第九十四話 決着
「まさか、弾正が謀ったと言うのか!?」
家康は驚愕した。『北にいる政宗』と合流すれば安全であるという信之の言に従い北上した。しかし、そこにいるのは政宗ではなく……。
「兼続様、あれに見えるは徳川本隊では!?」
「これは天啓か……信繁ではなく、俺に奴を討てという愛染明王の御意志か!」
南下して来る兼続と家康は鉢合わせた。まさか、信之が離反したとも思えない。現に信繁と壮絶な死闘を繰り広げているではないか。なら、誰の行動がおかしいのか……政宗であった。南下する兼続を放っておくなど、敗退行為もいいところだ。
「小僧め……そう簡単に、この儂を謀れると思うな!」
「大御所様、い、如何致しまするか!?」
「前進せよ……直江の餓鬼に思い知らせろ。戦国最強の徳川兵。その背負った物の重さをな」
「御意ぃ!」
配下の大名が、家康の手足と化す。甲州流の陣形を巧みに変えながら、兼続の軍勢の脆いところを一手一手、確実に突いて行く。数に勝っているからこそ、余裕を持って用兵が出来る。家康の老獪なその用兵は、疲労困憊の兼続の敵う所では無かった。
「ちっ、狸めが……口だけではないという事か!」
だが、兼続にも勢いがある。信之に痛烈な一撃を喰らったとは言え、兵の士気は一定を保っている。なにより上杉の名誉回復の為に戦っている彼自身、家康を討ちとる最後の機会に燃えていた。決して得意ではない槍働きにも熱がこもる。
「飛べ、直江の、上杉の兵どもよ! 戦国最後にして最大の名誉が目の前ぞ!」
「徳川の精鋭共よ、これが我らの最後の勇姿となろうぞ。子々孫々まで、語り継がれる戦いぞ。 力を込めよ、力を込めよ!」
二つの軍の戦いは、消耗戦の様相を呈していた。
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幼い頃、弁丸と源三郎は鉄砲を担いだ。重く、格好良く、何より心地良い鉄の匂いに惹かれる。だがいつも揮っている槍より軽く、心許ない印象は拭えない。この武具に、命を預ける。鉄砲隊にも勇気がいる。
『使い方を間違えれば、大事な物を失うぞ』
父の教えも慎重であった。当たりさえすればあまりに簡単に、あまりに実感なく人の命を奪う魔の兵器。信之の出陣する合戦では、いつもこの鉄砲が生命線となった。そして……。
「放て」
静かに合図を切って落とした。鉄砲が最も威力を発揮する、密集隊形の敵陣への発砲。最高の機で、最善の一手を冷静に打つ。それこそが戦歴三十年の戦人・真田信之の強みであった。いつもならば冷や汗を流しながらも、それでも即断即決。時間を惜しんで打つはずの自然な、最適解であった。
ただ一つ。標的が最愛の弟であるという点を除いては。
信之は衝軛の陣のど真ん中を、敢えて突破させた。その貫通を見越して、陣中に信繁を包み込み、左右の翼を折りたたむ。たったこれだけで信之は信繁を包囲した。信繁の騎兵は頼康らを圧倒し、信之の陣を崩したが、その突破力を信之に利用されたのである。
弟を止めるために必死になった信之の読みは、冴えていた。
ひゅっ。ひゅん。
弾丸が空気を裂く。余りに簡単に、淡々と命が失われていく。目の前を弾丸が素通りした事を実感した時には、あらゆる臓器を貫いて。信繁の体に、顔に鮮血が飛び散る。
その弾丸一つ一つが、信之の拳であった。幼き頃から、信繁は突拍子もない事を言い出しては幾度となく兄に頭をはたかれた。
『阿呆、弁丸。自重せよ』
規格外の弟を御するため、信之は何度でも拳を使った。自分が今まで出会った誰よりも、思い返してみても信繁は大人物であった。放っておけば、英雄になるだろう。だがそれは、真田にとっての英雄ではない。世間一般の、太く短く、世相に逆らって壮烈に散った美談としての、安い英雄として一生を終えるのだ。
それだけは、信之には許せなかった。武名など無くともいい。自分の側でなくともよい。穏やかに、細く長く生きてくれれば、それだけで真田の為になる。だから、何度でもその拳で止めて来た。戦争で敵となっても、釘づけにして、助命を嘆願して信繁の行動を封じた。そうやって四十年以上、信繁の守護者であり続けたのだ。
――止まれ、止まれ! その先に行ってはならぬ、英雄になってはならぬ!
信繁を家康の元へ行かせてしまえば、その守護者としての自分が無に帰する。必死だった。火縄銃という名の豪の拳で、何度も何度も、信繁を殴り続ける。断末魔と共に、信繁の配下が倒れて行く。
信繁は茫然として、顔にかかる熱い血糊を拭わぬまま、ただただ立ち尽くす。兄が本気で怒っているときは、本気で殴っているときは、自分が出過ぎた行動をした時。真田の為にならぬ行動をした時だ。兄弟喧嘩と言う物はその拳の重さで、本能的に本気の度合が分かる。今兄は、人生最大の必死さを露わにして、弟を止めようとしている。
百、二百。瞬く間に戦死者は増えて行く。負傷者に至っては指数関数状に増えているに違いなかった。信繁は、ここで信之に殺されるのが一番幸せであるかもしれないと、一瞬そう思いもした。
信之の方を見る。背丈のずば抜けた彼を探すのは、容易い事であった。その表情を見て、思いが変わる。
苦痛。殴っているのは己の方なのに、まるで自分が殴られているような。本当は、いつもその表情をするところを、戦場だから、指揮官だから、真田の当主だから必死に堪えて、複雑な表情に落とし込んでいる。だが実の弟殺しを前にして、遂にその表情は極限にまで崩れた。泣いていた。
信繁は決めた。兄の手では死なない。これ以上、兄の精神に負荷は与えない。絶対に、兄にだけは殺されるわけにはいかないと。
「父上、父上!」
「大助。良き叔父を持ったな」
返事は返ってこない。覚悟を決めた筈だった大助でさえ、死の約束されたこの状況では竦んでしまう。だが信繁は違った。自分がここでは死なないという確信があった。御仏がこれ以上、『信之に』非情にはなれない事を、信じることが出来た。
「生き残っておる者、然と聴け。我らは真田信之に背を向け、徳川家康を追う。歩兵を先行させよ。たった今から一切の防御を捨てる」
残っている物は、五千の兵のうち三千というところだった。三千の中でも、半分以上は負傷しているに違いない。信繁の軍は、信之の怒涛の攻めによって完全な敗北をしたのである。それでも、動ける。動ける限りは、信繁の命令は有効だ。
「もう、覚悟の決まっておらぬ者はここにはおるまい。誰が家康を討つか、存分に競え」
「信繁様……」
「命令は以上成り。方々……参るぞ」
「行くな!」
信之の声が聴こえた気がした。二人の距離からして、聴こえるわけはない。信之ならそう言うだろうという、信繁の観念から来る幻聴である。そして実際に、信之はそう叫んでいた。
「行くな、弁丸!」
「申し訳ございませぬ」
「阿呆が、俺の言う事が聞けぬのか!」
騎兵を持たない信之は、その速度については行けない。必死の射撃で弟を引き止め続ける。だが火縄銃の命中率は悪い。百発百中ではない。信繁の目の前に、壁は無かった。
「行きます、兄上」
「不肖の弟……この兄を、捨てると申すかぁ!!」
信繁は残存兵力を総動員し、前進を再開する。狙いは徳川家康。戦場に、兄の悲痛な叫びを残したまま……駆け出した。
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家康の目的は、秀忠を守り抜いた上で、大坂城を落とす。秀頼を亡き者にする事である。討たれないに越した事はないが、今更自分の命にさほどの頓着は無かった。それ故に、直江軍は徐々に制圧され始めていた。名将たる兼続も、家康の経験に裏打ちされた統率力の前では分が悪い。家康は陣形を徐々に攻撃的に変化させ、尖らせて直江軍を圧した。
兼続は悟った。いくら論理的に、状況的に追い詰めたとしても……家康と自分とでは役者が違う。追い詰めたこちらが防戦している時点で、どんな手を使っても討てない存在であると、御仏が告げている。それでも……。
「それでも、上杉には意地がある! 謙信公初陣から七十年、変わらず戦い続けてきた誇りがある!」
「兼続様!」
「弾正にも、景勝様にも……家康にも見せてやれ! 我らの底力を、一片残らずくれてやれ!」
策を弄し、信之の主・武田勝頼を誑かし、上杉景虎を破った御館の乱以来、権謀術数に生きてきた兼続でさえも、この最終局面では純粋であった。純粋に戦に、目の前の強敵に集中する喜びを五体に感じる。紛れもなく、典型的な上杉の武将であった。
「徳川の猛攻に退くな! 気合いで負ければ、死ぬ時ぞ」
「応、応!」
気迫が戦を分ける。謙信の残した気迫を継承した上杉が、負けるわけにはいかない。圧して、圧されて、直江軍の消耗する代わりに、徳川軍も僅かだが陣に損傷が見られた。
「直江山城め……やりおるわ。だが、儂には到底かなわぬ」
「大御所様、陣の再編を」
「分かっておる。後方から、前陣に一千の兵を回せ」
「御意!」
徳川軍の隊形移行は早い。ものの四半刻で、前陣は強化された。兼続の勝機は、最早一分も無いかと、そう思われた時。
「伝令、伝令ーッ」
「何事ぞ、あと数刻で掃討戦に移るこの時に」
「背後から……背後から真田軍、その数二千!」
「何……何だと!? 旗は黒か!?」
家康は一瞬、信之の離反を想像し背筋が凍った。
「旗は……赤。血に染まり切った、真紅の六文銭、真田左衛門左信繁にございます!」
「信之が……義子が、しくじったと申すか!」
全幅の信頼を置いていた信之ですら止められなかった信繁が、背後に迫っている。数は言う程ではない。不味いのは、その位置取りである。家康は前陣に兵を回したばかり。今、後方は極めて脆い!
直江・真田の挟み撃ちにより、形成は三度逆転した。戦国の覇者を狙う刃が、眼前に迫る。
*****
「信繁様、構わず行って下され!」
「お主等は!?」
「我ら歩兵一千、信之様を必ずや食い止めまする!」
信之の追撃は、なおも続いていた。このままでは戦闘中に追いつかれ、家康を救出されてしまう恐れがある。それを理解していた配下一千が、殿を申し出たのである。
「……すまぬ!」
「恩賞はあの世でしっかり頂きとう存ずる! お忘れなきよう」
後続の、傷だらけの兵一千を切り離し、騎兵を中心とした信繁軍は加速する。予定よりも四半刻早く、徳川軍の姿を捕捉した。
「ここからは、何も考えるな。目の前の全ての将を斬れ」
「ははっ!」
「儂を守るな、一人でも多く斬れ」
「ははっ!」
「よし。誰もに平等な最後である。せめて愉しめ」
信繁は騎兵用の太刀を箒鞘から抜剣し、眼を閉じる。敢えて手綱に力は入れず、方向は馬の進みたい方へ任せた。距離感だけを、感覚で制御する。その間に、今まで起こった様々な事に想いを馳せて。そして、眼を開く。そこは地獄であり、ようやく訪れた望郷でもあった。
「我こそは真田源三郎信之が弟、真田源次郎信繁! 徳川の兵共よ、我が首を狙って競え!」
体中が熱い。まるで体の中の組織が、この後を気にしないで良いという事を知っているかのように、完全燃焼を心掛けていた。愛馬が、密集している雑兵に突進すると、その衝撃で落馬しかけるのを脹脛で必死で堪える。起き上がり、自分の方へ迫って来る雑兵の動きが、やたらと遅く見えた。
「父上へ!」
目玉の当たりを太刀の先端で貫いた。絶命間近の敵の肉体が、バタバタと動きもがく。力を込めて太刀を抜くと、逆方向から雑兵五人が迫る。納刀し、長槍に持ち帰ると、最短距離を通ったダウンスイングで足を刈る。
「うあっ」
「義父上と……三成殿へ」
敵の悲鳴を合図代わりに、鐙から足を外して歩み寄る。二撃づつ、十発の突きで五人を絶命させる。首は獲らない。獲る必要が無い。
家康を探す間もなく、雑兵が信繁へ群がる。敵の一番弱い部分へ突撃したが、敵の損壊まではまだまだ斬らなければならないらしい。信繁ですら、雑兵に混じる必要があるらしかった。
「堪らぬなァ。これは」
信繁は再び馬に跨ると、器用にその場を回った。掛かって来た敵兵が馬の尻に斬りつけると、結果として後ろ蹴りの要領で、敵兵は鳩尾を抑えて呻き声を上げた。そして上段から信繁の十字槍に、喉と腋を抉られる。
「大坂の戦友共へ!」
信繁の熱に当てられて、真田軍は快進撃を続けた。兼続との挟み討ちの効果は絶大で、徳川軍は二方面において苦戦を強いられた。だが、ここで家康を討ちとったところで、秀忠は恐らく生き残ってしまう。天下の情勢は変わらない。
それでも、大坂の攻勢は止まらない。信繁の槍は回転を続ける。
「ぞぶっ」
「秀頼君へ……」
断末魔を何度聞いたことだろう。首を集めていないから、どれだけ斬ったかは分からない。腕のだるさから言えば、だいたい二十と言ったところだろうか。ふと、顔を上げると……。
馬上の信繁の網膜に、葵の紋が飛び込んだ。
「家康ゥ……真田兵、先程は好きに戦えと言ったが、聴こえる者だけでいい。俺の周りに急げ!」
信繁は周りにいる真田兵に声をかける。騎兵五十、歩兵二百、銃兵二十が集まると、信繁の号令で火縄銃に火を点ける。
「この目線上……両翼を狙え。後は逃げてよし」
「御意!」
家康を守っている、直線上の敵が邪魔であった。論理的に考えれば、最大の集中力で放たれた銃撃を受ければ、混戦中の敵兵は堪らず、一点に留まる事を恐れて左右に散開する。そこに持てる力の全てをぶつける。
「大助、いるのなら指示を」
鉄砲隊を請け負っていた大助に指揮を執らせようとした。しかし返事は聴こえない。信繁は湧き上がる感情を堪え切れず天を仰ぎかけたが、それでも何とか視線を前に保った。
「鉄砲隊。俺の合図で撃て」
「はっ」
「まだだ……まだ撃つな」
敵兵の注意がこちらに向いている時では効果が薄い。どこから撃たれたか判断できないくらい混乱している時ならば、最大限に恐怖を引き出せる。効率よく散開してくれる。信繁の勘が、その瞬間を血眼になって探す。
そして、両脇に上杉軍の歩兵の姿を捉え、交戦が始まる……その隙を狙うべきだと、信繁は判断した。
「放て!」
「行けェ!」
命中率は低い。それでも火縄銃の音と火薬の匂い、そして感じる『自分が狙われている』感覚が、徳川兵を射線上から離れさせた。
「信繁様!」
「時は来たれり。騎馬隊、足軽、突撃せよ!」
がら空きの直線を、風を切り裂く様に騎兵が駆ける。家康と一千の守備兵が守る最終目標へ向かって。自分の人生と、この戦いにおける最後の一撃を届けるために。
「徳川家康、我が手柄首よ。御覚悟召されよ!」
「流石は、真田昌幸の倅。否、真田信之の弟よ」
守備兵を突き抜けて、信繁軍の馬が跳ねる。家康は、生存を諦めた。彼はもう、勝利している。老い先の短さを考慮しても、この後の結果にはやはり頓着するべきではないと、朗らかに当たりを見渡した。彼にとっても懐かしい、赤備の軍団。なんと美しい敵である事か。
「この一撃の得る功名は、太閤殿下と……」
鹿を想像させる兜。信繁の姿を家康は認めた。
「我が主へ捧ぐ!」
******
殿を片付けて信之が到着した時には、全てが終わっていた。いるはずの政宗が、そこにはいなかった。豊臣軍は、ほぼ廃城となった大坂城を頼みにして撤退。徳川兵の無残な死骸が転がるのみであった。疲弊のある徳川軍が追撃する事は、当然出来ず……。
信之は膝をつく。信之は信繁との直接対決に勝った。しかし……本人を討てなかったが故に、家康を失った。これで兄は、一人で弟を殺しに行かなくてはならなくなったのである。




