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第一章①

 約束までにはまだまだ十分に時間があった。僕は自分が所属するキネマ倶楽部の部室に行き、僅かに動揺していた心を落ち着かせるために、バージニア・エスを吸っていた。クッション性がほとんど失われたパイプ椅子に腰掛け、足を組み、バージニア・エスの甘い煙を吸い込み、肺全体に行き渡らせ、そしてゆっくりと煙を吐き出すと、僅かだが、心の揺れが落ち着いてくるような気がした。濃いオレンジ色から鋭い闇へと変貌する黄昏を僕は意味もなく見つめていた。遠くに吹奏楽部が演奏する壮大でいてかつアップテンポなメロディが響いていた。そのメロディに合わせて、僕の心はリズムを刻んでいた。僕の心は緊張と落ち着きを繰り返していた。メトロノームのように精確にもがさつに。

 僕の心はその大事な約束のために緊張していたのだ。

 信じられないことに、冷静になるための時間が必要だった。

 僕はバージニア・エスをもう一本吸う。

「先輩、いるんでしょう?」廊下の方から声が聞こえて、部室のドアノブがガチャガチャと音を立てた。もちろんしっかりとドアは施錠されている。ここは僕の大事な場所だ。学校の中で唯一、きちんと冷静になれる場所だった。犯されてはならない僕の聖域。僕の認可なしでは誰もここに立ち入ることは許されない。

 ノックが二回あり、再びドアノブがガチャガチャと音を立てた。そして軽くドアを蹴ったような鈍い音が響く。「ねぇ、先輩ってば!」

 そして廊下にいる女の子はドンドンと強い力でドアを叩き始めた。彼女の名前はシャチコ。一年E組のシャチコ。キネマ倶楽部の部員であり、たった一人の僕の後輩。キネマ倶楽部は今のところ、彼女と僕、二人だけの倶楽部だ。

「ちょっと待ちなよ、」僕はそうドアに向かって言って、そして悠長に一本を吸い、灰皿にそれを押し付け、窓を開けて煙草の匂いを外に逃がした。その間にもシャチコは何度もドアを強く叩いていた。

「ちょっと待ちなって」僕は煙草の匂いが完全に消えたことを確認してから窓を閉めた。

「ムカつく!」シャチコは怒鳴る。チャチコは短気で獰猛な女の子だった。「がるるるるるるるぅ!」

「はいはい、」僕はどこまでも悠長に灰皿とバージニア・エスのパッケージとライタを机の引き出しにしまってからドアを開けた。「そんなに怒らないで、そんなに唸らないで」

 ドアを開けるとシャチコは僕をきつく睨みつけ、僕の腕を強く叩いた。そしてシャチコは唸りながら部室に入り、壁際のパイプ椅子にどかっと座った。「ムカつく!」

「何が?」僕はニッコリと微笑んで、シャチコの前まで椅子を引いてきて座った。

「むう、」シャチコは相変わらず僕のことを睨んでいる。「何がって、もう約束の時間はとっくに過ぎちゃってる!」

「え? 約束の時間って夜の七時でしょ?」っていうか、どうしてシャチコが僕の約束について知っているのだろう?

「はあ、夜の七時? 何寝ぼけたこと言ってんだ! 五時に正門で待ち合わせって決めたでしょうに!」

「あっ、」と僕はシャチコに盛大に怒鳴られてそのことを思い出した。「そうだった、今日はシャチコとキネマを見に行く約束をしていたんだ」

「そうだよ、その通りだよ、そしてその言いぐさからすると私との約束をすっかり忘れちゃっていたってこと!?」

「うーんと、」僕は人差し指を顔の前で立てて言う。「どうやらそのようだね」

「信じられない、ばかばかばか!」

 シャチコは立ち上がって声を張り上げ、きつく巻いた弦のように体を前傾にピンとさせて、今にも僕に殴りかかろうという態勢になった。シャチコの表情には怒りと憎しみと悲しみと、それから勇気と、他にも様々な感情が一瞬の間に何度も出入りしていた。そんなビームの照射のように瞬きはためくシャチコの獰猛な表情を僕は記念にビデオカメラで記録したいと思う。強く思う。

「ごめんて」僕は立ち上がる。

 僕の方がシャチコよりもほんの少しだけ背が高い。

 シャチコは緊張状態を維持しながら僕の顔を睨み続けるために視線を持ち上げる。獲物に狙いを定める肉食獣のように、僕の動きからシャチコは目を離さない。彼女の視界の中で、僕は机の上に置いてあったビデオカメラを手にした。片手で持てるくらいに小さくて軽くて丸みを帯びた、青いビデオカメラ。

 僕はシャチコにレンズを向けた。僕はシャチコのまたとない表情を逃したくなかったのだ。捕まえて記録する。そうすべき、シャチコが目の前で展開していた。貴重なんだ。僕はシャチコの映像をこの青いビデオカメラの中にコレクションしていた。

 レンズの前でシャチコは驚いたように目を丸くする。シャチコは稀に、こんな風なチャーミングな顔も見せる。

「どういうつもり?」

 どういうつもり?

 と、シャチコは怒りを剥き出しにした顔でレンズを睨む。

 僕は致死的にも戦慄する。

 彼女の強い悲しみの色が僕の言葉を食らう。

 言葉を失わせる。

 シャチコはそんな顔をする。

 だから僕は、撮らなくちゃいけない。

 力がある。

 勇気がある。

 彼女にしかないものがある。

 精神的にも肉体的にも、そのことを知っているのは僕しかいない。

 運命だとは思わない。

 彼女との出会いと、彼女のことをどこまでも、どこまでも深く知ってしまったということについては。

 それは発見だった。

 彼女の色の美しさは普遍的であり、誰もが魅了され得る種類のものだ。そしてもちろん僕だけのものだなんてこともない。それはあまりにも危険な発想であり、あまりにもおこがましい考えだ。

 彼女は深く潜っていた。深海と呼ばれる空からの光が全く届かない世界で、身動きもせず、音も立てずに潜り続けていたのだ。僕は彼女を発見したというに過ぎない。まるで潜水艇のライトが照らし出した先に居合わせてしまった不運な深海魚のように、青いカメラのレンズの中にシャチコは奇跡的にも映り込んでしまったというだけのことなのだ。そのことがなければシャチコの普遍的な美しさは誰にも発見されることなく、ひっそりと静かな終末を迎えるものだったのかもしれない。いや、決してそんな運命を辿ることはなかっただろう。僕が発見しなくても、僕以外の誰かが発見したはずだ。シャチコの魅力的な色は半永久的に、どこまでも普遍的なのだから。

 とにかく、発見したのは僕だ。だから僕にはきっと責任のようなものがあって、容赦のない時間の風によっていつかは失われ、この世界から忘れうる魅力的な彼女の色を、変化の目まぐるしい彼女の様々な色の加減を、青いビデオカメラに記録し続けなければならないのだ。例え彼女に強く蹴られるようなことがあってもだ。

 シャチコはきつい顔をして一度目一杯体を捻って僕の太股を強く蹴った。お手本のようなローキックは精度が高く確実に僕のウィークポイントを打ち抜く。瞬間的に左の太股に激痛が走り、その場に膝から崩れ落ちるようにして僕は仰向けに倒れた。

「最低!」

 それに加えて汚い言葉を二つ三つ言い放ち、シャチコはキネマ倶楽部の部室から強い風に吹かれたような勢いで走り去る。僕の青いビデオカメラはその一部始終を鮮明な画質で律儀に撮り続けていた。最後に僕は自分の顔をレンズに映した。僕の目は涙で少し輝いていた。彼女のローキックは痛い。そのことを僕は律儀に記録した。


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