第九十話 栗毛色の道
信繁の頭の中に、幼少の頃、岩櫃城で過ごした記憶が蘇る。初めて馬に乗ったあの時の記憶。
ポンポン、と脹脛で腹を撫でてやる。すると弁丸(信繁)の跨った馬は、ゆっくりと前に進み始める。手綱を手前に引いてやれば、力を感じ取って止まってくれる。
かけ足から襲歩までスピードを上げると、尻が浮いて鐙に足をかけるだけ。足の筋肉にかかる負担に加え、鎧の重量も重なるので結構な重労働となる。
だがその苦労を補って余りあるのは、徒歩よりも優れた利便性。幼き弁丸は、その速度に酔いしれた。そしていつか自分は武田の騎兵となって、織田軍の銃撃の中へ突っ込んでいくのだと信幸(信之)に語った事がある。しかし、聡い兄から帰ってきた言葉は夢見る弟の心を溶かす。
「騎馬など、使えた物ではない」
「な、何故にございまするか!?」
幼き頃、信幸と弁丸は毎日の様に戦術論を交していた。と言っても、基本的に信幸が一方的に喋るだけなのだが、この日は弁丸の反論が激しかった。如何に偉大な兄と言えども、そう簡単に夢見心地を害されてなるものかと、気合いが入っていたのだ。
「騎馬は人より速く走りまする」
「まぁな」
「速いという事は、それだけ力強いという事。人垣など簡単に壊せまする」
「ずっと速ければ、そうであろうな」
「え?」
「この人と変わらぬ※小さな体。こ奴等は酷く臆病だ。一度怯えだしたら留まるところを知らぬ」
信幸は説いた。騎馬とは本来移動、伝令に使う物であり、攻撃に用いる物ではないと。
「しかし、鵯越で、九郎義経公は騎馬で奇襲をかけ申した!」
「あれは奇襲、それも馬を活用しておるのは移動だけよ。まぁ相手が隊列が整っておらぬ時や、敗走しておる時にはそりゃあ、有効であろう」
「ほら!」
「だが相手が満を持して待っている場合、これほど撃退し易い敵はおらぬ。鉄砲は勿論、無駄に耳が良いから銅鑼の音でも驚いて逃げ出す」
「むぅぅ……父上!」
居間で碁を打っている昌幸は、縁側で交される二人のやり取りを耳で聴いて把握していた。それでいて碁も優勢を保ち続けているのだから、驚いた情報処理能力である。相手をしている頼康が唸っている。パチン、と耳に心地よい音を生み出しながら、昌幸は答えた。
「源三郎が正しい」
「そんなぁ……」
「馬を使うなら奇襲と追撃。それ以外は危険じゃ。単騎駆けならともかく、集団での突撃は良い的よ。無謀極まりない」
頼康が手を挙げて、降参の意を示している。信幸はもう弁丸を無視して、目線上で昌幸と火花を散らしている。信幸もこの頃は囲碁に嵌っていたので、今度こそ昌幸に勝つ! という気持ちが逸っている。弁丸はもはや蚊帳の外である。
「仕方がありませぬよ、弁丸様。馬は人間の不安も、敏感に感じとります故」
「ならば、使う人間がそれを補う程に勇敢なればいいではないか」
「え?」
「様は、倒されず、止まらなければ良いのであろう?」
碁を掴んだ信幸と、昌幸の手がピタリと止まる。
――もし弁丸が、騎兵の可能性を変えたなら……。
二人は頭の中で、瞬時に可能性を模索した。無理だと分かっていても心躍ってしまう。兵を使う側である二人ならではの同調であった。
「ふっ、弁丸なら出来るやもしれぬな」
「儂が生きておる内に、弁丸が騎兵で敵を掻っ捌く様を見たい物よ」
だが結局は、二人は冗談で濁した。それでも二人の可愛い弁丸は、冗談と捉えずかく語りき。
「はっ! 必ずや騎兵で、相手陣中に大打撃を与えて見せまする。父上と……兄上のために!」
「……阿呆が」
呆れる二人を他所に、弁丸は庭に出て槍の稽古を始めた。
******
「かかれッ、最短最速じゃ!」
そして大坂で、弁丸――真田信繁の体は馬上にあった。直江・小早川による巧みな戦闘範囲の展開が功を奏し、まるでペーストの様に薄く広がった戦線。そのど真ん中を、騎馬で突き破るのが、大坂方の作戦だったのである。
歩兵の倍の速さで、六千の騎馬が迫る。いくら馬が怯えやすいとはいえ、今の薄い人垣など容易に破れてしまう。そうなればその先は……家康と秀忠まで一直線である。
「抜かったわ!」
信之は既に本多・浅野らに伝令を送り、両軍は既に動き出していた。だが信繁と勝永の進行速度は、それらよりも遥かに速い。
――間に合わぬ!
信之が顔を覆いかけたその時、敵騎馬兵にいち早く反応している集団があった。
「あれは!?」
瞬く間に五千の人垣が構築された。参加したのは水野軍ら、右翼にいた軍勢であった。
「流石だ宗茂、俺より早く見破っていたか!」
小早川の攻勢に耐えながら、百戦錬磨の宗茂は後方の様子を常に伺っていたのである。信之よりも四半刻速く、中央への援軍要請を出していた。
そして衝突には間に合わないまでも、信之側の援軍もじきに中央へ集まる。そうなれば、騎馬隊は一網打尽となる可能性が高い。
「これで詰みだな」
「信繁様の事、失敗したら自害しかねませぬぞ? よろしいので」
「それがどうした。俺はとうの昔に、もう弟は死んだと思うてこの戦場に立っておる! 頼康、余計な気遣いは兵の士気にも関わる。自重せよ」
「……失礼をば」
信之のその言葉は、頼康ではなく自分へ向けられていた。今、ここで遂に自分は弟を殺すのだ。その事実に怯え、震える自分の体をしゃんとさせるために、声帯を震わせる。
「来い、信繁。引導を渡してやる!」
真田・毛利軍の予想進路は完全に塞がれた。こうなれば騎馬を止めて、通常通りの歩兵の戦闘を行うしかない。そして馬の制御に手古摺る間に、徳川軍が数で包囲し、圧し潰す……それでこの戦は終わる筈。信之も宗茂も、そういう塩梅で兵を動かした。これで終わる、この一手で終わると信じた。
しかし。
「止まるな、止まれぬ理由が、我らにはあるであろう!」
「応ッ!」
様子がおかしい。前方に壁が出来たにも関わらず、全く進行速度が緩まない。誰一人、手綱を後ろに引かない。止まらない。信之はゾクリ、と背筋を凍らせた。
――まさか!?
「我らの後ろには、秀頼様がおる! 退くな、臆すな! 退路は無し、只々前へ進むべし!」
「っしゃああああ!」
信繁の鼓舞する声が、信之にまで届いた。弟が何を見ているか、何を狙っているのか。一つ違いの兄には手に取る様に分かる。
――弁丸が、騎馬の可能性を……。
「馬鹿な、出来るわけがない!」
「出来る!」
「阿呆、止まれ! 死にたいのか!」
怒号の中、聴こえるはずのない、届くはずの無いお互いの声をそれでも拾って、成立する兄弟の会話。唖然とする兄に、戦国最速の弟が迫る。馬が止まれば、敵中の真ん中で孤立――即ち死である。生きるためには、一度も馬を止めずに敵陣を駆け抜けねばならない。この時代の馬の小さな体躯では、至難の業であった。
だが止めない方法を、信繁は知っていた。小田原で唯一、落とせなかった忍城を守った多目周防の騎馬隊。それは奇襲の時期を見測った、巧みな用兵。冬の陣で唯一、真田丸に侵入した前田慶次郎の単騎駆け。それは鍛錬を重ねた馬術と勇気。その二つが答えに繋がっていた。
「何故、騎馬が止まるのか。何故、騎馬を止めることが人に能うのか。騎馬を止めているのは……」
人垣に、先頭の信繁が迫る。衝突まで、三秒、二秒、一秒……。
零。
「だぁりぁぁあ!!」
馬上で、長槍を思い切り振り抜く。人垣の先頭を守っていた兵士の首が、これでもかという高さを舞った。その光景に見とれたか、畏怖したか、集団の動きが止まり、静寂に包まれる。
「……今!」
「せいやぁッ」
続く毛利勝永が、その静寂を敵兵ごと切裂いた。信繁と勝永、二人の初弾が、壁を構成する成分に与えた恐怖心は、それらを一歩退かせるに十分な一撃だった。
「騎馬を止めるもの……それは、人の殺気也!」
殺気の消えた壁は、ただの壁。そう信じ振り抜いた信繁の一撃が、騎馬の敵陣横断を可能にした。次から次へ、訓練された騎馬兵が敵陣へ食い入って来る。二人の勇猛が、騎馬に恐怖を忘れさせる。恐怖が伝染するように、勇気もまた集団に伝染していく。後続も、止まらず槍を振り続けた。
集められた徳川軍の「壁」は、騎馬に有効な鉄砲・弓矢の準備が整っていないため、馬を驚かせ、傷つけることが出来ない。更に緊急の対応だったが故に、心の準備も出来ていなかった。信繁はその絶好の「時期」を、周防の様に的確に見定めた。慶次郎の様に、馬を見事に御して見せた。
「止めろ、止めろぉ!」
「ひぃぃ、先頭が強すぎる! 退け、退け!」
「馬鹿が、退いたところで轢かれるだけじゃあ! 何でも良い、馬を驚かせぬかぁ!」
「無理ぃぃぃ!」
壁を構成していたのは、ただ緊急で、移動を命じられただけの寄せ集め。怯える兵を見ても、馬は止まりはしない。騎馬軍を止める猛者は現れず……そして遂に、豊臣軍は敵陣を突き崩した。
「出来た……出来た!」
「ッし。豊前守勝永、やってやったわ!」
信繁と勝永が、騎馬の可能性を変えた。臆病で小柄な馬達の力を最大限に発揮し、敵の中央を横断したのである。分断を許した徳川の大軍は、完全に二分された。連携が出来なくなった。自身がとんでもなく不利な状況に追い込まれたにも関わらず、信之は呆気にとられて動かない。目頭が光っている様に、頼康には見えた。
棒立ちの信之の眼前を、信繁の騎馬が通り過ぎ、頬をヒヤリと風が打つ。眼が合った兄弟の時間が止まる。二人は目で言葉を交わした。
――そうだよ弁丸。俺はお前を、
――そうです兄上。私はあなたに、
そう使ってやりたかった
こう使って貰いたかった
信之は、防衛線を突き破って駆けて行く信繁軍の背中を、ぼんやりと眺めていた。胸に去来する不明瞭な感動と共に。
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「おお、おおおお……」
燃え盛る大坂城天守閣。昌幸は黒ずむ視界のその一端で、信繁の偉業を捉えていた。
思い通りに動かせる。そう考えて昌幸は信繁を溺愛した。だが信之の台頭があまりに早すぎる余り、信繁を逆に大事に、大事に育て過ぎた。上杉へ人質にやり、豊臣に人質にやった。信之が戦死すればすぐ家督を継げる様に……。
失策だったのかもしれない。この逸材を戦場から遠ざけつづけた事が、今更になって悔やまれる。やはり真田の血は、戦場でこそ輝く事を知った昌幸は、我が子二人の様子を手摺にしがみ付きながら見続ける。
「ああ、見える。見えるぞ、栗毛色の道。弁丸、源三郎。出来過ぎた我が子達……」
信繁の作った騎馬の道。夢物語と思った、騎馬での敵陣突破。その栗毛色が、岩櫃で家族仲良く暮らした頃を思い出させ……。昌幸の魂は天へ昇った。享年六十九。彼の命懸けの策は敵中し、遂に敵本陣への奇襲が始まった――。
※小さな体……当時の日本馬にはサラブレッド(競走用の品種)がおらず、大きさは現代のポニー程度だった。
次回更新は火曜です。




