耳に残っている。……そこに漂っていたのは、孤独ではなかったか。それとも、そんなふうに感じるのは、己の心の投影だろうか。
空虚な椅子を――、無口な扉を、見つめる。
自分が彼に惹かれた理由、それは……。
裏門をくぐるまえに、クラリスは両手を胸にあて、双眸を閉じた。
目をつむっていても陽の光が眩しく感じられる。
なんと美しい朝だろう。
春の風がドレスを優しく揺らす感覚に、クラリスは瞳を開ける。
長い夢を見ていたのかもしれない。
目の前にフィデールが現れ、自分をあの場所から連れだしたときから、長い、長い夢を見ていたのだ。
そして夢は終わった。夢の続きを、もう見ることはない。
幸福な夢だったのか、それとも辛く苦しい夢だったのか、今ではもうわからない。目覚めてみれば、ただ、春の朝陽が眩しかった。
裏門であるが、鉄柵門の周囲に並ぶ兵士の数は多い。五月祭の当日は人の出入りが多いので、警戒しているのだ。
けれど、彼らが特に気にかけているのは、城内へ入ってくる者に対してであり、出ていく者に対してはさほど注意を払ってはいない。クラリスは、門をくぐったらもう二度とこの場所には戻ることができぬことを理解した。
ジェルヴェーズと過ごした時間、華やかな部屋の内装、窓からの眺め、整然と控える近衛兵、優美な食器類と馳走……そして、生まれてはじめて恋をした人。
様々なものが思い起こされ、そして今、それらに心の中で永遠に別れを告げた。
名残惜しいわけではない。未練があるわけでもない。
けれど、ひとつだけ心残りがある。
それは――。
クラリスの胸に、一滴の陰りが落ちたときだった。
自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、クラリスは、はっとした。
この声は。
振り返ると、朝の陽光に輝くまばゆい金髪が、クラリスの瞼の奥に染みた。
「……カミーユ様」
少年の顔に笑顔はない。
哀しげな表情は、彼を少しばかり大人びて見せている。彼がここにいるという驚き以上のなにかが、クラリスの胸を締めつけた。
「ここを、出ていくの?」
「ええ」
クラリスはほほえんだ。
小さな石が敷き詰められた地面を、ゆっくりとカミーユは歩んでくる。
花の香りがした。
どこからか、笑い声が聞こえる。宮殿内からか、それとも庭園のほうからだろうか。
これ以上カミーユに関わるなと言ったフィデールの声がふと脳裏によみがえり、クラリスは小さな痛みを覚える。
「ごめん」
目の前まで歩み寄ったカミーユは、短く謝罪した。
「貴女を、好きな人から離してしまったんだね」
わずかに驚いたが、すぐにクラリスは納得する。
そうだ、自分はあのときレオン王子に告げたのだ。――フィデールに想いを寄せていることを。レオンの口から、カミーユに伝わるのは当然のことである。
「違います。わたしはあのとき、ここから出ていくことを自分で決意したのですから」
哀しげな表情でこちらを見つめるカミーユに、クラリスは明るく笑って見せた。
「それに、殿下の寵愛を失ったのは、わたしの力が及ばなかったからです。それなのに、このようなわたしにもフィデール様はもったいないほどのお金をくださいました。これだけあれば好きな場所へ行き、生涯のんびり暮らすことができます。わたしは、フィデール様から将来の安心と、未来の平穏な暮らしをいただきました。これ以上のことはありません」
「そうか」
うなずいたが、少年の表情は晴れなかった。
「あなたは少しフィデール様に似ていらっしゃいます」
「従兄弟なんだ」
軽くうつむき、カミーユは答える。
「母方のね」
「はじめてお目にかかったとき、不思議な心地がしたのです」
「はじめて会う気がしなかった?」
「ええ」
――夢の続きを、見ているような気がした。
「大変ご迷惑をおかけしました。なんとお詫び申し上げればいいか、どう償えばいいかわからないほどです」
「そんなことない。おれこそ、迷惑をかけたのかもしれない」
「いいえ、カミーユ様には心より感謝しております」
「……おれは、貴女になにもしてあげられなかったよ」
「わたしはたくさんのものを、あなたからいただきました」
うつむいたままカミーユは少し笑った。その笑みには、複雑な感情が入り混じっている。
それからすぐに、なにか思い出したようにカミーユは顔を上げた。
「そうだ、貴女に言おうと思っていたんだ」
小さく首を傾げるクラリスに、カミーユは最高の贈り物をするかのように告げる。
「煙突掃除の子、生きているんだ」
「――え」
クラリスは瞳を大きく見開く。
「まさか……」
「本当だ。わけあって事情は話せないんだけど、彼は怪我を負ったけど、今はきちんとした場所で治療を受けてる。きっと元気になるよ」
「本当に――」
泣くまい。
見終わった夢に別れを告げるとき――この王宮を去るときに、けっして泣くまいと誓っていた。涙は枯れた。もう涙は流すまい。そう思っていた。
それなのに。
クラリスは両手で顔を覆った。
こんなにうれしい知らせを、近頃聞いたことがあっただろうか。
うれしいときにも、人は涙を流すのだということを、クラリスは長いこと忘れていた。
溶けつくしたと思っていた蝋には、まだ、流す涙が――燃やす命がある。
「よかった」
喜ぶクラリスを見つめるカミーユの顔に、ようやく笑みが浮かぶ。弾けるような笑みだった。
「うん。おれもうれしくて、どうしようもないんだ。感謝の気持ちを伝えたくて、煙突掃除の彼に手紙を書いた。これから城の外でディルクに手渡すんだよ」
「ディルク様……」
「ああ、おれの『兄』みたいな人。本人には直接会えないから、渡してもらうんだ」
「そうですか」
指の先で涙を拭いながら、「うらやましいです」とクラリスは言った。
「クラリスと連名にしておこうか?」
カミーユが尋ねる。
「そうですね」
クラリスは笑った。
うらやましいのは、感謝の気持ちを伝えられることだけではない。血の繋がりがないにも関わらず『兄』と思えるような存在がカミーユにはあることもまた、うらやましいのであった。
「いつか生きていたら、またあの子に会える日が来るような気がします」
「わかるよ」
カミーユも笑う。
「今回は会えないけど、いつか会える。おれもそんな気がするんだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、そのときにいっしょにお礼をしようか」
「ええ、わたしの気持ちはそれまで、ここに、大切にとっておきます」
そう言って、クラリスは右手を胸に当てる。
会話が途切れると、二人は現実を思い出す。ここで別れなければならないという現実を。
二人が再会する可能性は、ないに等しい。
もう二度と会うことはないかもしれない。
そしてそれが、クラリスがフィデールと交わした約束でもあった。
けれど、たとえそうだとしても。
いつか――、またいつか、運命のいたずらが二人を引き合わせてくれることを願った。
辛い出来事を「過去」として受け入れられるようになった日には、また笑顔で再会できるだろうか。
「もう少し歳が近かったら、フィデール様にではなく、あなたに想いを寄せていたかもしれません」
冗談めかしてクラリスが言うと、カミーユはさらりと返した。
「悪いけど、今おれは姉さんのことしか考えられないんだ」
遠慮のない少年の言葉に、クラリスは瞳をまたたかせる。
「昨日と今日の二日間で、わたしは二人の男性にふられました」
なんともいえぬ面持ちで、クラリスは苦笑した。すると、やや慌ててカミーユが首を振る。
「いや、貴女がどうこうというのではなくて、おれにとって姉さんは特別な人なんだ。強くて優しくて綺麗で……姉さんより素晴らしい女の人を、おれは見たことがないよ」
「それほどに?」
「うん」
うなずく少年は誇らしげで、けれど、寂しげでもあった。
「姉さんは、いろんな意味でちょっと他の人とは違うから。でも、貴女も素敵な人だ」
曖昧な表情のクラリスに、カミーユは繰り返す。
「本当だよ。とても素敵な貴婦人だ。――貴女なら、きっと幸せになれるよ」
「ありがとうございます、カミーユ様」
二人は再び顔を見合わせ、そして、笑いあった。
「さようなら」
クラリスが言った。
「さようなら」
カミーユが返す。
腕にかけた籠を手に持ち直し、クラリスは深々とカミーユに頭を下げて、踵を返した。
ゆっくりと、兵士たちが槍を構える裏門へと向かう。
朱色の髪が、遠ざかる。
カミーユもまた、夢を見ていたような気がした。
それは、生死もわからない姉との再会を願ってやまぬカミーユに、神様が少しだけ、「姉のような存在」と引きあわせてくれたような、そんな夢だ。
夢が終わる時間は、哀しい。
けれど、これからまた新しい夢がはじまるのだ。
夢が現実になる日は、きっと、もっとずっと先。それでも、命があるかぎり夢を見つづける。
「元気で!」
遠ざかる後ろ姿に向かってカミーユは叫んだ。
その声が聞こえたかどうか、振り返ったのは兵士だけだったが、それでもよかった。
いつかまた会える気がするから。
――会えなくてもいい。
――会えるような気がすれば、それでいいのだ。
たとえそのまま一生を終えることになってもかまわない。
終わらぬ夢を、抱き続けることができるのだから。
春の風が、太陽の光を一身に受けて、吹き抜けていった。




