第八十五話 劣勢の奇跡
盛親の猛攻は徳川の先鋒・藤堂高虎の兵力を激減させてしまった。しかし忠朝の活躍で、長宗我部軍は消滅した。そして信繁は高虎の企み通り、井伊直孝軍の眼前に孤立した形となったのだが……。
「退却、急げ! 殿軍、抵抗はそこそこに」
「はっ」
信繁はこの状況をも利用する計算があった。逃がすまいとする直孝の猛追に、真田兵はやっとの所で逃げおおせる。
「いかん、出丸には近づくな!」
高虎が叫ぶが聴こえるはずもない。直孝は掃討戦の気持ちよさに酔ってしまう。既に長宗我部軍を壊滅させた功に加え、まだ戦功が欲しくなる。その功名心を信繁は利用した。
「散開せよ!」
信繁の騎兵が左右に逸れると、真ん中から出丸の鉄砲隊が現れた。
「ゲッ!?」
「放て! 足を止めろ!」
――パパン、パン。
井伊の歩兵は見事な一斉射に損害を負わされ、それ以上の深追いを中止する。
「チィィ、せっかく信繁を誘い出したと言うにこのザマか」
「長宗我部を討った事でよしとしよう。一旦下がるぞ」
直孝と高虎は軍の再編成のため、一旦自陣に退いて行った。
「ふぅぅ」
「信繁様、見事にございまする。勝鬨をあげよ!」
「エイ、エイ、オー!」
敵に聴こえる様に勝鬨の声をあげ、敵に敗北感を、味方に昂揚感を植え付ける。実際には五分の戦果だが、こちらは盛親という指揮官を失った。故に士気の低下をこうして避けているのだ。
――これで、敵が左右からの攻めに集中してくれれば良いのだが……。
******
「忠朝が……!」
高虎の軍を救援に来た信之は愕然とした。小松に何と言って聞かせればいいのか、その不安を払拭するのに半刻を要した。
――天晴であった。あの世から我らを見守っていてくれ。
信之は切り替えた。まだ、手のかかる弟がもう一人いるのだ。悔やんでいる暇はない。
「正面は難しうござろう。狙うとしたら夜襲でござる」
「夜襲、か……」
「宗茂を呼びましょう。出丸さえ破壊できれば、三方面からの城攻めが可能だ」
「宗茂? ……ああ、なるほどな」
信之は家康の本陣へ馬を飛ばした。真田丸を破壊する策を説くためである。
「大御所様、真田弾正参りましてございます」
「うむ、忠朝の事は誠に残念であった」
「はっ……義兄として、見事な最期を讃えてやりとうございます」
家康はゆっくりと近づき、信之の肩をポン、と叩いた。
「出丸じゃな」
「はい。立花の大筒が必要でございます」
「奴は木津川方面におる。時間はかかるが……」
「城攻めは多方面からの攻撃が肝要にて」
「うむ。正純、宗茂に使いを出せ。大筒を真田丸の正面へ移動させよとな」
阿吽の呼吸で物事は進む。真田丸打開の準備は整った。
******
「む、いかん!」
「如何した、伝心……なんだ、あれは」
物見櫓の上の昌幸が危機を察した。秀頼もその様子を見て、ただ事では無いと気づく。
「ゴホッ、ゲホッ! あれは大友……立花の国友筒にござる。家康め、立花に真田丸を破壊させる気じゃ!」
「不味いではないか。左衛門佐に撤退するように言わなければ」
昌幸は考える。恐らく宗茂は、正面の篠山まで移動する。そこの高地に国友筒をズラリと並べ、真田丸を砲撃するに違いない。そうなれば東西に敵兵を散らす作戦が成り立たない。
城攻めでは、攻められる方向が多ければ多い程、守る側が不利となる。攻め手の方角が決まっていれば、そこを集中して守る策などいくらでもあるのだが、三方向から同時となると圧倒的に不利。何しろ今は天然の要害であった外堀が埋まっているのだ。
「やむを得ぬな……後藤又兵衛殿に」
「如何致すのじゃ」
「立花が篠山に到着すれば万事休すにござる。ゴッホ……その前に捕捉し、砲台を破壊するのでござる。包囲を掻い潜っての、厳しい策にございますが……」
「出丸は死守せねばならぬからのう」
「御意」
秀頼は又兵衛に伝令を飛ばした。が、その直後に昌幸が倒れる。
「ぐぬぅ……」
「伝心!? 如何した」
駆け寄る秀頼を制し、昌幸は共の肩を借りて立ち上がる。発熱、咳こみ、そして悪寒から来る吐き気……典型的な肺炎の症状が、彼を襲っていた。
「秀頼様、某を隔離下さいませ」
「しかし……」
「貴方様のお体こそが、我らの大義名分ですぞ! お下がり下され!」
「伝心……」
昌幸は、篠山の方を見る。付近に、信之の気配を感じながら……。
――あとひと月で良いのだ。もってくれ、儂の体……。
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「立花、か」
又兵衛は伝心の依頼を引き受けた。授かった五千の兵を連れて、何とか宗茂を止めなければ作戦は破綻する。しかしその重圧の中で、彼は血沸き、肉躍っていた。
「この包囲の中を突破し、あの立花に野戦を仕掛け、大筒を破壊する。ハッハッハ、痛快痛快!」
「殿、行くのでございまするか!?」
「命が惜しい者は、ついて来なくとも良い。だが、ついて来た者は快楽を味わう事となるぞ」
「か、快楽にございまするか?」
「『劣勢』という名の快楽よ。俺はそれを、関ヶ原で見た」
「劣勢……」
又兵衛の頬が吊り上がる。今から始まるそれを、心から楽しみにしている事が分かる。
「有田中井手、厳島の毛利元就。桶狭間の織田信長。奴らが何故強かったか、それは数で負けておったからよ。戦うしかない状況であったからよ!」
「おお……」
「恐怖を御すれば、人はかくも強くなる。かくも速くなる! それを、慢心している彼奴等に教えてやろうではないか。行くぞ!」
「オオオオッ!」
又兵衛は信繁に援護を依頼する伝令を出すと、手勢四千と共に進軍を始めた。目標は立花宗茂。昌幸の策を成就させるため、命知らずが立ち上がった。
******
戦国時代の大筒は、火薬を使っていない上に、命中率の低さ等の関係で野戦では大した役には立たない。しかし、その猛威を振るうのは攻城戦である。宗茂は大津城攻めにて、この大筒の威力を存分に発揮した。時間はかかるが味方の被害はなく、これ以上確実な攻撃法はない。
「輜重隊をやらせるな」
宗茂は篠山へ砲台を移動するため、輜重隊を守る護衛兵を前衛に配置した。何しろ正面に位置するのは、冬に鬼神の如く暴威を揮ったあの信繁である。宿敵だった、あの信濃の獅子の弟である。油断はできない。
「結構な距離がございますな」
「ああ。だが他の大筒は木津川方面と平野川方面に回してしまっている。篠山に最も近いのが我らの軍だった故な」
「だがこの戦果にて、旧領柳川への復帰が叶うやも」
「口に出すでない。俗な考えぞ」
「申し訳ございませぬ」
宗茂は前方の真田丸に細心の注意を払っていた。自分達の行軍の様子は、大阪城内からも確認できるはず。無策で篠山に行かせてもらえはしないだろうと、彼は考えていた。
――問題は、誰が出てくるかだ。
篠山付近は、片桐且元と溝口直勝ら五千が守っている。心もとないとは言わないが、今の豊臣軍の勢いならば彼らを突破する可能性も考えられた。
「弓部隊、いつでも行ける様準備しておけ」
「ははっ」
と、指示を出したその時である。前方で砂埃が上っている。宗茂の予感は的中した。
「何だ!?」
「奇襲でございまする! 真田軍、片桐に奇襲をかけ申した!」
「やはり来たか。ここは彼らに任せ、急ぎ篠山へ」
だが、宗茂は二の矢の存在を誰よりも早く確認した。信繁は囮である。近場の諸将が片桐・溝口への援軍へ向かう隙に……。
「後藤だ! 又兵衛が来おったぁぁ!!」
「う、うわぁぁ!?」
軍の先頭を又兵衛が走っている。信之と同等の巨漢は、立花軍二千ですらもたじろがせる。しかし、宗茂は慌てない。
「弓部隊、威嚇射撃」
「はっ。弓兵、構えーッ」
命令系統を伝って、速やかに指示が伝わる。鎮西一と謳われた宗茂、流石の統率力であった。
「放てーッ」
だが一方の後藤軍は、向かってくる矢の恐怖を跳ね除ける。
「絶対に当たらん! 絶対にだ!」
「ぐああッ」
「あ、当たりました!」
「当たっても死なぬ! そうであろうが!」
「はい!」
「痛みも快楽じゃ! そうであろうが!」
「はいぃぃ!」
「よし、愛い奴らじゃあ。止まるな、輜重隊へ突っ込め!」
戦死原因で圧倒的一位を誇る弓矢の猛威を、劣勢故の気迫で飲み込んだ。又兵衛の求めていた力は正にこれであった。ここに集まっているのは、何者でもない浪人のあつまり。だがその一人一人が、まるで猛者の様に倒れない、止まらない。それが劣勢の気組みであった。
――新之丞よ。貴殿はこの境地に達していたのだな。
試したかった。この力の宿った自分がどれだけやれるのか。どこまで行けるのか。今の時分なら、一人で五十人でも、百人でも相手に出来る気がする。否、出来る!
「いたぞ、輜重隊を狙え! 砲弾を奪え!」
「ちっ、流石は黒田如水の臣下という事か」
宗茂は珍しく舌打ちをする。黒田如水は大砲の鬼才であった。四国・岩倉城攻めの際は積み上げて作った人工的な高所から大鉄砲を撃ち続けるという恐ろしい策で勝利を掴んでいる。その如水の元にいた又兵衛もまた、大筒の弱点を知っていた。輜重隊が命なのだ。矢が無ければ弓が撃てないように、砲弾が無ければ大筒は撃てない。そして砲弾は矢の様に、担げる重さでは無い。輜重隊が管理しているに決まっている。
「足軽隊、守れ! 物資をやられるな!」
だが相手は立花である。石高が少なくなり兵力は激減したとはいえ、宗茂と共に再起した剛勇揃い。又兵衛と狂兵達といえども、簡単に崩せる相手では無い。
「であぁりゃッ」
しかし先陣を、剛勇の士・後藤又兵衛その人が切るのなら別であった。まるで防御を考えていない猪突の槍が、足軽隊の人垣をかき分けていく。槍の切先が、何度も何度も頬を掠める。外れているのか、外されているのか。雑兵達には判断が出来ない。まるで又兵衛が魔法を使っているかのように、当たらない。
――モノが、違う!?
それを言うなら主である宗茂もそうなのだが、敵の場合はその脅威が倍増しに見える物である。立花兵に恐怖が生まれ始める。
「狼狽えるなぁ!! 真田信之、本多平八と戦った事を思い出せぇ!」
宗茂の声が、雑兵の震えを止める。そう、立花家は戦国最強と言っても過言では無い真田・本多と戦い、局所戦とはいえ勝った。それを思えば、留まれる。
「甘いわ、宗茂ぇ!」
「何!?」
しかし残念ながら、全員が古参の強兵ではない。三千が一万に匹敵する立花兵も、今回の招集では半数が新兵であった。元々数に差がある上に、後藤軍の威圧感を御しきれない。
「う、うわぁぁ!」
「ちっ……」
立花兵に刺され続けながらも、遂に又兵衛は輜重隊に到達する。運んでいた砲台、砲弾、火薬を奪い、恐し、蹂躙していく。
「……やられたな。しかし、ここから生きて返すわけにはいかぬ」
「む!?」
いつのまにか、立花軍のみならず水野勝成らにも囲まれ、退路を阻まれている。万事休すであった。
「ど、どうすれば……」
「ここは儂に任せろ」
この絶望的状況の中、又兵衛は包囲の方へズンズン進んでいく。
「又兵衛様、何を!?」
「者ども、責務は無事果たせた。お前らは真田の出丸まで退却しろ」
「は、はぁぁ!?」
「行け! 籠城戦は数の勝負だ! 一人でも多く生きて城に戻れ!」
「主を放っては……」
「主は秀頼様じゃあ! 早う真田の所へ行け!」
その檄は、その日一番の大声であった。
「さぁて、又兵衛一世一代の晴れ舞台! どうぞご覧あれ」
「むぅッ!」
又兵衛と数名の士が、包囲のど真ん中へ突っ込んでいく。どてっぱらに風穴が開くと、そこへ雪崩れる様に後藤軍が逃げ込んで行った。
「追え! 逃がすな!」
「行かせはせぬッ」
追撃しようとする勝成を、又兵衛と五百人の精鋭が止める。激務をこなした後の疲れは感じない。集中力が研ぎ澄まされ、脳内で作り出された多幸感が痛みを忘れさせる。
――松寿の愚行、今まで散々自業自得と嘲って来たが……。陣頭指揮を止めなかった理由も、今なら分かると言うもの。長政が先頭であったから、黒田は強かったのだ。仲違いはしたが、もう一度会いたかったのう。
「幸せだのぉ、おい!」
「御意!」
「誰が一番多くの首を獲れるか、いざ競え!」
「ぬあぁぁぁ!」
一瞬で三人の足を刈る。顔を踏みつけ、その後ろの敵を刺す。今の又兵衛にはどんな絶技も容易い事であった。
「フハハハ、フハハァ!」
快楽であった。全員が又兵衛の暗示にかかり、笑いながら戦っていた。
******
「まさか、斯様にてこずるとは……」
敗走は免れたとはいえ……結局、水野軍、立花軍合わせて、一千の被害を出してしまった。
「水野殿」
「む?」
「我ら、大変な男達を相手にしているやもしれませぬ」
「……」
二人は又兵衛の遺体に、深々と礼をした。徳川軍の篠山への大筒の派遣は、一先ず失敗に終わった。




