第九十五話 始末記 ―信繁と信之―
「真田弾正大弼信之じゃ。徳川の使者として参った」
「ご案内致しまする」
信之は、焼け焦げた大坂城へ入った。骨組は無事だが誰も片付ける気力が起こらないのか、昌幸が量産した死体が転がっている。不幸中の幸いというか、ほとんどのモノが焼け焦げているので死臭が幾分か和らいでいる。元は天下人の城だったとは思えない環境であった。
この悪環境に籠って、信繁ら豊臣の残党は籠城している。家康の首を持ったまま。信之の役目は、その首を取り戻す事。そして……。
******
数日前の事である。
「其方が、毛利豊前守殿か」
信之は、牢獄に入れられた勝永に会いにやってきた。凄まじい熱気に襲われ、陽の光も僅かにしか入らない。悪質な環境であった。
「貴殿は?」
勝永は衰弱しているのか、眼も良く見えず、舌も上手く回っていない様子だった。
「真田弾正信之じゃ」
「信繁殿の兄君でございますか」
「弟が世話になったと聞く。礼を言っておこうと思うてな」
「儂は何もしておりませぬな」
しかし信繁の騎馬を使っての離れ業は、半分はこの勝永に触発された物に違いない。十分に世話になっていた。
「弟は、如何に過ごしていただろうか?」
「常に静かに、数珠の様な物を握りしめて、禅を組んでおりました」
「数珠?」
「少し見ただけでございますが……十二個の、玉の様な物を握りしめて」
「そうか」
「あれほど穏やかな人物を、私は見た事がございませぬな。あの男のお蔭で、我らは一矢報いたのでございましょう?」
「……貴殿は、どうするつもりだ」
「死にまする。戦乱の世が終わると言うのなら、反乱分子を生かす理由はありますまい」
「そう、だな」
「一人にして頂けますか。恥ずかしながら、良い句が浮かばぬのです……」
「そうか、すまなかった」
『反乱分子を生かす理由はありますまい』
勝永の言葉は、信之に重くのしかかった。そして去ろうとした時、その更に奥の牢に入っている人物に気づいた。
「貴殿は……豊臣秀頼君でございまするか!?」
「気安く話し掛けるでない!」
勝永の怒声が飛ぶ。それを、秀頼の優しげな声が制した。
「勝永、すまぬな。儂はこの者と話がしたい」
「っ……。無礼を許されよ、弾正殿」
信之は秀頼の眼前に着座した。
「礼を申す」
「礼……でございまするか?」
「真田左衛門佐という豪傑と、廻りあわせてくれた礼じゃ」
「あ奴が、勝手に貴方様についたのでございまする」
信之は秀頼に対し、憎いという感情すらあった。自分で決めたとはいえ、信繁を誘ったのは彼なのだ。だが、こうして牢に入っている相手である。罵詈雑言を浴びせられる程、信之の品性は低くない。それに、この時代ではそれが筋違いだという事も、やはりこの男には分かっていた。
「会いに行くのであろう? 左衛門佐に」
「……そう、なるのでしょうな」
「感謝している、と。良く成した、と伝えてくれ」
「……はっ」
『良く成した』その言葉に秀頼の満足が伝わった。信繁は家康を討つ事で、秀頼の心の一端を救ったのである。
そして信之は無事……とはいかないまでも生き残った秀忠の元へ馳せ参じた。そこにいた政宗の胸倉を掴むと、主君の前だと言うのに怒鳴り声をあげる。
「お主がいるから! 大御所様を北上させたのだぞ!」
政宗は静かに、それでも力強く信之の手をどかした。
「弾正、抑えよ。政宗は、秀頼を捕縛した功労者ぞ」
「秀頼君を?」
「そうじゃ。全部隊が満身創痍で動けぬ中、政宗だけが豊臣の残存勢力と戦い、秀頼と毛利勝永を捕えた」
「……」
信之には、政宗の筋書が仄かに読めた。恐らく最善は以前放した通り、家康と秀忠の両方が死ぬことであったのだろう。しかし家康は信繁が討ったが、秀忠は家康と大名衆が死にもの狂いで守り抜いた。政宗自身が大坂方に加担していれば秀忠を討てただろうが、それでは逆賊になってしまう……。
そこで政宗は秀頼の身柄を拘束する事を選んだのだ。
――家康がいなければ、秀忠はいつでも御せると思っているのか……。
政宗が一番手柄である事は間違いがない。つまり、秀忠は政宗を罰する事は出来ないどころか、褒美を与えねばならない立場となってしまった。
「政宗……!」
「確かに大御所様の御落命、儂に責任の一端がある。だが、しくじったのは其方も同じであろう。信之よ」
「……」
言い返す事が出来ない。責任の一端どころか、このままでは信繁と手を組んで、家康を葬ったとさえ見る事が出来る。真田家の存続は、正に万事休すと言ったところであった。
「弾正。今この秀忠は大いに迷うておる。いや、お主は信頼しておるが……真田家全体としてみれば、この状況。信を置けという方が無理な話よ。どの様な処遇にすべきか、迷っておる所だ」
「御命じ下さい、わが君」
「何?」
信之の取る行動は決まっている。家を、祖父や父、大叔父が守ってきた真田家を、自分が生きている内に終わらせるわけにはいかない。
「大御所様の御首の奪回。そして……」
信之は唾を飲み込んだ。
「怨敵、真田左衛門左信繁の首を、この手で獲って参りまする」
******
大坂には、僅かながら自前の護衛を連れて行くつもりだったが、
「才蔵、ついて参れ」
一番、頼りになる護衛の返答はもう無い。忍がここまで長時間、連絡を寄越さない事がどういう事か、信之も承知していた。
結局、秀忠の提案で将軍親衛隊を連れていく事となった。早い話が検分役である。信之の手の者だけでは、信繁の顛末を誤魔化す事が出来るからだ。
「新陰流免許、柳生宗矩と申しまする」
「……」
選ばれたのは戦国有数の剣豪であった。確かにこの男ならば、自分が手を緩めても信繁を始末出来るだろうと、信之の戦場勘が告げていた。
「この者をつける。『気を付けて』な」
「はっ……」
一言に凄みがあった。秀忠も、敬愛する偉大な父を失った悲しみを、真田への怨念を必死に押し殺しているのだ。やはり彼も、将軍の器なのである。
それは同時に、ここからの行動次第では信之の首も危ない、という事でもあった。
途中で、宗矩は信之に尋ねた。
「弾正様」
「何だ」
「もし弟君を斬るのがお辛いならば……」
「斬る」
「斬れますかな?」
「無礼者が! 俺がそんなつまらぬ情に流されると思うてか」
「……失礼をば」
――失態は許されぬな。
一歩大坂城に近づく毎に、信之の緊張は増していく。
「真田弾正大弼信之じゃ。徳川の使者として参った」
「ご案内致しまする」
大阪城内を歩く、信之と宗矩達の眼に、多くの死体と、疲弊しきった豊臣の残党達が目に入る。誰も彼も、手傷を負っていた。無傷の者は必死に手当をしている。もう待女達も避難させてしまったため、身の回りの世話も自分達でするしかないのだ。
死んだ者は、まだ幸せなのかもしれなかった。もう大坂には、戦える兵はほとんどいない。にも関わらず、徳川は僅かながら、戦える兵力を残している……。力を出し尽くしても、戦は終わっていない。絶望を誘う事実だけが残っている。
――信繁は、どうするつもりなのか……。
「こちらで、左衛門左信繁様がお待ちです」
「宗矩。其方はここで待て」
「しかし」
「待てという言うておる」
「……はっ」
緊張する手で、障子の取っ手を掴む。つい数日前に戦場であったばかりの、弟との再会。
――斬る、斬る、斬る!
決意が薄くならない様、何度も心の中で唱えながら、戸を開けた。
「兄上、お待ちしておりました」
数日ぶりに見た信繁の姿は、さほど変わっていなかった。信之はホッとしたような、怒りが増すような複雑な気持ちで、対面に座った。
「上座へお座り下さい」
「どこでも良いだろう。今は対等だ」
「お願い申し上げる」
「……」
信繁の考えが解らぬまま、信繁は上座へ移動する。
「秀頼様は」
「察しはついているだろうが、捕えられた。残念だが、極刑は免れられぬ」
「左様で、ございまするか……」
「『感謝している。良く成した』そう言伝を頼まれた。伝えたぞ」
「秀頼様……」
信繁は天を仰ぐ。攻勢に出て家康を討ちとった代わりに、太閤の忘れ形見を守れなかった事を悔いた。そして皺を寄せ、何か深く考えた様な表情を見せた後、交渉人として信之に向き直った。
「降伏の条件を聞きとう存じまする」
「単刀直入に申す。大御所様の首の返還、そして……『ある者』の首を条件に、秀忠公は城兵の命を助けると仰られた」
信之は言葉をぼかした。信繁も追及はしない。
「誠でございますか」
「ここ一番で嘘はつかぬ。それが政治の肝だ」
「ふっ、兄上らしうございますな」
そう言うと信繁は、傍らに置いてあった木箱を信之に差し出した。
「それは……大御所様か!?」
「左様にございまする」
信繁は、首の入った箱を震えながらも、丁寧に差し出した。自分の成した事に興奮しているのか、将又今更恐怖しているのか、その時点の信之にはそのいずれかだろうとしか思えなかった。
信之はゆっくりと、紐を解く。信繁は震えたままである。
「大御所様……何と、何と御労しい……」
信之はその首を見て、主の変わり果てた姿に涙した。そして現実を知り、ゆっくりと蓋を閉じると、キッとした目で信繁を睨む。
だが一方の信繁は、震えながらも穏やかな表情であった。
「何をしでかしたのか、分からぬ訳ではあるまいな?」
「無論でございまする」
「お前のした事が、真田を潰すかもしれぬのだ。否、十中八九改易であろう」
「存じておりまする」
「ならば何故ッ!!」
「兄上」
信繁は優しげな声で、震えながら兄を見た。
「昔語りなどしとう存じまする」
「戯言を! 自分が如何なる立場だと」
「お頼み申し上げる」
信繁は震えながら頭を下げた。埒が明かないと判断した信之は、期待に応える事にした。
「子供の頃は、よく二人で竹刀を合わせましたなぁ」
「勝ち負けは半々であった。お前は俺より小さいのに、俺と互角以上に張り合いよる」
「軍略も語り合い申した。されど私は、兄上や父上の考えなど露として分かり申さず」
「お前は槍働きだけで生きて行くのだと、てっきりそう思っておった」
結局、今回の戦で信繁は指揮官として、これ以上なく優秀な働きをした。信之の想像の遥か上を行く軍略の才を露わにしたのだ。
「お前には、驚かされた。出丸を完璧に使いこなすわ、騎馬をあの様に使うわ」
「有難きお言葉」
「此度の戦は、さぞ楽しかった事であろう」
「いえ、最も愉しめた戦は」
信繁はふぅっ、と息をつく。さながら長距離を走って来た伝令の様に。信之はその様に何か、違和感を覚えた。
「北条との戦……小田原合戦。特に碓氷峠の戦にございます」
「碓氷峠か」
「はい。兄上と共に戦うた、最初で最後の戦……」
信之も思い出していた。確かに、あの戦は緊張感といい、自らの軍法の成功といい、充実感のある戦いであった。事実、あの強敵・北条を相手に連戦連勝。関ヶ原もそうだが、自分はあの時、満たされていたかもしれない。
「二人で、北条を追撃する時など、幼き頃を思い出して、楽しうなって夢中で馬を駆け申した」
「あれが初陣であったな」
「はい。晴れやかな初陣でございました」
「その後、周防にしてやられたのだったな」
「耳の痛い話でございます。あの周防殿をもっと若き時に破ったのが、兄上でございましたな」
「運が良かっただけだ。周防と俺なら、十回中八回は奴が勝つだろう」
「御謙遜を」
「本当の事だ」
信之はふと、と我に返る。いつの間にか信繁との昔語りを楽しんでいる自分がいるではないか。家康の首を見た時、今すぐ叩き切ってやろうかとさえ思わせた燃え盛る様な殺意が、いつの間にか和らいでしまっている。
「あの時や、幼き頃は良かった。永遠に、あの時間が続けば良かったと、今でも思いまする」
「……そうだな」
恐るべきは兄弟の情である。あれほどの負の念が、こんな事で帳消しになっては堪らない。もしくは、これが信繁の生き残るための、惨めに生きながらえる策なのかもしれない。信之が不覚にも、弟をそう疑った矢先……。
信繁の口から血飛沫が舞った。
「がっ、はぁぁ!! あああああ!!」
「べ、弁丸っ!! 何だ、如何したのだ!?」
「う、あぁぁ……く、苦しい……斯様に苦しき、悲痛なものか……」
「お前、まさか陰腹を!?」
「精進が……足りなかった様でございます……たった、これしきのっ、痛みっ、でっ」
「喋るな! ああ、血が斯様に……斯様に多く!?」
信之は必死に血を止めようと、自らの羽織を脱いで傷口に巻き付けた。しかし、瞬く間にその羽織からも血が噴き出す様子を見て、信之の精神は錯乱状態に移行する。
「ああああああ!! 斯様な……斯様な事……」
「某はずっと、自分の獲った大手柄を兄上に……ただ一人と定めた主君に渡す日を夢見て参りました……」
「喋るな!」
信之は手あたり次第に、止血できる者を傷口に当てて行くが、そのどれからも塞き止めきらなかった血が溢れだす。信之の焦りは一層酷くなった。
「ぐ、ふっ。兄上に仕える事を諦めて大坂に入った時から、その夢だけを追いかけた。今日、ようやく夢が叶ったのでございまする……」
「阿呆が! 喋るなと言っている!」
「しかしその栄光の首級が、兄上の主のモノであるという矛盾……哀れにも、某の英武の才は、兄上に敵対する時に限って発揮され……」
開花が余りにも遅すぎた信繁の軍才。故に信之にまで被害を与えてしまった。だが、今の信之にはそんな事はどうでも良かった。弟が死にそうになっている、その事実しか彼には見えない。
「もう良い、全て許す! 俺が腹を切ってでも、必ずお前を助ける! 逝くな、逝ってはならぬ!」
「もうし、わけ……兄上、一つ、お願いを聞いて、くださっ、れ」
「何じゃ!何じゃ!?」
「我が次女、於市の事……一人息子と共に……」
「わかった、約束致す!」
「かた、じけっ」
「ああ、諏訪大明神よ。勝頼様、弟をお助け下され! 後生でございます!」
その音から異常性を感じ取ったのか、宗矩が障子を開けて入って来る。
「だ、弾正様! これは一体、何事でござるか!?」
「宗矩、弟が……医者を呼べ! 医者……いや、違う……」
信之は、目の前の事態と、城に入る前の覚悟と完全に矛盾している自分に動揺した。信繁はそんな兄を見てニッコリと笑うと、震えながら宗矩の脚を掴む。
「柳生殿とやら。介錯を……お頼み致す」
宗矩は、言われるまでもなく抜刀していた。一刻も早く楽にしなければならないと、細胞が反応していた。だが、彼の行動は信之の腕に遮られた。
「弾正様! 何故!?」
「俺は……」
現実を悟ったのか、信之の焦りはもはや消えた。頬に熱さを感じながら、言葉を紡ぐ。
「これは……この痛みだけは……やはり他人には任せられぬ」
「あにッ、うえ、なりっ……ませッ、ぬ!」
腹まわりの筋肉が痙攣して、発音が邪魔される。それでも信繁は必死に兄を止めようとした。だが、信之の考えは変わらない。この役目は、譲るわけにはいかない。
「お前を斬らずに、俺の心を守るよりも」
止まらぬ涙を拭わずに。滑らかに鞘から刀を抜くと、最短距離で上段まで持っていく。
「お前が苦しみながら、他人に斬られる姿を見ている方が」
「ないませ……ないませぬっ」
「俺には耐えられぬ」
「あいうえ……」
信繁は、柔軟な思考能力を持っている割に、一度決めたら頑固であった兄を思い出し……笑う事にした。既に視界の半分が曇っている。だが、今にも意識を完全に奪いそうな激痛に耐えて、せめて笑って逝けるならば。事の後に訪れるであろう兄の後悔の念も、少しは和らぐと信じて。
「さらばだ弟よ」
「さ……ら、ばっ、で、ござる」
「俺の為の功名……然と受け取ったぞ」
――何と有難い餞……。
苦しみから解き放つ一閃が、地へと鮮やかに落とされた。
涙が信之の拳を伝って……刃に滴る弟の血を、細やかに洗い流していた。
******
秀忠の本陣に、戦後処理の報告に来ていた宗茂は、大坂城の方角から歩いて来る信之と宗矩を見つけると声をかけた。
「弾正殿」
その声は、信之の耳を通って、もう片方の耳からすり抜ける。頭には残らなかった。
「信之殿っ」
「何だ、侍従宗茂か……急いでおるのだ、どけ」
「……」
生涯の好敵手と認めた相手は、もはや別人の様にやつれていた。先刻、見送った際と明らかに違う。その姿を見て、宗茂は信之が、弟を斬った事を悟った。
「これで真田は、守られるのか……」
「どうかのう」
伊達政宗が傍らに現れていた。
「某に用でござるか、伊達殿」
「この後、儂の天下の障害となるとしたら、お主と真田信之……と思うておったが、もう奴にその気力はないかもしれぬ」
「戯言として受け取っておきまする。されど我らは、死を賭して徳川を守り抜く所存」
「お主はそうだろうが、なぁ……」
政宗は、友としての信之に、僅かな罪悪感を覚えた。そして信之は二人の友を背に、秀忠の元へ参じた。二つの首級を持って。
「大御所様の首、取り戻して参りました」
「宗矩。検めろ」
「はっ」
宗矩は蓋を開けようとしたが、秀忠がそれを制した。
「いや、やはり儂が自ら確かめる」
「秀忠様……」
「すまぬな。他の者に譲ってはならぬと思う」
秀忠は首を掲げた。間違いなく、数日前に顔を合わせた家康の首であった。枯渇した筈の、込み上げるモノを抑えながら秀忠は蓋を閉じる。
「して、そちらは」
その時、秀忠は関ヶ原の前……第二次上田合戦で、信之が三成の使者の首を持って来た夜を思い出した。あの迫力が、今の信之にそのまま宿っている。
――ああこれは、左衛門左の首だ……。
「弟の首でござる。検めまするか」
「宗矩がその瞬間を見たのであろう。ならば無用」
「晒しまするか、わが君」
「……」
秀忠は黙った。家康を討ったのは、信繁である。だが、その言葉に頷けば……目の前の男が敵に回るかもしれない。戦になれば、徳川は勝つ。だが……。
――この男は、『真田』だ。どんな結果になるか、分かったものではない……。
「……許す。故郷で手厚く葬ってやるがよい」
「ありがたき幸せにございます」
「約束通り、豊臣の残兵の命は助ける」
信之は秀忠が、約束通り敗残兵の命を助け、信繁の首を奪わなかった事に感謝した。同時に、忠誠も誓った。もしここで秀忠が信繁の首を晒していたら、信之と言えどどんな行動に出たか分からない。緊張の和らいだその眼に、秀忠は安堵した。
――どうやら儂は、正答を選んだらしいな。
「では、失礼いたしまする」
「ご苦労であった。後の沙汰は領国で待て」
「ははっ」
「直江兼続はどうじゃ」
「既に、自刃しておりました。検分も済んでおりまする」
本多正純が報告した。最も憎い相手を……上杉を罰せられない事に、秀忠は歯噛みした。
「逃がしたか」
「黄泉の世界に、上手く逃げおおせた様です」
「どこまでも、賢い男であったな」
兼続は拷問にかかって景勝との連携を吐露する前に、自らの口を塞いだのである。信繁と共に、家康の首を獲った。その事実が兼続の思惑通りに上杉の武名を高めてしまえば、また戦の種になるかもしれない。
「情報を秘匿する。城兵の命は助けるが、徳川の監視下におけ」
「ははっ」
「父上の死は数か月隠す。真田を罰しないという事実が、世間の目を紛らわせるであろう」
「承知致しました」
二代将軍の、秀忠の時代が始まろうとしていた。
******
「おお、大殿! 御無事で何よりでございます!」
「信之様のお戻りじゃあ!」
「弾正様~!」
かくして信之は信濃に凱旋した。心身共に疲れ果てた真田軍は、真っ直ぐそれぞれの居城へ……信之は上田城へ向かう。
「頼康、此度も世話になった」
「大殿、その……」
「心配するな。何も変わりはせぬさ」
「内に溜めないで頂きたい。その為に、家老がおるのです」
「分かっておる。これからもよろしく頼むぞ」
「はっ。では、居城へ戻りまする」
頼康も領地へ戻って行った。上田城へ到着すると、信之はまず家臣に飯と水を配る様に待女衆に指示を出す。自分が休む前にこの心配りをする事が、信之をここまで生きながらえさせたと言っていい。
「皆の者、今はゆっくりと体を休めろ。当分、戦は起こらぬからな」
「はっ!」
「俺は自室へ戻る。論功行賞は後日行う。では、解散じゃ」
信之には、何よりも早くやる事があった。信繁の埋葬である。
「今日ぐらい、奥方様に会ってゆっくりなされては」
「遺品の整理ぐらいは済ませたい。小姓達を呼んでまいれ」
「ははっ」
信之は疲れていた。だが疲れている時に体が動いてしまうのが真田の、信之の特性であった。
「形見分けもせねばならぬ。正確に書き記せ」
「はい」
とはいえ大坂城は昌幸の爆破策で消し炭と化していたため、信繁の遺品もほとんどが焼けていた。大坂に残っていた唯一の遺品と言えるのは、次女の於市と、まだ赤ん坊であるその息子ぐらいであった。よって、すぐに済む作業だと信之は踏んでいた。
「大殿、これは無事でした」
「何だ、それは」
「信繁様の身に着けていた、着物の袖から出て参りましたが……」
信之はそれを見た瞬間に、涙腺が震えた。
「これは……まだ、この様な物を……」
紐で繋がった永楽通宝であった。幸隆以降、真田家の人間が代々持っている、六連銭。家紋になっている六文である。だが、信繁の持っているそれは、特殊であった。十二枚。三途の川の、二人分の渡し賃……。
信之はその夜、忠朝の名誉の戦死を小松に報告し慰めた後で、信繁の残した十二文を掲げていた。小松も一緒に見つめている。
「阿呆、十二文もあるではないか、十二文も……」
「ダンナ、今日はもう休みましょう」
『残りの六文は兄上の分にござる』
『捨て置け、たわけ!縁起でもない!』
『生きるも死ぬも、御一緒いたします故』
笑って見せる弁丸の姿が浮かぶ。
『常に静かに、数珠の様な物を握りしめて、禅を組んでおりました……十二個の、玉の様な物を握りしめて』
勝永の言が蘇る。そして、今迄の信繁の言葉も。
『さすが兄上!』『兄上と共に!』『兄上と戦う事になるなど! 嫌でござります!』『どうせ最後なら、せめて兄上の……』
ずっと、兄の下で戦いたかった。
今なら分かる。信繁の心の内が、この四十年放さなかった十二文に込められている。弟の兄を慕う心は、路を違えても、敵味方になっても。少年の頃から、まるで死ぬ間際まで色褪せていなかったのだ。
信之は掌を見る。初陣から三十年以上、常に戦場を支配してきた自分の掌を。
――この手で斬った……俺が、実の弟を……。
小松は何も言わず、ただ胸に信之の顔を埋めて、抱きしめた。
二人で共に戦いたい。沈黙こそが妙手と教わり、言葉に出さなかった信繁の細やかな願い。その願いを代償にして、真田家は遂に、過酷な戦国時代を生き抜いたのである。




