第一章②
「ふざけんじゃないわよっ!」
シャチコの右足の甲はじんじんと痛んでいた。この痛みは、愛する人を傷付けた痛み、という風に単純に解釈出来るものではない。感情に任せてムカついて、最低最悪な先輩の無礼を成敗するつもりで本気で蹴ったローキックのせいだ。単純なものじゃない。そうだ。単純なものじゃないんだ。単純じゃない、でも、ストレート。真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎて、そのせいで、シャチコの右足には真っ直ぐに痛みが帰ってくる。ブーメランのような優美な軌跡は描かれない。痛烈な鏡だ。等しく見せる。正しく見せる。直感的にも、論理的にも、一般的にも。隠し事は出来ない。どうにもならないのだ。この痛みとか、痛みとか……、私は、私に、何もかもを隠し通すことなんて出来ない。この清純さ、獰猛さ、本能的で、野性的で、そして理性的な、私の可愛らしい鯱を。
「ふざけんじゃないわよっ!」シャチコは躍動的に叫びながら階段を駆け上った。シャチコは重たい扉を押し開けて屋上に出る。シャチコはこの街のとてつもない夕方に体を包まれる。そしてその勢いのままフェンスに掴みかかる。ガシャン、ガシャンと金属的なそれを千切るほどに揺らし上げる。シャチコは怒りを声にして、吐き出し続ける。吐き続けなければきっと死ぬ。喉の奥の方のさらにもっと奥の方から、シャチコにはしっかりと要請されている。「ふざけんじゃないわよっ!」
シャチコにあるのは耐え難い怒りだ。
怒り。
怒り。
怒り。
ただ、どこまでも純粋で、渇ききった、怒り。
ムカつく。
先輩。
先輩。
先輩。
私は先輩とキネマを見る約束をしていたんだ。
シャチコは笑う。なんて陳腐なんだ。なんて陳腐な理由で私はこんなにも鯱になっているんだろうか? 浮かぶ疑問。だからこそもっとムカついて、ぎゃははははははははははっ、てシャチコは笑った。シャチコは頭をフェンスにぶつける。何度も、何度もだ。これが私の正常なんだ、シャチコの正常なんだって、どこまでも理性的なシャチコは分析する。そしてシャチコは空を見る。ああ、この街の夜に近い夕方の屋上は、なんて色をしているんだ。血のようなオレンジ色だ。私には分かる。その味が分かる。シャチコは飢えているから、血のようなものの、栄養を、欲しがったりしている。シャチコはブルーのモンスタを一気に飲み干して、空き缶を握り潰し、口元を乱暴に袖で拭って、それを校庭に向かって思いっきり投げ捨てた。「殺してやる! 食い殺してやる! 莫迦やろぉお!」
ブルーのモンスタの空き缶はフェンスの向こう側を綺麗な放物線を描いて堕ちていく。
鯱のジャンプのようだわ。
そして。
シャチコは何もかも、本当にあらゆる全て、森羅万象、「コレが世界の終わりだ、」終わった気になって、「孤独だった、」そして泣く、「なんでこんなに寂しい!?」泣きじゃくる。「コレが慟哭ってやつだわな、」シャチコは泣きながら理性的に、呟く。
力強い叫びとともに。
シャチコの叫びはハンパなく、力強くて、エネルギッシュで、パンキッシュで、空気を震わせる音量で、歌でも歌ったら素敵じゃないか、と言う風に雅やかではあるものの、けれど、そうじゃない、違うのだ。「うわぁおぁあああああぉ」
攻撃的に泣く。
シャチコは仁王立ち。このまま化石になりそうだった。頬を伝って喉元まで濡らす涙がシャチコをきっと、石にしてしまうだろう。誰かが屋上への扉を閉めて、律儀に施錠してしまえば今夜中にシャチコの化石は出来上がる。その頃きっと、先輩はシャチコ以外の気の合う誰かと一緒にいて、楽しそうに笑っているに違いない。先輩のことを誰よりも理解しているのは、誰よりも理解するために努力しているのはシャチコなのに、シャチコはそのまま、誰にも知られることなく風化してしまうのだ。
「……ふざけんじゃないわよっ、くそったれ」
シャチコは化石になることを止めた。化石になんてなって溜まるか。まだ私は生きている。私は獰猛なシャチコ。死んでない。何もかも、終わってない。先輩のことを誰よりも理解しているのはシャチコであり、シャチコは先輩とキネマを見なくちゃいけないのだ。シャチコは袖で涙を拭う。涙はもう風に乾いている。悲しいけれど、とてつもなく悲しいけれど、シャチコはシャチコなりにつよがっていなくちゃならない。苛烈な現実は、先輩が約束を守ろうが守らまいが、いずれにせよ、泳がないことを許してはくれないのだから。
その時だった。
シャチコの方目掛け、カラスが飛んできた。
「わっ」シャチコは咄嗟に頭を両手で隠す。
カラスはシャチコの頭上で大きく羽ばたき、すぐに離れ、再び風に乗り、シャチコの背中の方へ飛び去った。シャチコはその姿を目で追う。紫色のカラスだ。光の反射でそう見えたのかもしれない。オレンジ色の夕方の空で、あのカラスは紫色に、美しく煌めいていた。カラスのことを美しいだなんて思ったのは初めてだった。
その時南の方から風が強く吹き、シャチコの髪を大きく揺らした。
シャチコは目を閉じて、風をやり過ごしてから、泣いて赤らんで熱っぽい、二つの目を開けた。
そしてシャチコは、この屋上に自分以外の誰かがいることに初めて気付いた。視界に人影が見え、シャチコは少し驚く。さっきのカラスが人になってそこに立っているだなんて能天気なことも思ったりした。カラスっぽい女の形。少し吊り上った大きな瞳となぜかセーラ服の上に羽織ったオレンジのラインに縁どられた黒い野球のユニフォームが印象的だった。彼女は屋上の扉を背に、その大きな瞳でシャチコのことを睨むように見つめていた。胸元のセーラ服のリボンの色と上履きの色で彼女が二年生だということは分かった。彼女はずっとそこにいたのだろうか。ずっとそこにいて、シャチコのことを律儀に観察し続けていたのだろうか。
そう思うと、シャチコの顔は赤くなる。一瞬にして真っ赤に染まった。知らない人に、全てを、感情の濁流の一通りを、それはつまりシャチコのありのままを見られてしまっていたのだから赤くなって当然だ。体中が熱くなった。発汗している。じめっとした汗がシャチコの体を包み上げようとしている。とにかくシャチコはこの場を、なんとかして、やり過ごさなくてはいけない。何もなかった風に、シャチコはこの屋上から脱出しなくてはならない。けれど、シャチコとその人はまさに今見つめ合ってしまっているし、何もなかったじゃ済まされないような空気はすっかり出来上がっていた。シャチコは彼女と何かしら言葉を交わす必要があるだろう。泣き腫らした目元の理由を説明しなくちゃならないだろう。けれど、彼女になんて説明すればいいのだろう。シャチコは、自らの慟哭について、きちんと説明出来る自信なんてなかった。単純じゃないから。「……あの、……えと」
そんな風にシャチコが悩んでいると、彼女は「あ、ごめん」とシャチコから視線を離した。そして後頭部に手をやり、愛くるしい笑顔を作って、少し何かを迷うように目をぐるりと動かしてから、一歩こちらに近づき、口を尖らせて彼女は言った。「突然ごめんね、急で申し訳ない、あの、君にお願いがあるんだけど」
「えと、お願い……、」シャチコは首を傾ける。「ですか?」
「うん、私は君の歌を作りたい」
「……は?」シャチコはさらに首を傾けた。「私の歌?」
「うん、君のテーマソングってやつ?」
「……ふ、ふざけんじゃないわよ、」シャチコはすでに切れていた。「ふざけんじゃないわよ、クソ女、あんたに私のテーマソングなんて作れるわけない、何も知らないくせにふざけたこと言ってんじゃないわよ、莫迦野郎」




