第九十三話 交差する十二文
人は、守る物があるから強い。
昌幸には守るべき家があった。武名、名誉、何を犠牲にしても守る。その覚悟が彼の智謀を最大限に活かし、稀代の謀将と呼ばれる強さを誇った。
周防には軍師の誇りがあった。北条氏康の軍師として、負けたままでは終われない。自らの命を利用してまでその誇りに違わぬ生き方を貫いた。
慶次郎には守るべき友がいた。主君として、友人としての彼のために迷わず戦える勇気と、それに応えてくれる強靭な体があった。
三成には貫くべき義理があった。将才に欠けている事を自覚しながらも、見えている絶望の未来を変えるために、誰も立ち上がらない中で一人、立ち向かえる気概があった。
彼らだけではない。吉継も、秀包も、又兵衛も、吉長も、勝永も、親次も、秀秋も。皆、自分で決めた自分の道を守り、事を成し遂げて死んでいった、強者達。
この兄弟にも、守るべき武名と共に守るべき家族が、かつてはあった。然れど今。最も守りたかった対照と対峙している。
信之にとって最も守りたかった最愛の『弟』。信繁にとって、いつでもどこでも、誰と比べても眩しい存在であった『兄』。にも関わらず今、互いに刃を向け合う矛盾。戦国時代を象徴するかのような、残酷な絵であった。
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もう動ける部隊は僅かである。大坂城に向かった五万の兵は、昌幸の捨て身の策によって壊滅。勝永と秀秋・親次の猛攻によって、秀忠率いる東側の軍勢は彼らの殲滅と引き換えに、ほとんどの兵力を使い切った。機動力はもう空に近い。
藤堂・井伊を始めとする西側の軍勢は、信繁の衝撃的戦術の前に行動不能である。元気なのは政宗と、徳川本隊……そして真田信之軍ぐらいのものである。その徳川本隊は信繁の奇襲を避けるために北上し、信之軍五千と合流した。すぐ背後に阿修羅の如き信繁軍五千を連れて来たまま。
「『後方には政宗がいる』。大御所様を無事送り届けよ」
「ははっ。……弾正様」
「何だ」
「大御所様から、『すまぬ』、と言伝が」
「……勿体なきお言葉だと、きっと伝えてくれ」
「承知致しました。然らば、御免」
徳川兵に伝令を送った信之は、後方の心配を一切やめた。今目の前にいる弟は、あの幼い弁丸ではない。宗茂と並ぶ、生涯最強の敵。そう言って差し支えないほど、信繁には隙が無い。
万の人垣を破るほどの勇を持つ騎馬隊が厄介である。常識では止まる所で止まらない。それを念頭に置いて合戦を行う必要がある。
とはいえ騎馬は騎馬である。もし信繁が無策に、正面から騎馬隊を突撃させてくるなら恐るるに足らない。鉄砲弓矢の数は足りているし、距離が大分あるから全滅させる事も可能だろう。だが、信繁がその愚を犯すとは思えない。何らかの支援を混ぜて、騎馬を活かしてくるはずである。
「頼康、陣形を変えようと思うが」
「鶴翼がよろしいかと」
「川中島だな」
「正に」
どちらが信玄で、どちらが謙信かはわからない。もしくは川中島の通りに、痛み分けで終わるのか……。とにもかくにも、信之は陣形を動かし始めた。
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論理的に考えて、信繁と勝永が別れた時点で敵の兵力は分散されると、信繁は読んだ。信繁にはそこから先に、二つの計画があった。もし、家康がそのまま本陣に留まる様なら、僅かな残存勢力(といっても万を超える大軍だったのだが)を突き破った後、正面からぶつかって首を獲る。もし万が一、家康が本陣を捨てる様なら、北へ追いやって兼続と挟み討つ……。
だが、信之が南下してくることは予想外であった。兼続が壁となって、防いでいるはずだったからである。兄が予想を超えてくるのは、今に始まった事ではないが……。
この対決だけは、避けたかった。信繁は自分の中で、戦いの邪魔になる不純物が、情が生まれている様な気がした。
あれこれ考えている内に、信之は陣形を変え始めた。もはや一刻の猶予もない。信繁も呼応して動き出す。
「大助、速やかに陣形を動かす」
「如何様に?」
「魚鱗を」
「しかし、父上」
「兄上の動きは恐らく鶴翼。包囲されれば危ういな。だが、兄上より早く陣形を完成させれば話は別」
「なるほど……」
「急げ! 勝負は陣形生成の速度ぞ」
「はッ!」
信繁は魚鱗の陣を組みだした。驚くべきは兵が陣形を造る、その早さである。信之の軍も有数の早さであるが、信繁の軍は、大坂の陣以来の寄せ集めにも関わらず、信之軍と同等の練度を有していた。
――不味い。
鶴翼は広範囲に兵を広げるため、魚鱗より陣取りが遅くなる。つまり陣がグチャグチャになっている最中に、信繁に柔かい腹を突かれてしまう!
「頼康、鶴翼から変更! 衝軛の陣を三列二行! 訓練通りに動かせ!」
「い、今から変えるので!?」
「そうだ、急げ!」
信繁が信じられない早さで陣形を整え終わった時には、信之軍はまだ汚く、隙だらけの陣形となっていた。
――兄上、後手に回られましたな!
信繁が狙っていたのはこれである。陣形を変え、相手の対応を見ながら隙を見つける。自軍の練度に相当の自信が無いと出来ない芸当である。あの油断の無い兄に勝つには、正攻法では無理。なら、多少強引にでも相手に隙を作らせるしかないのだ。そして狙い通りに、兄の陣は崩れてくれた。
「頃合いじゃ。 敵の陣形が整う前に突っ切るぞ!」
「かかれぇ!」
信繁と大助の号令が、五千の兵を一斉に動かす。信之の防衛戦の恐ろしさは皆伝え聞いて知っている。体勢を立て直されたら、自軍は忽ちにやられてしまうだろう。それでも、死を覚悟した死兵達である。勇気で持って歩を進める。
だが。
「おい、何か……」
「じ、陣形が整っている!?」
信繁軍が動き出し、接触する前に信之軍は体勢を素早く立て直した。そう、鶴翼から三列二行の衝軛への移行は、単純な横移動のみというこれ以上ない簡素な動きで済む。よって体勢はほぼ一瞬で立て直す事が出来るのだ。しかも三列二行の衝軛の陣の持つ、正面への防御力は測り知れない。信之の時間差戦法に、信繁は完全にハマった。
――焦りおったな、信繁!
信之の狙った論理通りに信繁は動いてしまった。盤石の陣形に、正面から騎馬が突っ込む。鼻垂れ小僧でもどうなるか分かる状況である。信之は勝ったと思った。誰でもそう思う。だが、それでもなお……信繁は突っ込んで来る。
「弓兵、初射が勝負だ! しっかり狙え!」
「槍隊、構え! 一歩も引かず槍衾を叩きこめ!」
信之と頼康の指示が同時に飛ぶと、一気に兵達の身が引き締まる。
「射よ!」
遂に運命の矢は放たれる。空気を切り裂く音が、射手の耳に突き刺さる。静かに、確実に馬上の信繁兵に命中し、その数を減らしていく。
「第二射、急げ!」
淡々と指示を出す信之に対し、弓手の手取りは重い。その一矢は、確実に信繁に向けられている。身内を殺しているのだ。
「うう……」
涙を流す者もいた。互いが互いを補い合い、真田を背負って立つはずだった、二人の兄弟の殺し合い。忠義心に厚い真田兵だからこそ……。こんな事の為に、毎日の訓練があったかと思うと、真っ黒な虚無感に襲われる。
「射よと……射よと言っている!」
信之の鬼のような激が、弓兵の意識を戦場に戻す。一番辛い筈の信之なのに、それでも当主としての責務を投げ出さない。涙の一滴も流さない。その覚悟に、勇姿に兵達は、情よりも強く心を打たれた。
「射るぞ……儂は射る!」
「儂もじゃ!」
「皆、一斉射じゃ!」
涙を飲んで放たれた第二射が馬上の武者を無情にも打ち抜いて行く。だがそれでも、覚悟したつもりでも、手心は知らぬうちに加えられていたかもしれない。大半の信繁兵が弓矢を掻い潜り、無傷で信之軍に接触した。
「頼康、行け!」
「御意に!」
頼康率いる槍部隊一千が迎え撃つ。沼田を狙う北条家の猛攻に、遂に最後まで抗い切った豪傑・矢沢頼康。彼にとっても最後の戦場、集大成となる槍働きである事は間違いが無かった。
弓の破壊力に、少なからず勢いが落ちた信繁の騎馬部隊との激突である。
「敵は真田左衛門佐信繁! 加減はするな、旗を見るな! ただただ敵を刺し殺せ!」
「頼康か……厄介な相手よ!」
それでも信繁は今更槍に恐れる騎馬隊ではない事を知っていた。構わず突っ込む事が予想外だったのか、槍の勢いが一瞬怯む。
「退くなぁ! 圧せ、刺せ、何としてでも止めろ! 後ろには大殿と大御所様がおられるのだ!」
頼康の指揮も、委細構わず突進する信繁の勢いを止められない。ならばと、頼康の選択した行動はこれであった。
「よおく見ておけ……手本を見せてやる!」
後方で指揮を執っていた頼康が前に出る。大太刀を肩に担いで馬を駆ける。あっと言う間に最前線に到達すると、間髪入れずに太刀を揮う。刃に反応する重い肉の感覚と共に、敵兵の胴を切り裂いた。すれ違いざまに、信繁軍の雑兵を、いとも簡単に狩ってしまった。
「何だ!?」
「あれは……よ、頼康様じゃあ!!」
恐れを知らぬ信繁軍に、遂に一片の恐怖が植えつけられた。頼康はすかさず指揮に戻ると、今度こそ槍衾を機能させるべく檄を飛ばす。
「敵は逃げ腰ぞ、圧し返せ!」
人の恐怖は馬に伝搬する。そうなれば信繁の優位は一気に崩れ去る。頼康はその瞬間を見極め、満を持して攻勢に移ろうとした。しかし。
ひゅん、ひゅおん。
二度、三度太刀が風を切ると、波となって騎馬隊に伝わりかけていた恐怖が塞き止められた。自ら前線に立った、信繁の武勇によって。
「皆の者、止まるな。主らの恐怖が、馬を止めるのだ」
「の、信繁様……」
「軍神は主等の傍らぞ。何を恐れる事がある」
「おお……」
「進め、大御所の首を獲るまで進め。一切の防御を放棄して進め」
「お、おッ!」
「斬られても進め、事切れても尚、進め! いざ、三途の川を渡ろうぞ!」
「おおおおぉッ!! 信繁様、万歳!」
将たる者として、やってはいけない事。それは自らが前線に立つ事である。が戦死の可能性が格段に高まる、紛れもない愚行である。だが、それでもなお生還できる、ほんの一握りの例外が……奇跡が存在する。蒲生氏郷がそうだ、黒田長政や最上義光がそうだ。
そしてその奇跡に、人は感化されずにはいられない。
――大物め!
頼康は、自分の相手の悪さを確信した。唯者ではない事は、幼少期から知っていた。だが、これほどまでの将に――信之と同等か、或はそれ以上に――なるとは思いもよらなかった。頼康は、信繁の巨大さに呑まれた。
騎馬の海が押し寄せてくる。津波を押し返す事は、人間には出来ない。頼康の配下一千が、荒波に攫われて、藻屑と消えて行く。人数はそう違わない。それでいて圧倒的な戦力差であった。信繁と言う名の波は止まらない。波は人には止められない。止まるとするならば……。
「よくやった、頼康」
頼康は微かに聴こえたその声の方角に、焦点の合わぬ眼をやる。必死に旗を振っている兵がいる。
「散開の……合図?」
頼康は正気を取り戻した。即座に大声で配下に命令を下す。
「散開、散開ィーッ!! 巻き添えを食うてはならぬ!」
「ッ!!??」
メタメタにされた頼康の槍部隊が円の外側へ、散り散りに逃げて行く。理解できないのは取り残された信繁軍である。答えは、視界の外に用意してあった。
「これはッ……!?」
恐ろしい光景であった。あれほど一方的に攻めていたはずの信繁の騎馬隊は、いつの間にか信之の鉄砲隊に囲まれていた。その中で、信繁は兄の姿を認める。大きな体躯に、滝の様な汗。決断をする時はいつも、笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか。今の様な複雑な表情をしている兄。いつも傍にいた弟が、見紛うはずもなかった。
――また何やら、辛い決断を強いられておられるのですね……。
信之が開いた右手を天に伸ばし、空を切る様に地に落とす様を、信繁は見た。信繁の卓越した動体視力は、その唇の動きを的確に捉えた。
「放て」
信繁という正弦波を止めるべく、信之という名の逆位相波が放たれる。信繁の目の前を、後ろを、足元を。鉛玉と、鮮血が通り過ぎていった。




