第八十二話 妻の役目
「何度言われても、儂は大坂を出る気はない」
真田兄弟が道を違えた三日後、小早川秀秋もまた会見の場にいた。かつての臣下・稲葉正成と平岡頼勝が、必死の形相で秀秋を引き抜きにかかっていた。
「金吾様、あれから時も経ち申した。今のあなた様なら、他の道を歩む事が出来るはず!」
「正成、頼勝。そなたらや、家康殿の気持ちはありがたい。されど、儂は探し求めていた自分にようやく出会えたところなのじゃ」
「はぁ……?」
「人とは、かくも変わる者なのだ。優柔不断の代名詞の様であった頃の儂は、遠い昔。今は梃子でもこの大坂から離れぬ」
二人は面喰っていた。あのフワフワと地に足のつかなかった子供が、今ではしっかりと根を張っている。自分達よりも、一回りも二回りも大きく感じてしまう程に。
「ご再考を!」
「命を落としまするぞ! 我らは金吾様を御救いすべく参ったのです」
「そう、死ぬだろうな。だが、ただでは死なぬ」
「後悔なさいますぞ……戦時にあっても、返り忠をお待ち申します」
「無駄である。そなたらは、そなたらの主に忠義をつくせ」
秀秋は、二人に背を向けた。何が彼を変えたのか……見当はついていた。人の生き様、死に様は、見る者に多大な影響を与えるという事である。
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信之は重い足取りで、駿府の家康に謁見していた。
「弟の説得、能わず……申し訳ございませぬ。」
「そうか、大儀であった」
「もったいなきお言葉……」
家康はふぅっ、と一息をつく。家康にとっても、緊張の瞬間だったのだ。信繁とはかくも大きな存在になったのかと、信之は複雑な気持ちになった。
「次の戦、負けることはあるまい」
「戦に絶対はございませぬ」
「そちは真面目よのう。儂は、孫を殺す事を覚悟せねばならぬ」
「孫……※千姫様でございまするか」
「これで、三人目の身内を我が手で殺すこととなろう」
「う……」
改めて話されると、家康の人生のなんと重い事か。前妻・瀬名、嫡子・松平信康を信長の命により処刑してから、三十五年。その間にも武田を滅ぼし、長久手で秀吉に辛勝し、関ヶ原で天下を掴んだ。家康はこの三十五年で、いったい何枚厚くなったのか。
主家滅亡をその目で見ている、波瀾万丈の信之にも想像もつかなかった。家康と信之。家を守るために必死で策を用い生きて来た二人。だが信之にとって、家康と自分は余りにも規模が違う。
「今一度問う。本当に、良いのだな?」
「……はっ! 誠心誠意、大御所様と将軍家のため務めまする!」
「うむ。二者択一となったら、迷わず儂を捨てよ。秀忠を守れ」
「御二方とも、命に代えましても!」
「忝い。信之よ……辛いのぉ」
「……はい」
弟と、父がいる城を、忠節を示すために落とさなければならない。もう助命嘆願は通らない。二人を殺す。真田信之に残された悲しき道であった。
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「徳川殿は十万石、お主に与えると申された。どうじゃ、親次殿。大坂を出てくれぬか? 儂は友を救いたい」
「すまぬな。大友家にも骨のある奴がおった事、示す事ができるのはもう儂だけなのじゃ」
「そうか、残念だ」
「すまぬ」
宗茂の説得は、一分ほどで終わってしまった。親次の意志を再確認すると、後は現状報告、昔語り、世間話……話したい事を思うぞんぶんに二人は語った。
「そうか、上手くやっておる様でなによりじゃ」
「……お主、説き伏せに参ったのではないのか?」
「説得は先程済んだではないか。見事失敗じゃ」
「相変わらず、清々しいのぉ、※彌七郎」
「何、お主の眼を見て無駄だと分かった。ならば友との最後の時間、有意義に過ごしたいではないか」
「敵わぬのぉ……忝く思うぞ」
宗茂は持って来た徳利を取り出すと、なみなみと酒を碗に注いだ。先程まで茶を飲んでいた碗である。
「おいおい、何をするのだ」
「礼を逸するが、碗がこれしかないのだ。やはり、そなたとは酒が飲みたい」
宗茂は、茶の湯でも細川忠興と親交を持つほど造旨が深い。久しぶりに味わいたいと言う親次たっての希望であったのだが……。
「もう引き抜きは失敗したのだ。酒に飲まれて、儂に言いくるめられることを心配する必要はあるまい」
「……気を遣わせたな」
「飲もうぞ、友よ」
「応。飲もう。朝まで飲もうぞ」
「大友家と、我らと……それに秀包に乾杯じゃ」
互いに悔いなき覚悟を決めるため、二人は飲み明かした。
――信之殿も、この様に割り切れておればよいが……。
宗茂の心配は的中していた。信之は、信繁を何としても生かしたい一心で、語りたい事を何一つ語れなかったのだから。
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「親次、如何する?」
「金吾様こそ、 如何なさるので?」
「儂は残る。お主は如何する」
「奇遇ですなぁ。某も残り申す。宗茂の奴、まるで説得する気がございませんで。昔語りで終わり申した」
親次と秀秋は説得を断り、大坂城へ帰還した。結局家康の引き抜き工作は実を結ばずに終わってしまったのだ。翌日、親次と秀秋は、驚愕する。自分達が留守の間に、徳川家の使者が、秀頼に移封を要求しに来ていたのである。
「本多正純にござる」
「直江山城守兼続じゃ。最早お馴染みであるかの」
「そちらは?」
「学僧の伝心殿にござる」
「ほう、そちらが……」
正純は、家康にそれとなく、軍師の存在を仄めかされていた。そのため、伝心が真田昌幸の可能性高しと、この時点で睨む事が出来た。
「さっそく、本題に入りますぞ」
「その前に尋ねる。今、東海道を徳川軍一万が進んできているではないか。如何なる事なりや?」
「流石は直江殿。もう耳に入っておられまするか」
「舐めるな。力ずくで和睦を破る気か」
正純は咳払いをすると、ズイ、と顔を近づけて鬼気迫る表情で詰め寄る。
「浪人衆を大坂城に圧しとどめ、埋め立てた堀の周りに柵を張り巡らせ、練兵もかほどに分かり易く行っておられる。豊家は、再び徳川家と戦をするつもりらしい」
「無茶を言うわ」
「ならば、敵意なき証として、備前への領地替えをご了承頂けますかな?」
「何だと!?」
備前は、今は北条氏盛が入っている土地である。その土地に豊臣が入り、現在の領地は豊家の怨敵である北条らに与えると、正純は……家康は言っているのである。明らかに喧嘩を売っていた。大義名分。欲しいのはそれだけである。
「敵意なくば、できましょう」
「狸が……なりふり構わぬ所を見ると、奴の寿命も近いのではないか?」
「直江殿。応じるのか否か、はっきり申されませ」
「くっ……」
「戦の準備をしておりまする」
「まっ……伝心殿!?」
昌幸がはっきりと言った。言ってしまった。兼続もそうだが、罠を張った正純が一番驚いている。
「ひ、秀頼君に承認を取らずとも宜しいので!?」
「ゴフッ……我らの心は、固まっておりまする」
「い、一日、猶予を差し上げよう! 淀のお方様らと、しかと話し合って……」
「くどいッ!」
「ヒッ!?」
昌幸の気合い一閃で、面喰う正純の顔を見て、兼続も面白くなってしまった。
「フフ……フハハハハ!」
「な、直江殿! 本当によろしいのでございまするか!?」
「無論だ。我らの言葉は、秀頼様の言葉ぞ。淀の御方様は病であるしの」
「分かり申した、主に伝えまする」
「正純よぉ……策にハマったのは、どちらかのう?」
兼続の不敵な笑みに、正純は背筋を凍らせ、小走りで去って行った。
豊臣は浪人を飼ったまま。気合い十分の大坂城。形だけの和睦がはち切れる。戦機は、熟そうとしていた。
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上田城に戻った信之は、人払いをして小松の元へ向かった。何がどうなったか、小松は夫の顔を見て全てを理解する。
「もう……もうどうにもならぬ。本当なら、もっと、もっと上手くやれたはずであった」
「最善でございました」
「もっと外堀から、慎重に埋めていれば何とかなったかもしれぬ。俺の、失策だ……」
「あの頑固な義弟殿ですもの、何をしても無駄にございまする」
「ああ……あああ……」
信之は小松に抱き着き、膝に顔を埋めて唸る。信之は強い。強いから、他者を倒して生き残って来た。手子生城で多目周防をすり抜け、上田合戦で鳥居元忠を撹乱し、小田原で北条家を滅ぼし、関ヶ原で小早川秀包を消し、大谷吉継にトドメを刺し、石田三成に引導を渡した。その度に、精神を削りに削って来た。最早木の枝ほどしか残ってはいない。自分の造り出した三成の亡霊に、長年苦しめられている。
それでも家族を守る。その一心でここまで来たのに、次の相手はその家族。血を分けた弟なのだ。必死で戦ってきた信之に、こんな仕打ちがあるだろうか。小松は運命を呪うが、もはや詮なき事であった。
信之は賽を投げて、進んでしまったのだ。ならば、小松のする事はもう決まっている。武家の妻の役目とは、血の香る戦場へ、それでも夫を臆させず送り出す事。
――私は、真田家の妻。私の仕事を、最後までやる。
「ダンナ、戦いましょう」
「小松……」
「これで、最後でございます。それこそが、滅亡の苦難を乗り越えて来た真田家の当主たるものの生き様でございましょう」
「行きとう、ない」
「わかっておりまする。私にとって、忠政、忠朝を殺せと言うのと同じこと。されど人とは、大なり小なり決別を宿命として生きるもの。歯を食いしばって、丹田に力を入れて、この土壇場を乗り切るのです」
「……」
――出来る事なら、代わって差しあげたい。私は、戦国大名の妻ゆえ、これ以上出しゃばる事は出来ぬ。女であるが故……。
出産の折、信之は出来るならば変わってやりたいと思った。小松は信之の妻にこれ以上なく相応しい人物であった。
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「志賀も、小早川も駄目、か」
家康は大きなため息をついた。小早川に属していた志賀親次は、関ヶ原で島津豊久と共に自分の眼前にまで迫った傑者である。真田信繁らと同様に、徳川兵にその恐怖がこびり付いている。やり辛い相手、是非味方に引き入れたかったのだが……。
「これは、腰兵糧ではすまぬかのう。正純」
「諸大名に動員を命じられますか?」
「うむ。将軍家にその旨伝えよ」
「ははっ」
家康は腰を上げ、太刀を持った。重い。以前は手足の様であった一振りが重い。自らの壮年を実感する重さであった。
――長かった……永遠に続くかと思えた。これで、遂に終わるのであるな……。
もう酒井忠次も、石川数政も、鳥居元忠も、井伊直政も、榊原康政も、本多忠勝もいない。義元もいない、信玄もいない、信長もいない、秀吉もいない。敵わぬと思った武人達すら、自分より遥か先に倒れて行った。何故、自分だけ死なぬのか。幾度も自問して来た問いであるが、しかし今となっては疑いが無い。
「天命、なのであろうな……」
徳川家康、齢七十四歳。出陣の号令を、信之を含む諸将に下した。戦国最後の戦いが始まる。
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上田城に、出陣の朝がやって来た。真田家の動員した兵力は、約六千。四十万石の大名に相応しい数字と言えた。真田の兵を総動員して、豊臣を征伐に……弟を殺しに行く。覚悟は出来ていたが、信之の顔はまだ重い。
「ダンナ」
「何だ、小松」
「これを、お持ちになって下さい」
信之は眼を見張った。小松は、自らの半身とも言える名槍『小松明』を、片手で持ってくるではないか。
「これは、お前に贈られた物だ」
「これは、私でございます」
「何?」
「お辛い御役目。半分はご自身で背負われませ。もう半分は私と、矢沢頼綱様が請け負いまする」
差し出された小松明を見て、家臣達は唸り声を上げて泣き始めた。信之はその巨体で、小松明ごと小松を包み込み、力いっぱい抱きしめた。
「お前で良かった」
「私も、あなた様で良うございました」
「行って参る」
「ご武運を」
小松明を受け取ると、信之は愛馬に乗って出発の号令を飛ばす。
「乱世最後の戦、相手は徳川将軍家に渾名す豊臣前右府秀頼! 我に続け、出陣じゃぁあ!」
「オオォォオオッ!」
山道に消える信之は、誇らしげであった。それは、間違いなく小松がやった事であった。小松は見送る時分の横に、頼綱と、そして忠勝の気配を感じた様な気がした。
※千姫……豊臣秀頼に嫁いだ、秀忠と江姫(淀殿の妹)の娘。家康の孫。
※彌七郎……宗茂の幼名。




