第八十七話 彼に策有り
「才蔵はまだ戻らんのか!」
兼続の猛攻を受ける信之に余裕は無かった。鉄砲の弾を込める合間に、確実に戦力を削りに来る兼続の賢しい戦ぶりが発汗を促す。
「砲台に人手を割き過ぎたな」
「それを仰られても、詮なき事でございましょう」
「違いない。一瞬の隙も見逃すな」
「御意」
頼康と信之は、撤退の隙を探す。今は不意を突かれて真正面から対峙している状態である。篠山の砲兵と合流し、有利な形で戦を進めたいという本音があった。
だが、波状攻撃を仕掛ける兼続・信繁連合軍にその隙が無い。背を向ければ、忽ち体力満タンの敵兵が飛びかかって来る。
「頼康」
「皆まで言われますな。某の武勇にお任せあれ」
「頼んだ!」
頼康が精鋭を率いて前線に立つ。兼続の軍には上杉の旧臣も混じっている。上杉家臣であった頼康の恐ろしい武勇を知っているものは、その姿を見て少なからず動揺した。
「我に挑まんとする者、切先の前に立て!」
頼康はたった五十騎を連れて突っ込んでいく。これには流石の兼続の対応も遅れた。
「両翼から包みこめ! 撤退を許すな!」
しかし信之得意の鉄砲狙撃が直江軍の両翼を襲う。たじろぐ歩兵の動きが止まり、撤退の隙が発生した。
「全軍、篠山まで走れ!」
「逃がすかよッ」
頼康を殿として退却を始める信之の軍を、数十秒遅れで兼続が追い始める。しかし前方に徳川の援兵が見えると、逸る心を制して足並みを止めた。
「逃がしたか……だが、収穫は十分」
兼続は不敵な笑みと共に、真田丸へ戻って行った。
******
「あの忍を失うたか」
「犠牲を厭っている場合ではございませぬ」
「気丈じゃな。終わりまで持たせろよ」
「無論」
夜が更けると、兼続と信繁、親次、秀秋に毛利勝永が、秀頼と昌幸の元へ集められた。昌幸は、最早幽鬼その者の姿である。
「ご老体、その体で軍議は難しかろう」
兼続が言葉を掛けると、昌幸は震えながら右手を上げて制する。ならば気遣いは無用と、兼続も救いの手を引っ込めた。
「では、最後の軍議を致しましょう」
「何?」
咳き込みを必死に堪えながら、昌幸は可能な限り流暢に喋る。その姿に感動したのか、五人は言葉を理解するのが一瞬遅れる。
「最後とな」
「明日。明日を総攻撃の日と定め申した……。其方ら五将が、我らの放つ最後の矢じゃ」
「話してみよ、伝心殿」
「儂は配下の忍に密命を申し付けておった。開戦直後からずっとじゃ」
「何?」
兼続は何の事か分からず、思わず信繁を見るが彼もかぶりを振った。その様子を見て昌幸はニヤリと笑う
。信繁は知っていた。この笑みは、何かを企んでいる時に出る物であると。
「何をお考えなのです」
「今、この城には『虫喰い』が多数ある」
「虫食い……?」
「まさか!?」
その言葉から、親次と信繁が真意を汲取った。信繁は腑に落ちた顔をしているが、親次の表情は昌幸に訴えかけていた。
――そこまでするのか!?
「親次、どういう事だ?」
「金吾様……このご老体、とんでもない軍師にござる」
親次が秀秋に、信繁が兼続と勝永に耳打ちする。三人の表情が一変する。
「伝心殿、それは……」
「捨て鉢とは、左様な事にござりますぞ毛利殿。覚悟をお決め為され」
「覚悟はとうに出来ておる! しかし、秀頼君は如何なさるのだ!」
「儂の事は良い」
「良くはございませぬ! 殿下に生きていてもらわねば、我らの大義はございませぬ!」
勝永が昌幸に歩み寄る。昌幸は震えながら勝永に囁いた。
「なればこそ。背水なのでございまする」
「何?」
「殿下のお気持ちは、既に戦場へ出向きたいと昂ってございまする。その願いは、『虫食い』の後に某が叶えまする」
「殿下が……戦場へ!?」
「不遜ながら、使える物は全て使う主義でございまして」
昌幸は、士気を最高の状態に持っていく事を考えていた。それには秀頼の出馬と、二度と戻らぬという覚悟が必要であった。
「儂は死に体でござるが、貴殿らと寿命の長さは同じ」
「……」
「全てを賭した攻撃でござる。尻に火が点いたと思いなされ」
「死ぬるか、我らが」
「否。死なんとすれば」
兼続が秀秋から言葉を繋ぐ。
「死なんとするからこそ、生きる。得てしてそう言う物でござる」
「さすがは上杉。説得力が違うのぉ」
「俺は閻魔に散々悪態をついてきたからな。間違いなく地獄行きだが、今すぐはゴメンだ。だから死ぬ気で戦う」
「ふっ、御家老らしい」
五人は誰が言うともなく、右手を重ね合った。そこへゆっくりと、秀頼の神々しい、太い掌が触った。
「殿下……」
「儂の手を、吉長や全登の物と思え。其方らと過ごしたこの二年余り、今思い返しても楽しき日々であったぞ」
「まだ終わってはおりませぬ」
「そうであった。そうであったな」
******
五人は自陣に戻り、ありったけの米俵を解放した。兵士達が腹を満たす間、兼続と信繁は昌幸の床へ立ち寄る。
「父上」
「昌幸殿。ご無理をなさる……」
「この衰退しきった体も、其の方らの闘志に火を点ける一因になれば、とな……」
「馬鹿な事を。気合いが乗らずとも戦える。それが本当の兵士だ。少なくとも、上杉の兵は皆そうだ。いつでもどこでも、誰とでも戦える準備をしてある。家康ともな」
「保健を掛けておいて良く言う。強かな男よ」
「そうとも。俺が死んでも上杉は残る。遠慮なく戦える場を用意してくれた事だけは、感謝しようぞ」
兼続は感謝とは名ばかりの言葉を吐き捨てる。だが彼には、昌幸にどうしても尋ねておきたい事があった。
「何故貴殿は、あの長男と敵対する」
「信之の事か?」
「徳川を倒すという事は、弾正を倒す事と同義であろうが。奴は譜代大名となった。最早徳川を象徴する男ぞ」
「それは奴が、儂が生み出した傑作であるが故よ」
「何?」
昌幸は床に就いたまま、懐かしむ様に眼を閉じて話す。
「奴が生まれし時、儂と妻は大層喜んだ。武藤家の待望の跡継ぎじゃとな。だが五つぐらいまで育った時に、儂は奴の才に気づいた。儂が何かを申し付けたい時に、奴は必ずそこにおった」
「それで」
「最初は石田三成の様な、気が付く茶坊主の才かと思うた。しかし、我が主……勝頼様の元へ人質に送り、戻って来た奴は明らかに武将であった」
昌幸は過呼吸になるかというほど、熱弁した。兼続にはそれが解せない。
「何故そう思ったのだ」
「帰って来る途中、野党を何人も斬って来たからじゃ。落人ばかりの二百の手勢で、奴は千を越える盗賊を軽くいなしてきた。しかも、それが初陣よ。その話を聞いた時は末恐ろしく思うた。そして」
「そして」
「奴は儂を助け、信濃の安寧を取り戻した末、関ヶ原の功を持って儂を超えて行った。敢えて奴に勝負を挑んだ、儂の負けであった」
信繁も、薄々気づいてはいた。父が犬伏で兄と袂を分かった訳を。勿論、家名を残す事を優先した上でだが、信之の排斥を狙っていた節は前々からあった。北条が名胡桃城を攻めたのも、彼の策という噂が立つほどの父である。今や、その程度では驚きはしないが……。
「だが、儂はもう一度、あの鉱石の様な男と戦う機会を得た。家康というオマケ付きでな」
「あの家康をオマケ扱いとは、恐れ入るは」
「生涯で最も倒したかった二人じゃ。今の儂なら、奴らにも勝てる。何故なら、最強の駒がおる」
「なるほど、それがこ奴というわけか」
二人は信繁を見ている。
「左様。信繁こそ、信之と家康を刺す最大の駒よ」
「その心は」
「信繁が知っておる」
「勿体ぶりおって」
「其の方は知らずとも良い。如何するのだ」
「ならば俺も教えぬわ。俺は俺の好きにする」
「ふ、なるほどのう」
兼続は用を終えると、さっさと退出しようとした。
「今生の別れであるな、『表裏比興』殿」
「お互い、戦三昧の良き人生であったのう」
「俺は死なぬ。一緒にするな」
障子を勢いよく閉め、兼続は去って行く。ここからは、親子水入らずの会話である。
「父上、先ほどのの言葉は」
「もう、保険は掛けてある。そうであろう?」
「されど、兄上は」
「お前や儂如きが、遠慮をしていい相手ではないのだ」
「……」
「今の戦国最強は、信之と家康。明白である」
「家族でございます」
「諦めろ。口で左様に言っても、お前の血が戦いを、功名を欲しておる」
信繁は言い返せない。そう、血湧き肉踊っている自分が、確かに内にいるのだ。
「明日、お前は灼熱の中よ。その蝋燭の火が尽きるまでに」
「家康を」
「そして兄を、燃焼させろ。天下に名を、刻んで来い!」
「……」
「九度山に流されてから、ぎゃあぎゃあと喚かなくなったな」
「はい」
「一度尋ねておきたかった。その穏やかさは、どこから来たのだ?」
「……それは」
昌幸の問いに、信繁はゆっくりと答えた。そして、運命の夜は明けて行く。
******
「これでよろしいのでしょうか、可児殿」
「伝心殿を信じるしかあるまい」
――バキバキッ、メキッ。
「む、門が壊れたぞ!?」
「勝機じゃ、攻めよ、攻めこめぇ!」
翌朝。固く閉ざされた東西の門が、徳川方の砲撃によってあっさりと破壊された。雪崩の様に二の丸に突入した徳川軍に対し、可児吉長、明石全登の率いる三万の兵は防戦一方となった。
「押し返せ、押し返せぇ!」
「秀頼様のおわす本丸までは、決して敵を侵入させてはならぬ!」
将達の激が飛ぶ。それを本丸で聴いていた昌幸は、床に入ったままで不気味に笑う。門に傷をつけておいたのは、昌幸の指示であった。
「そうだ……上れ、上れ。本丸まで上がって来い……!」
驚天動地の策、発動まで……数時間を切っていた。




