第九十一話 秀秋、疾駆
「秀忠じゃ、将軍秀忠の首じゃあ!」
兼続の軍は信之にしてやられたが、秀秋と親次の小早川軍は騎馬隊のショックから立ち直れない浅野軍を圧倒していた。だが、底力を見せ中々後退しない浅野長晟に対し、秀秋も焦りを感じていた。
「親次! このままでは立花が体勢を立て直してしまう! 如何すればよい!?」
「今は良い形にございまする! 時をかければ、必ずや浅野は退きまするぞ」
「それで……勝てるのか!?」
「むっ? それは如何なお考えで」
親次はすっとぼける。もう彼らには帰る城が無いに等しい。昌幸の立てた作戦は二の矢は用意していない背水の陣である。日没になってしまえば相手は兵力を補充可能、こちらの理は失われる。親次は秀秋がこの事を理解していた事を思いの他驚き、感心した。
――だが、兵まで焦らせてはいかん。あくまで、儂の指示で徐々に速度を入れ替えねば……。
親次は『後』の事も考えていた。戦が終わった後、どこか城を落して根城とする必要がある。だから兵力をいたずらに失いたくなかった。だが、秀秋の考えは違う。
「親次、お前の考えは儂にも伝わっている」
「金吾様?」
「だが、秀忠を残していては必ずや、体勢を立て直される。もはや大御所の時代ではない。秀忠だ。秀忠を倒す必要があるのだ」
「急いてはなりませぬ」
「急く時だ!」
百戦錬磨、鬼島津にすら対抗して来た親次が、秀秋の剣幕に気圧される。そして気づけば、みるみる内に水野軍の陣形が整っていく。
――宗茂め……兵員を貸し与えて立て直したか!
親次は悟る。ここは、確かに後事を考えていては勝機を逃すかもしれない。若い秀秋の方が、今の戦況を正確に把握できているかもしれないと。
「金吾様」
「何だ!」
「本当に、死にまするぞ」
「儂は今日ここに、その覚悟だけ持って来た! 他には何も、持ち合わせていない」
「宜しい。参りましょうぞ!」
親次の軍配が振るわれる。水野、浅野、そして立花の体勢が完全に整う一歩手前で、小早川軍の前進が始まった。
「宗茂、通るぞ!」
******
「政宗ぇぇッ! お主、何故ここにおる! 本陣はどうしたのだ!」
「落ち着け、弾正。これは大御所様の下知だ」
「本陣を手薄にすればどうなるか、分からぬお主ではあるまい!」
「儂もそう諌めた。だが大御所様は、秀忠様を気遣われた」
政宗は淡々と、合流した信之の詰問に応えて行く。政宗の野望を聞かされていた信之は、政宗が信繁をワザと見逃したようにしか見えなかったため、物凄い剣幕で胸倉を掴んでいる。
「放せ。部下に恥をかかせる気か」
「俺と共に本陣に戻れ」
「将軍を守るのが先だ。お前にも『大御所よりも将軍家を守れ』という下知が言っている筈であろう」
「……」
信之も本当の所は理解していた。家康は、敢えて自陣を薄くしたのだ。二者択一となった今、自分と秀忠、両方を取っていては負ける。だから、秀忠の守りを厚くした。父として、そして先代として秀忠を活かそうとしているのだ。
「恐らく、お前と将軍が残っていれば幕府は成り立つと思っているのだろう。だから、将軍家を守れ」
「……」
「儂は直江を潰しに行く。御免」
「待て!」
「何だ……まだ何かあるのか」
政宗は鬱陶しそうに振り返る。信之はその表情から、信繁を見逃した意図を汲取った。徳川が残ったという過程の元、もし信繁が家康を討ちとったなら――秀忠が真田家に対してどんな感情を抱くか、想像に難くない。政宗が、そこまで考えていたとしたら……。
――いや……政宗はそんな器量の小さい男では無い。
信之は、友に残る義の心を信じた。
「すまぬ。何でもない」
「そうか。ではな」
政宗を見送った信之は小休止をして考えた。このまま、家康の下知通り秀忠の護衛に回るか、それとも……。
******
「臆するな! お主らの戦果は先代・小早川秀包様に捧げるものぞ!」
「うおおおッ!」
関ヶ原の島津豊久の様に、小早川の兵が進む。少数の敵を陣内に巻き込んでは、飲み込んでいく。まるで台風の様な問答無用の前進であった。
「進めーッ! お前達の歩いた跡が、秀頼様の道となる!」
小早川軍の後から、悠々と秀頼がついて来る。その姿が士気となり、前線の戦闘力が上っている。一万五千の兵が、少しづつ削れながら前へ進む。
「止まるな、止まるなよ!」
「ぬぅぅ、士気が違いすぎる!」
浅野長晟軍、水野勝成軍が何とか堪えようとするが、槍を合わせても止まろうとしない小早川には通用しない。横からの援護が欲しいところだが、本多・榊原は直江兼続に完封されて動けない。
「ちぃぃ、戦屋の井伊・藤堂は長宗我部・真田にやられて動けぬし……。八方塞がりじゃ!」
「立花は無事か!? もはや宗茂殿が生命せ……ん!?」
乱戦の中、立花軍の姿が見えない。まさかと思った勝成が後方を見やると、立花の兵が後方へ退いているではないか。
「伝令! 立花侍従様より」
「何だぁ!?」
「小早川の勢い、火の如し! 一端距離を取り、『国崩しを使う』との事!」
「お、大筒を使うのか!?」
勝成と長晟は仰天する。野戦で、しかもこの乱戦で大筒を使うなど、勝機の沙汰ではない。と、普通なら思うのだが……。
「だが、確かに」
「そうだ、足を止めるならそれしか無い……」
迷っている時間は無かった。水野・浅野軍は阿吽の呼吸で散開、小早川に道を譲った。
「何だ!? 敵が勝手に道を開けるとは」
「好機じゃ、進め、進めー!」
「なりませぬ、金吾様!」
猛将である秀秋は今迄の経験から、敵の退却を見ると追いかけてしまう。それは長所であり、短所である。経験豊富な親次や宗茂は、その一段先を見通し作戦を立てるのである。
よって親次は、これが宗茂の策である事を見抜いた。
「止まれぇぇぇぇーッ」
この先の指示が出せなくなっても良い覚悟で、親次は叫ぶ。その声が届いた部隊は止まり、前衛は止まらない。そして……。
――ドォォン。
轟音は鳴り響く。前列の十数名が、一度の砲撃でミンチと化した。力強く前進するための密集陣形は、命中率の低い大筒でも致命傷を与えられる。
「散開ィィーッ! 固まるな、死にたくなければ展開しろーッ!」
親次の指示が飛ぶ。戦場での宗茂に、容赦の二文字は無い。判断を誤れば、数で勝っていてもあっと言う間に敗着まで持っていかれる!
――ドドォン。
だが親次の指揮も虚しく、次の二発目が前衛を撃ちぬいた時、兵士の足が完全に止まった。それだけショッキングな光景だった。人間が鉄の塊に押しつぶされ、目玉や臓物が足元に転がって来るその様は……。
大筒の命中率は低い。密集隊形なら餌食だが、散開してしまえばほとんど当たりはしない。それは雑兵達でも理解できる。しかし、理性を恐怖が塗りつぶし、立ち往生させる。
「動け! 動かなければ死ぬのだぞ、動くのだぁぁ!」
――ドォン。
三発目。立ち止まっていた兵士達のどてっ腹に玉がぶち当たり、紙の様に人の体が吹き飛ばされる。そしてようやく死の恐怖が勝り、小早川の兵が退いて行く。
「くっ、何と有効な手を打ってくるのだ……彌七郎!」
宗茂を敵にした事を、親次は悔いた。勝利への欲が少しでもあるのなら、何としてでも味方にするべきだったのだ。こちらから勧誘すべきであったのである。
敵に回すと自分を殺す男だと知っていた。親次は宗茂に殺される事を望んでいたから、思い残すことは無い筈だった。それでも悔いが残るのは……いつの間にか、この戦の勝利を欲していたからである。
盛親が、又兵衛が、吉長が、全登が……死に際に見せた執念を、もし自分も出せるなら……。どうせなら、勝利が欲しい。
――親次なら、そうであろうな。
そして宗茂は、親次が勝ちに来ることを知っていた。生来の勝負師、『天正の楠木正成』として、絶対に勝利への欲が出ると踏んでいた。だから、最善の手で、敬意を表して殺しに行く。
「よし、小早川の士気は駄々下がりである! 水野・浅野軍と挟み込むのだ!」
小早川軍前衛は、大筒への恐怖から動けない。前衛が動かなければ、後衛はつっかえる。士気と機動力が完全に宗茂に奪われた。
はずだった。
フラリ、フラリと、恐怖に抗って馬を進める兵がいる。親次は心の中で握り拳を作る。
――そうだ、散開すれば恐るに足らん。足を動か……し!?
兵では無かった。象徴的な赤の陣羽織が雄弁に身分を告げている。先頭を歩き出したのは、小早川秀秋その人であった。
「なりませぬ! 誰か、誰か引き止めよ!」
雑兵の頭も真っ白になったのか、慌てて走り出す。その行動を皮切りに、止まっていた小早川軍の時間が一斉に動き出した。
「金吾様!」
そして誰よりも早く、親次の馬が秀秋に辿り着いた。二人の真横を、砲弾が掠めて行く。
「すまぬな、親次……儂は、先頭を進む事しかできぬのよ」
「大将とは、後ろで構えるものにございます!」
「もうやる事は一つであろう。一万五千の総力を持ってぶち当たる」
後続がぞろぞろと追いついて来る。秀秋の行動が、完全に士気を取り戻した。
「駆けさせてくれ。秀頼君と、あの方に見てもらいたい」
「……分かり申した」
「いざ!」
「御意に!」
親次も、考える事を止めた。進まなければ、後ろの水野・浅野に挟まれる。秀頼も危険に晒される。前だけを向いて、前傾姿勢で、つんのめる程に傾いて走る。宗茂の、そして将軍秀忠のところまで。
「儂はあの時から、一度として揺れぬと決めた。儂が決めてこその人生じゃ!」
「小早川軍、前進じゃ!」
面喰ったのは宗茂である。大筒で止めた筈の小早川軍が、岩清水の様に流れてくる。これでは、数からして全てを仕留めきれない。
「むぅッ!?」
一万五千の内、一万が宗茂の壁を突破した。その後ろに陣を構える、秀忠の所まで突っ走る。
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時を同じくして、秀忠の本陣は奇襲を受けていた。
「敵襲、敵襲ー!」
「何ぃ!? 斯様な後方まで、何者ぞ!」
「旗印は……毛利豊前守勝永!」
勝永は千騎の騎兵と、後に続く歩兵を率いて秀忠本陣を強襲した。本来ならすぐに援軍が駆けつけるはずだが、そこに信繁と勝永が、袂を分かった理由がある。
『家康の本陣』と『秀忠の本陣』を強襲されている、という報が入った場合、各将の判断は確実に鈍る。結果、程よく両陣の戦力は分散し、奇襲に持ってこいの状況が出来上がると踏んだのだ。
「的中じゃ! 秀忠公が首、この毛利勝永が貰い受ける!」
秀吉に拾い上げられた勝永である。恩に報いるための、十分すぎる手柄を前にして一層燃えたぎる。信繁は、きっと家康を討ってくれる。ともすれば、自分が秀忠を討ち取れば徳川幕府は頭を失い、各大名も離反するに違いない。豊臣家の再興の道が出来る。
だが。
「な、何故斯様に多勢なのだ!?」
勝永は絶句した。到着した秀忠の陣の周りには、ざっと見て四万近くの兵力が存在している。命令系統は混乱しているはずなのに、何故こんなに素早くかき集められたのかが甚だ疑問となり、勝永に冷や汗を流させた。
前述の、家康の策であった。家康は予め全ての大名に『有事には大御所に構わず、速やかに秀忠の護衛に廻るべし』との命令を下していた。将軍と大御所で揺れるはずの大名たちも、大御所自らの命令なら迷わず将軍の援護に回る、というわけである。対する勝永は、三千程度の兵力である。
――勝ち目はない……だが!
四万に勝つ必要は無い。頭さえ、秀忠さえ討ち取れれば、それが勝永の、豊臣の勝利となる。勝永はこの時点で、完全に生きる望みを捨てた。
「参る!」
飛び込む覚悟を決めた三千の士は死兵と化した。守る細川・黒田・加藤嘉明の大軍へ、真正面からぶつかっていく。どう見ても無謀な攻めであったが、勝永の騎兵にはただ一つ、勢いがあった。
「どけぇぇ、儂は将軍に用があるのだ!」
自らが先頭を走り、馬上から槍を振り回す。槍の小さな切先など安定しない馬上からでは恐るに足らないが、勝永は例外であった。彼の操る槍の精度が、敵将の度肝を抜いて行く。
「続け、勝永様に続けーッ!」
先頭を行く者が強ければ、後続は自然と強くなる。負けてなる物かという競争心と、死なせてなる物かという義心、友情が雑兵の槍にも力を与えた。
「何だあれは!? 嘉明殿。あの将はどこの誰ぞ!」
「毛利豊前守、勝永でござる」
「見違えた……あれが勝永か!? ついこの間まで、小童であった筈が……」
対する黒田長政が、同じ九州の将として感心する。加藤嘉明はフッ、と笑みを零す。
「武断派と言われた我らも、あの様な活躍に焦がれて参ったのぉ」
「……そうであったな。又兵衛もきっと、勇敢に散ったに違いない。だが、それもここまでよ。幕を引こうぞ、勝永!」
細川家の軍が、猛攻に耐えかねて勝永軍の突破を許すと、嘉明と長政の軍七千が立ちはだかる。
「黒田、加藤か! 面白い、相手にとって不足は無いわ!」
「かかって参れ、勝永!」
「通して貰う、長政殿ぉ!」
囲むようにして、長政は陣を展開する。数に物を言わせて、包囲殲滅する作戦である。だが、包囲が完成する前に勝永はどてっ腹を突き破ってしまう。
「何ぃ!?」
「行かせるか!」
加藤嘉明は、真正面に分厚い陣を敷いた。だがそれすらも、勝永の勢いを弱らせるに及ばない。十を超える大名が陣を敷いているのに、勝永はその悉くを打ち破り、その度に勢いを増していく。
その顔は返り血をべっとりと浴び、この世で最も赤黒い者と言えたかもしれない。
「奴は……阿修羅か何かか!?」
「来た来た、来たぁ! 皆の者、将軍の首は目の前ぞ!」
壁を構成していた軍を払いのけ、遂に勝永は将軍秀忠の陣に辿り着いた。最後の一撃を加えるべく、惜しみなく後続の兵達を鼓舞しようと、振り返って拳を突き上げた。が……。
「あれ……」
ついて来ているものは、誰もいなかった。勝永は先頭のまま、ここまで走って来たのである。偉業と引き換えに、甚大な被害があったのである。
――ここまでか……。
そう思われた勝永の耳に、敵兵の悲鳴が突き刺さる。
「北方より、新たな敵部隊が来襲!」
「ま、まだ来るのか! 何処の大名ぞ」
「前筑後領主……小早川秀秋!」
「あの内股膏薬か! おのれェ」
関ヶ原の秀秋はもういない。そこにいるのは背後の弟を守る兄の姿であった。
「将軍秀忠! その首、金吾中納言が貰い受ける!」
「将軍には、指一歩触れさせませぬぞ!」
秀秋の前に、細川ら、よく見知った豊臣恩顧大名が立ち塞がる。忽ち出来上がった人垣を突破せんと、秀秋の歩兵は思い切りぶつかった。が、その半分が止められた……というより、自主的に立ち止まった。それが、挟み撃ちを恐れた親次の策であった。
「親次!?」
「行かれませ、秀秋様。 秀包公と、秀頼君の為!」
「……すまぬ!」
島津豊久と飛び込んだ、関ヶ原中央突破の再現であった。その時の豊久の役を、秀秋に託した親次の命運は此処で尽きる。後ろから、立花宗茂が追いついてきたからである。
――これぞ、介錯に相応しい両者よ。
その智謀で大友家を、そして数多くの義将を助けて来た「天正の楠木正成」、志賀親次は、奈良街道に散った。
******
「退け、退けぇぇぇ」
秀忠は遂に追い詰められた。西からは毛利勝永に混乱させられ、立て直しかけたところに北から秀秋が迫る。
――またしても……またしても儂が斯様な命のやり取りを……ッ!
真田昌幸に殺されかけた第二次上田合戦が頭をよぎる。その真田がまたしても敵となった今回、同じ様に尖兵にとり殺されかけている。
「最後の一兵になっても、決して止まってはならぬ! 見える者全てを斬れ、全てが大将首と思え!」
自分より若い筈の秀秋の檄が飛んでいるのを聴いて、秀忠も顔を上げた。どうやら、大坂城へ向かった兵は何らかの策で消し飛んだらしい。ならば、ここにいる全ての兵を使い潰す。それで生き残れなければ、その程度の器――天下人となる自分なら、必ず生き残れる。秀秋と真っ向勝負する覚悟が出来た。
「いけぇぇ!」
秀秋の兵は、数を減らしながらも確実に近づいていた。いや、死傷者を渡し銭として進んでいる様にすら見える。秀忠と秀秋、太閤の一字を受け継いだ二人が、上に立つ者の苦しみをぶつけ合う。
残り三千、二千九百、二千八百……数をゴリゴリと削られながら、秀秋は秀忠に肉薄する。
「見えて来た、あと僅か、あと僅か……! 見ているか宗章、其方のお蔭ぞ」
秀秋が栄光に手を伸ばす。最後に残った千人の中に、彼はいた。柳生新陰流宗家の四男・宗章と切磋琢磨した秀秋の豪剣が、今彼を男にしようとしていた。
――義兄上、某は……自らの選択に悔いは有りませッ……
「ちぇいいいいい!」
ザクッ。
遂に本陣に足を踏み入れた秀秋の胴を、袈裟斬に日本刀が突き抜けた。初めて体感する血飛沫の熱量から、秀秋は自分の最期を悟る。
「金吾を討ち取りし傑者よ……名を」
「柳生宗章が弟、柳生但馬守宗矩でございまする」
「ああ……数奇な廻りあわせよの……あに……うえ……」
自らの選択に答えは出た。例え実は結ばなくとも。揺れずに真っ直ぐ、納得の行くまで突き進んだ気持ちの良い人生であった。小早川秀秋、享年三十四。奇しくも彼の心を救った義兄・秀包と同年であった――。
「よくぞした、宗矩」
「秀忠様、この御方……」
「ああ」
「笑うておりまする」




