第八十九話 義兄への憧憬
出丸の前にズラリと並んだ豊臣軍六万。大きく四つに分かれる軍、その前方左翼に小早川秀秋、志賀親次の二万の縦隊が待機していた。この正面の軍を警戒し、徳川軍は真正面に立花軍らを待機させている。秀忠・家康は遥か遠くに下がっている。
小早川軍の緊張は、最高潮に達していた。頭が真っ白になっている者もいるかもしれない。今にも逃げ出しそうな者もいるかもしれない。親次は若干の不安に駆られたが、それは幸いにも杞憂に終わる。
「秀頼様、御成!」
「えっ!?」
「ひ、秀頼様が!?」
秀頼が小早川陣中に現れると、その巨躯から来るのか、神々しさから来るのかは分からないが……浮足立った兵士達の士気が上がっていく。何しろ、自分達の大義名分が服を着て戦場を歩いているのだ。浄化されるかの様に、地に足が着いて行く。
総大将の姿が見えない場合と、陣中で指揮を執っている場合とでは味方の士気は段違いとなる。戦場で生きて来た昌幸は、それを良く知っていた。何としてでも、秀頼を戦場に出させようと尽力し、そして実現させた。
「金吾殿、如何か」
秀頼は義兄・小早川秀秋の元へ歩み寄った。
「殿下。陣羽織、良く似合っておりまする」
「父上の物でござる」
「義父上……いや、太閤秀吉様でございまするか」
二人の父であった秀吉が造り上げた大坂城は、間もなく灰塵と化す。それ事実が二人の目頭を熱くする。勝つために、伝説の軍神に賭けた。彼らの選択に悔いは無い。無いはずだが……。
「これが、最良なのでしょうか、義兄上」
「その呼び名は」
「今は、義兄と呼ばせて下され。母や千、待女は逃がし申したが、あの大坂城を爆破してまで」
「我らは正しい」
秀秋は秀頼の眼前に跪き、強く説き伏せる。
「伝心の……真田の戦略ならば、必ず! 家康の首に届きまする」
「義兄上……」
「なに。全て、私に任せておけば万事上手くいきまする。さ、後方へ参られよ」
「義兄上。生きて、またお会い致しましょう」
「必ずや」
秀頼を見送ると、すかさず親次が近づいてきた。
「親次、兵の士気は如何か」
「田辺城の遺志達は各隊に平等に分けられており申す。彼らのお蔭で旺盛にございまする」
「祝着。戦死が多い中、良き足軽大将が多く残っていて助かった。これで先鋒の役目を果たせる」
秀秋は不思議な心地であった。自分達は二の矢を持っていない。片道切符の特攻であるのに、この落ち着きは解せない。心躍りこそすれ、沈む事は無い。
その事が、これから素晴らしい世界に彼が赴く事を予感させた。親次が、秀秋の両肩を掴む。
「無礼をお許し下さいませ」
「良い。儂が縮み上がっていると思うなら、余計な世話じゃぞ」
「その言葉、今我が身に染みてございまする」
「親次よ、今一度問う。何故お主ほどの高名の士が、立花や徳川の仕官を断ってまで儂に従ったのだ?」
「問いを返しまする。金吾様は何故、秀頼様に忠誠を誓い申した?」
「それと同じか?」
「それと同じでございまする。私も、無作為に生きているわけではございませぬ故」
親次は笑った。その顔は、とても死地へ向かう男とは思えない。秀秋は、自分と親次の考えが繋がっている事を知った。
「分かっておられますな? 我々の相手は……」
「まず立花。次いで細川、水野……猛将ばかりだな」
「それでこそ、天からも分かり易き働きとなりましょう」
「お前と会えた事は僥倖であった」
「某にとっても、支え甲斐のある若殿でございました」
「ふっ。儂は猛進しかできぬ。最後までしっかり支えてくれ」
「御意」
小早川主従の準備は整った。後は「合図」を待つばかりである。
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前方右翼に控えるのは、直江兼続の軍一万五千。昌幸の後の参謀を担っているのはこの男である。
「殿、兵の士気は上々にて」
「ああ、良き緊張感であるな。さて、作戦通りに行ってくれればいいが」
「その……よろしいのですか?」
「『後ろ』が出来ると言っていたのだ。ここまで来たら、自信のある将にある程度は賭けねばなるまいよ」
「はぁ」
――三成でも、きっとそうしたに違いない。
『後ろ』というのは、後方の両翼を担っている信繁と毛利勝永の事である。兼続の作戦は、まず直江軍と小早川軍が当たり、その間に毛利・真田軍が両翼から横殴りにするという電撃作戦であったが……。
『御家老。某に考えがあり申す』
信繁の一言で作戦を変更せざるを得なかった。成功すれば、この上なく有利な状況を作れる作戦……。親子共々、新しい発想を良く生み出せるものだと、兼続は不覚にも感心した。
「まさか、城におびき寄せて自爆とは。死期を悟った上に、気でも触れていないと出来ぬ策であったな」
昌幸は恐ろしい。信繁は凄まじい。そして、前方で臨戦態勢を取っている信之は……。
――奴は、底が知れぬ。三成も奴に潰された。予想を上回る行動をしてくるかもしれぬ……。
ゾクゾク、と体中が沸き立つ感覚がある。政務と戦、両方に重きを置いてきた兼続である。だが上杉の本質は、謙信の作った上杉の本質は、戦によって心を満たす事。そこにこそあった。文武両道の兼続も、定期的に戦を求める傾向を、自らの内に認めていた。欲望には逆らわない。欲しい文献があれば国を越えても手に入れる。欲しい国があれば一揆を扇動してでも奪い取る。関ヶ原も、戦を求める上杉の本質が興したのかもしれない。
生涯で最も憎い二人。信之を越えれば、その先には家康がいる。
「クク……逸るな逸るな……」
兼続の体が沸き立つ頃には、大坂城に、火の手が上がり始めていた。
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その兼続の正面に位置するのは、真田信之率いる五千の軍である。以下、本多二千・浅野・榊原の軍が続く。東側が秀忠を守る壁なら、この東側は家康を守る壁である。その中で、頼康と信之は異変から目を背け続ける。
「殿、才蔵は……」
「才蔵は戻る。心配無用だ」
「しかし、もう何刻……」
「今は目の前の敵の動きに集中しろ。四つの縦隊だ。必ず連携して来るぞ」
「はっ」
頼康も、そして信之も才蔵がもう戻ってこない事は分かっている。途中で哨戒に引っかかったか、それとも慶次郎の様に、独断で信繁の首を取りに行ったか……。色々と想像はつく。だが、今は友・才蔵の死と言えども情に流されるわけにはいかない。それほどの威圧感を敵軍が放っているのだ。
「直江、小早川が前陣。毛利と信繁が後ろ……『車懸り』の様な波状攻撃か?」
「しかし、それならば殿は周防殿との戦で経験済み。対応できましょう」
「あれは周防が自分で創り出した『車懸り』だ。上杉の本物は俺も見た事がない。そもそもあるのかどうかも怪しいところだしな」
「どちらにせよ、まずは真っ向からのぶつかり合いでしょうな」
「堀が埋まったせいで、辺り一面が見渡せる故な。小細工も出来まい」
と、その時である。
――ドォン!
爆発音が、徳川軍にも届く大きさで鳴り響く。それも、一度や二度では無い。同時多発という事実から、数えきれない程の火元が存在する事が、徳川軍の将には容易に理解できた。
「一体……何事じゃ!?」
「殿! 敵軍、前進を始めましたぞ!」
「今のが合図か! 相手にとって不足なし……来い、直江兼続!」
信之を始め徳川軍は、城攻めに赴いた六万の大軍が昌幸の策によってほぼ全滅するという事を知らない。時間差で到達するこの絶望的情報も、昌幸の計算の内である。残る徳川の兵力は七万、豊臣の兵力は六万。戦国最後の野戦、その幕が開いた。
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「かかれぇぇぇ!」
「ウオオオ!」
兼続の号令が前陣に伝わり、一万五千の軍が動き出す。はち切れんばかりであった戦士達の闘志が、次々に前に出る。
「前進!」
「ははっ」
同時に、小早川軍二万も前進を開始。秀秋の迷いない指揮に清々しさを覚えながら、腹を満たした兵達が猛進していく。
だが、兼続に対する信之、そして秀秋に対する宗茂は不動であった。
「殿、如何なさいます」
「言うまでもない。弓隊を出せ。その後、槍で応戦。速やかに頼むぞ」
「ははっ」
二人は全く同じ指示を出した。まずは歩兵の足を止め、あわよくば数を減らす。有利な状況を作った上で槍衾で追い返す。まっとうな戦術であるのだが……。
「放て!」
千を超える数の矢が襲ってくるにも関わらず、迫りくる歩兵達は全く下がらない。当然、命中し倒れる者もいる。普通ならばその様を見て、屍を飛び越えられるかどうか。それが勇士か否かの線引きとなる。だが彼らは、その境界線を……。
――なんと容易く飛び越えて来やがる!
脱落者が一割にも満たない。これは信之と宗茂にとっても、(関ヶ原での自分達以外では)初めての経験であった。しかも気づけば、隊列が縦から横に広がっている。弓の威力を最小限に留める策を、早くも売って来たのである。直江・小早川の両指揮官の判断には迷いが無い。
「初めから行動を決めていたか。こちらの教本通りの動きが読まれていたわけだ」
「槍隊、準備万端にございます」
「当たり負けするな。相手はまだ死兵には至らぬ」
「ははっ」
頼康が自ら率いる槍部隊が、直江軍の歩兵と激突する。上杉家の人質だった頼康の登場で、僅かでも士気が落ちてくれる事を期待した人選である。
だが、一当りした頼康が違和感を覚える。
「むう、こ奴ら古参兵か!?」
「頼康様! 関ヶ原で戦わずして大坂城に入った田辺城の面々にございます!」
「チィッ、通りで練度が高いわけじゃ!」
同様に宗茂の兵も圧されていた。如何に従来の立花兵で無いとはいえ、短期間でも宗茂が鍛えた兵である。それを圧している小早川軍の歩兵の強さは、圧して知るべしであった。
「流石は、親次じゃ。ここまでしっかり練兵して来るとは、恐れ入る」
「兄上、悠長な事を言っている場合では」
「直次、伝令を飛ばせ。水野と細川に加わる様に言え、とてもじゃないが数が足りんわ」
立花軍は本国や輜重隊から補充を行ったがそれでも三千程度、しかも後藤又兵衛の奇襲を防ぐためにかなりの傷を負っている。しかも相手は唐入りで猛将として鳴らした小早川秀秋である。世間一般の評価はともかく、宗茂は彼に一目置いていた。もう一人の将が友である『天正の楠木正成』と言うなら、一目置かざるを得ない。
「これが、この猛攻が……お前の選んだ主の力か」
「兄上!」
「直次、援軍到着まで持たせよ。士気に気を配れ、敗走に注意しろ」
「ははっ」
宗茂の戦略が変わる。当初は自分の軍単独で受け切るつもりだったが、救援が付くまで小早川軍を釘づけにする事。それが精いっぱいであると判断した。
――金吾中納言・小早川秀秋か。秀包……お前の目利きも中々であったな。
******
「秀秋様! 圧しておりまするぞ!」
「親次の隊と離れるな! 相手はあの立花じゃ、横列が乱れれば持っていかれるぞ!」
「御意!」
混戦の中で、秀秋の頭の中には数年前、親次と共に浪人していた時代が蘇る。義兄の犠牲の上に成り立っている自身の命を、持て余していたあの頃に。
『何故、義兄上は儂を生かした? 徳川への復讐を望んでか?』
その愚かしい問いに、親次はかぶりを振って答えてくれた。
『あなた様の振り回されっ放しの人生に、あなた様自身で決着をつけて欲しかったからでございます』
『決着……』
『貴殿は今、自由でございます。何をするか、何になるか。死ぬのか、生きるのか』
『義兄の後を追うと、幾度も申したであろう』
そう言うと親次はまた、首を振った。
『それでは、貴殿の運命は秀包殿に左右されている。それは、あの方が望んでおりませぬ』
『されど』
『何に、なりとうございまするか』
『何に?』
『何者に、なりとうございまするか』
親次の言葉に、秀包の気高き姿が浮かぶ。脳裏に焼き付いている、時に優しく、時に厳しい義兄。末弟でありながら、兄であろうとした……。
『兄に……』
『何と?』
『弟を守る、気高き兄になりたい』
そして義弟は、危機に瀕していた。あの時の秀包が自分の心身を救ってくれたように、今度は自分が秀頼を守る。その一心で大坂に馳せ参じた。
何故だろうか。守られる側にいた時は、あんなに迷っていた采配が、今ではこんなにすんなりと命令できる。まるで最善を体が選んでいる様であった。
「水野軍、細川軍が立花に合流! 数の差が縮まりましてございます!」
「軍を更に展開させよ!」
ここを抜かれれば、秀頼が死ぬ。銃口を突き付けられたかの様な緊張感が、必死さが、秀秋の脳を全力で回転させる。行動を起こせば、場は動く。関ヶ原で動かなかった秀秋が、誰よりも機敏に動いている。
「正念場じゃ! 圧し負ければ後ろはないぞ!」
秀秋自身も剣を抜く。※柳生宗章に影響を受けた鋭い太刀筋が瞬く間に一人を斬り倒す。将自らの首級獲得に、味方の士気が回復していく。
「死守だ、ここは何としても死守せよ!」
秀包に憧れる秀秋の声が、志賀軍・直江軍にも届く。全軍の士気を、秀秋が支えていた。
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「何だ……?」
疑問を抱いたのは信之である。本多・浅野の援軍により、圧しつ圧されつの膠着状態が発生していた。だが、おかしいのは相手の陣形である。
「何故、こうも横に展開する!?」
まるで帯の様に軍が横に伸び切っていた。確かに万を超える規模の軍勢同士の戦なら、こうなってもおかしくは無い。だが、相手はあの兼続であり、昌幸である。何らかの企みがあるとみるべきであった。
「……あっ」
信之は気づいた。広範囲で戦闘が行われているのに、真田(信繁の方)と毛利が参加していない。考えてみればこちらは五千以上も数で劣っているのに、こんなに長く膠着するのはおかしい話である。むしろ今の直江・小早川の気合いなら、相手が攻勢に転じていいほどの戦力なのだ。
――奴らの策が読めた。これは、不味い!
「中央の榊原・本多隊に伝えよ、なるべく密集して」
「と、殿!!」
伝令役の叫び声に釣られ信之が振り返ると、出丸から中央に大砲が撃ちこまれていた。当然、当たるわけの無いこけおどしなのだが、当たれば致命傷である。だから、兵士は避けながら闘う……。
それに気づいた時、信之の中で全てが繋がった。
「いかん! 直ぐに中央を詰めろ!」
「もう遅い!」
信之は悲鳴を上げる様に、兼続は勝ち誇った様に叫ぶ。そして徳川軍の兵が、信之に呼応して中央に壁を作る前に、前方から万を超える大軍勢が突撃してくる。それも砂埃を上げながら。
「お膳立てはしてやったぞ」
兼続は前を見たまま、後ろから迫る砂埃に向かって檄を飛ばす。
「勝永、信繁……ぶった斬って来い!」
横に伸び切った戦線。そのど真ん中目がけて、大坂の誇る二人の猛将が、騎兵を伴って突っ込んで来る。
狙うは秀忠――そして、家康。
※関ヶ原時の秀秋の護衛。将軍家剣術指南役・柳生宗矩の兄。
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