35.大痴話喧嘩とVSスライムの妖獣と人魚の妖獣 その2
「のわぁぁぁ!」
紐野繋は思い切り走っていた。
後ろからは、まるで洪水のように緑色をした物体が彼を追いかけている。彼の隣には何処かで見た線の細い女子高生もいて、やはり彼と同じ様に緑色の物体から逃げていた。
“あれ、やっぱり、妖獣だったのか? なんでいきなり襲って来たんだ?”
彼は目を白黒させながら、少しでも高い方へ逃げようと辺りを探した。敵はどうやらスライム状をしているらしい。ならば、高い所へ昇るのは遅いだろうと考えたのだ。しかし、そう思って坂道を駆け上がっても、スライムは難なく彼らに追いついて来た。思わず叫んでしまう。
「半液体のくせに、容易に重力に逆らうなぁ!」
坂道を完全に駆け上がり切る前に、スライムに彼は足を捕らえられてしまった。しかし、粘性はあるもののそこまで強い力ではなく、痛みも痺れも何も感じなかった。消化液などの凶悪な武器を、どうやらこのスライムは持っていないらしい。
“……とすると、こいつで怖いのは溺れさせられるくらいか?”
がしかし、彼がそう思ったタイミングだった。隣で一緒に逃げている女子高生が、突然後ろから何者かに羽交い締めにされたのだ。
――魚?
一瞬、彼はそう思った。だが、形状が魚とは異なっている。上半身に腕が付いていて、ロングの髪が見え、胸もあった。つまりはそれは人魚だったのだ。美しさの中に凶暴さと不気味さが感じられる造形をしていた。大きさは子供よりも少し大きいくらい。
どうやら、この人魚はスライムの中を泳いでいるらしい。
“クソッ!”
彼は慌ててポケットの中に手を突っ込むと小型爆弾を取り出した。至近距離用に彼が開発した爆弾だ。それを人魚に向かって投げると、見事に顔に命中した。人魚は堪らずに女子高生を羽交い締めにしていた手を放す。
「よしっ!」と彼を喜んだのも束の間、人魚は今度は直ぐに邪魔をした彼にターゲットを変更したらしく、一瞬で素早く移動し、スライムの中で彼の足を掴んだ。
物凄い力だった。
スライムの中に引きずり込まれる。
相手はスライムの中にいるから、爆弾で対抗する事もできなかった。
“これ、まずいのじゃないか?”
スライムの中で溺死させられる。
そう思った刹那だった。突然、衝撃波がスライムを切り裂いたのだ。
「風の刃!」
見ると、キリが宙にいて、ステッキを振り下ろしている。彼女が風の魔法でスライムを切り裂いてくれたのだろう。彼女はそれから彼を一瞥すると、何か言いたげな表情のまま無言で彼の腕を掴んだ。もう片方の手で一緒に逃げていた線の細い女子高生の腕も掴んでいる。そして、一呼吸の間の後、一気に加速して飛ぶと、スライムが元に戻り切る前にそこから脱出をした。
ビルの屋上、キリは紐野を降ろし、その隣のビルの屋上には女子高生を降ろした。そこまではスライムも流石に追っては来られない。ビルとビルの間、中央で彼らにややきつい視線を送りながら彼女は腕を組んでいた。
「なんでわざわざ別々のビルの上に降ろすんだよ?」
と、紐野が尋ねると、
「スライムで透けた服の女の子を、あんたの傍には置けないでしょう?」
そう彼女は返した。
見ると、確かに女子高生は制服がスライムで透けていて、ぴったりと張り付いた布からは真っ白い肌が見えていた。目が合うと、彼女ははにかんだ笑顔を彼に向ける。
その様子を見ながらキリが言う。
「なに? あんたら知り合いだったの?」
やや不機嫌な様子だ。
――知り合い?
と、紐野は首を傾げる。
「知り合いって何の話だ?」
「とぼけないでよ。その子、ピエロの時の女の子でしょう? あなたが助けた」
それを聞いて彼は驚く。女子高生を見ると彼女は慌てたような様子で説明をした。
「いえ、違います。知り合いではありません。紐野さんがあそこにいるって聞いて、ピエロから助けていただいたお礼をしようと私が向かったんです。そうしたら、スライムが襲いかかって来て」
「……らしいぞ? あそこは暗かったから僕は顔はよく覚えていなかった」と彼は続ける。キリは「ふーん」と疑わしそうな顔で二人を見る。それから軽く溜息を漏らす。そして「ま、嘘は言っていないみたいね」と言うとビルの下で蠢ているスライムを見やった。スライムで汚れた紐野に再び視線を戻す。
「一応、断っておくけど、わたしのサポート役じゃなかったら、あんたはただの一般人だから助けただけだからね?」
「あー、そうかい」
「とにかく、あんたは今回はそこで大人しくしていなさい」
それに紐野は不満そうな様子を見せる。
「お前なぁ!」
「あんたの爆弾は、今回のスライムには効かないでしょうよ! 足手まといになるだけだって言っているの!」
ややきつい言い方だが、要は彼を心配しているのだ。
「それならお前の風の魔法だって相性が悪いだろうが」
「あんたよりはマシよ。わたし、飛べるし」
苛立った様子で彼は彼女を見る。本当はこんなやり取りをするつもりはなかったのだ。彼女に会ったら謝る気でいたのだから。あのスライムの所為で…… と彼は思ったが、スライムがいなくても同じだったかもしれない。
それから飛んでいこうとする彼女に向けて、彼は声をかけた。
「おい」
「なによ?」
「無茶はするなよ……」
それが、今彼が彼女にかけられる精一杯の言葉だった。
「分かっているわよ」
そう彼女は素っ気なさそうに返す。ただし、よく見ると口元が微かに微笑んでいた。
魔法少女キリは空を飛び、スライムに向かいながらちらりと紐野を見た。切なそうな表情で。
独り言を漏らす。
「あ~あ、なんでこうなっちゃうかな?」
本当は彼女も彼に謝る気でいたのだろう。それから紐野の隣のビルにいる女子高生に目を向ける。
彼女さえいなければ、素直に謝れたのに。
そう思っているようだった。
ただそれから軽く溜息をつく。ちょっと自信がないのかもしれない。
空からキリはスライムに向っていった。恐らく全体の体積は50メートルのプール分くらいはある。巨大だ。しかし、それでも、スライム自体はそこまで強力な妖獣ではない。警戒するべきなのか溺死くらいで、それも恐らくほとんどの魔法少女は空を飛べば簡単に逃げられるだろう。ただし、スライムの中を泳いでいる人魚は多少厄介かもしれない。
キリがスライムの水面に近付くと、突如として人魚が奥の方から浮かび上がって来た。そのまま飛び掛かって抱き付こうとする。それをキリはすんでで上昇して躱した。ボチャンとやたらと高い音を立てて再び人魚はスライムの中に潜る。キリはそこに風の刃で攻撃をしたが、スライムを切り裂いただけで元に戻ってしまう。人魚には当たらなかったらしい。
「チッ」と彼女は舌打ちをする。
スライムの奥に深く潜られると位置が把握し辛いし、攻撃をしてもスライムで吸収されてしまう。容易には倒せない。人魚の今までの行動からいって、攻撃手段はスライムの中に引きずり込んで溺死させるくらいだろうが、それでも一般人が狙われる危険を考えると馬鹿にできない。
「早くなんとかしなくちゃね」
と、彼女は呟いた。
ビルの上で、紐野は双眼鏡でキリを観察していた。
「あいつ、もっとスライムから離れていろよ」
人魚に攻撃されたキリを見て、彼はそう独り言を呟いた。冷や冷やした思いで、彼女を見ているのだ。本当は近くでサポートしてやりたいのだろう。
「あの……」と、そんな様子の彼に女子高生が話しかけて来る。
「キリさんは大丈夫そうですか?」
「ああ、」とそれに彼は返す。
「油断しなければ大丈夫だろう。でも、あのスライムと人魚、退治するのは簡単じゃないみたいだけどな」
まず弱点が分からない。もっと情報を仕入れる必要がある。そこで彼はふと気が付いたようだった。
「そう言えば、寒くないか?」
スライムの所為で彼女の制服は濡れてしまっているのだ。ビルの上なので風も強い。
「あ、大丈夫です」と彼女は返した。見ると、既に制服は乾きかけていた。肌があまり見えなくなっている。微量なスライムが水分を吸っているから、そのスライムを剥がしてしまえば、水分は効率良く除けるのかもしれない。ちょっと彼は残念に思っていた。
そこで不意に彼の耳に聞き覚えのある声が入って来た。
「うんならかしていこー!!」
突進する音も微かに聞こえる。
双眼鏡で見てみると、案の定、それは魔法少女スピーダーだった。道路を疾走している。
「そう言えば、今日は火曜日だったか」
と彼は呟いた。
スピーダーの出撃可能日だ。
しかし、スピーダーと今回のスライムは相性がかなり悪そうだ。スライムにドロップキックをかましても効かないだろう。来てもあまり役には立ちそうにない。本人は、なんだかとても楽しそうにしているが。
そう思って双眼鏡で観察し続けると、彼女はまずはスライムの近くにいる住民達数人をかついで避難させていた。彼女のスピードなら、スライムから逃げるのは容易だ。それから直ぐに今度はポリバケツを何個か抱えて戻って来ると、スライムをすくってその中に閉じ込め始めた。
「地道なこと、やってるなぁ」
と、それを見て彼は思わず呟く。着実にスライムの体積は減らせているが、容器の数には限界があるからあれで倒し切るのは難しいだろう。いや、仮に容器が十分にあっても時間がかかり過ぎる。
それから彼は空を飛ぶ黄色い影に気が付いた。ライだ。しかも、その下にはバリー・アンの姿もある。彼女達も来てくれたのだ。ライが電界獣を出して魔力を溜め始めると、それと同時にバリーがバリアを張ってスライムを遮断した。スライムの一部が切り離され、小さくなっている。
“多分、スライムと相性が良いのは、バリーの能力だよな”
と、それを見て紐野は思う。
これでもしライの電撃が効くのなら、恐らくバリーとライのコンビネーション攻撃だけで倒せる。バリーがバリアでスライムを小さく切り取り、そこにライが電撃で攻撃を加えるのを繰り返せば良いのだ。
「電界獣プラス! 行きなさい!」
彼女の指示で、電界獣プラスがスライムの傍らに降りる。その次の瞬間、ライは電撃をもう一匹の電界獣マイナスから放った。が、スライムにこれといって大きな変化はない。どうやら導電性は低いらしい。
“ダメか”
と、彼は憮然とする。そう簡単にはいかないようだ。
しかし、そこに異変が起こった。何故か突然白い靄が出始めたのだ。バリーがバリアで切り取って小さくなったスライムがいる辺り。そこだけ気温が下がっているようだ。そこで彼は背の低い少女がそこにいるのに気が付いた。アイシクルだ。
「アイス・ホールド」
アイシクルが氷の魔法を使う。すると、スライムの一部は凍り付いてしまった。流石にこの攻撃は効いていそうだった。凍結し切ってはいないが、恐らく、今までで一番効果がある。
……ただし、少しだけ彼は心配していた。
「やったぁ! さすが、アイシクルちゃん!」
そうライがはしゃいでいて、アイシクルは頷いている。
「多分、あたしなら倒せる」
バリーが言った。
「よしっ! なら、次々やっちゃいましょう」
「分かった」とそれにアイシクル。しかし、そこから動かない。
「どうしたの?」とバリー。
「あたし、魔力を溜めながらだと、そんなに速く動けないの。ここで溜めているから、スライムを連れて来て」
そのアイシクルの言葉に、ライとバリーは何も返さない。顔を見合わせる。
しばらく後にバリーが言った。
「えっと…… それってどうすれば良いの?」
既にスライムは遠くに逃げてしまっている。どうやらそんなに簡単にはいかないらしい。
紐野は三人の動きを見て、なんとなく状況を察したらしく、肩を落とした。
「どうも、あんまり芳しくないらしいな」と、独り言を漏らす。
彼はそれからスマートフォンを取り出すと、魔法少女ファン・コミュニティにアクセスをし、今まで得られた情報を書き込んでいった。
スライム自体の攻撃力は低い。溺死くらいしか怖くはない。ただし、中に人魚が泳いでいて、こいつに捕まるとスライムの中に引きずり込まれるから要注意。部分的に切り取って閉じ込める攻撃は有効、ただし時間がかかる。電撃は効かない。凍結攻撃は効果有。
その情報で、取り敢えずコミュニティメンバーに作戦立案を要求してみた。ただし、流石に情報が不足しているのであまり期待はしていなかった。プールに追い込んで凍結させるなどといった案が出ていたが、スライムを誘い込む手段がない。何かないかと彼はスライムを眺めてみた。
スライムは何が目的か分からないが、離合集散を繰り返しながら街を彷徨っている。途中で遭遇した小動物などを溺死させて養分に変えているのかもしれない。
“もっと情報が必要だ”
そう彼が思っていると不意に声が聞こえた。
「あの小さい子、スライムに近付いていますけど、大丈夫ですかね?」
隣のビルにいる女子高生だ。指で示している。見てみると、彼女が心配している通りに背の低い女の子がスライムに向かっているのが見えた。危ないかもしれないと思って彼は双眼鏡で観て、安心をする。
「あー、あれは多分大丈夫だ」
何故なら、その女の子の正体はポイズネスだったからだ。
彼女は飛ぶのは苦手だが、それでもスライムくらいからなら逃げられるだろう。人魚に襲われたら、毒殺してしまうに違いない。
ポイズネスは自信満々な様子で、悠然と歩いていた。スライムに近付くと、「フフン」と笑う。
「ここは、わたしに任せてくださいよ」
彼女を見かけたバリーが近くに一緒に来ていて、「どうするの?」と尋ねる。彼女は「もちろん、毒殺ですよ」と答えると魔法を使った。
「毒毒スペシャル! 毒のカクテル!」
どうやら猛毒をスライムに浴びせかけたらしかった。色が紫に変色していく。
「アッハッハッハ! スライムはブヨブヨですからねぇ! 毒から身を護る術がないのですよ! さぁ、さっさと死んじゃってください! 因みに、何の毒が効くか分からないので、数種類の毒を混ぜてみました!」
が、しばらく待ってもスライムには何の変化もない。元気に動いている。
「あの…… もしかして、これって、猛毒入りのスライムになっただけじゃないの?」
と、バリーが言う。
「そうみたいですねぇ。某ゲームのバブリーなスライムみたいな……」
と、彼女は返した。
スライムが言葉を理解しているかどうかは分からないが、その次の瞬間、スライムはせり上がり、彼女達に向かって襲いかかって来た。
「言ってる場合じゃないわよ! こんなの野放しにできない!」
そう叫ぶとバリーは宙に浮き、バリアで囲んで、紫に変色した部分のスライムを切り取った。そして大声でライに呼びかける。
「ライ! 電撃を浴びせて!」
少しの間の後、「電界獣プラス」と声が聞こえる。少し離れた宙の上、ライの姿はあった。バリアの先に電界獣が降り立つと、次に「電界獣マイナス!」とライは言った。電流が流れる。ライは魔力を溜めていたのか、先ほどよりも強い電流が流れた。すると、まるで分解されるようにスライムは結合力をなくし伸び広がっていった。活動が観られない。恐らくは死んでいる。
「おー 倒せたみたいですよ。わたし達の複合攻撃が効いたみたいです! これを繰り返せば退治できるのじゃないですかね?」
そう言うポイズネスに、バリーは「危なくって使えないわよ、こんな方法!」と軽く小突いてツッコミを入れた。
「電撃が効いた?」
双眼鏡でポイズネス達の様子を見ていた紐野はそう呟く。何か疑問を抱いたようだった。
“さっきよりも高威力だったからか? それにしては効果が違い過ぎる。それだけであんなに効くものか?”
彼はそう頭を悩ませ、そして、ある結論に辿り着いた。
「もしかしたら、いけるのじゃないか?」
それから急いで魔法少女ファン・コミュニティに実験依頼の書き込みをする。スライムはスピーダーが届けるから、と。その後で相変わらず、スピーダーがスライムをバケツに閉じ込めているのを確認すると、拡声器を使って彼女を呼んだ。
「おーい! スピーダー! ちょっと来てくれ!」
呼ばれると、彼女は瞬く間に彼の傍にまで飛んできた。流石に速い。
「やっほー! 爆弾の人じゃん。こんな所で高見の見物?」
「うるさい。作戦を考えていたんだよ。ちょっと頼まれてくれないか?」
「良いけど、何?」
「捕まえたスライムをバケツ一杯分くらいで良いから届けてくれないか? 実験を魔法少女ファンの一人に依頼したんだよ」
「良いよ? どこに届ければ良いの?」
スマートフォンを見ながら彼は返事をする。
「今、依頼を引き請けてくれた奴が現れた。ここが見えているらしいから、多分、あいつだな」
彼はやや遠くの民家の前で手を振っている男を指で示した。魔法少女ファンにとっては魔法少女と会話できるだけで嬉しいのだろう。だから喜んで依頼を請けてくれたのだ。
「オッケ。じゃ、行ってくるね」
そう言うと、スピーダーは猛スピードで空を飛んでいった。それを見送ると、彼は今度は電話をかけた。相手は村上アキ。
「村上か? 悪い。ちょっと頼まれてくれないか? 塩が欲しいんだ。しかも、できる限り大量に。金は後で払う」
もし実験が失敗したら無駄になってしまうが、結果を待っている暇はなかった。犠牲者が出る前に片付けなくはならない。
キリを見ると、彼女はスライムや人魚に対する攻め手を見つけられず、結果、スライムに襲われている人達の救出に終始しているようだった。無理はしていないようだ。見るとナースコールも近くにやって来ていて、犠牲者が出た場合に備えて待機していた。
「キリのやつ、無茶するなよ」
と、彼は小さく呟いた。




