第八十一話 運命の一間
久しぶりに弟に会う。話す。説き伏せる。たったそれだけの事である。それが、こんなにも信之の体に発汗を促している。
――しくじれば、信繁の命はない。
その事実が重圧となる。話したいことは、ほとんど話せないかもしれない。それでも、できるのは自分しかいない。
「殿、大事御座いませぬか?」
「才蔵お前、家族はおったかのう」
「御戯れを。某は孤児故、おりませぬ。強いて言えば、真田家の家臣団が家族にございます」
「そうか……」
参考になる物など、この世の何処にもない。心の底から、信繁を救いたいという想いを伝えるしかないのだ。だが、相手はあの頑固者である。
信繁の底の、更に底にある考えだけは、信之を持ってしても読めなかった。
「最大の敵かも知れぬ」
見事に手入れされた枯山水に、足を踏み入れる。信繁との会見場は、とある貴族が提供してくれたこの屋敷の一間にて行われる。それにしては広く思え、それにしては狭く思えた。
「真田弾正大弼様とお見受けいたします」
「如何にも」
「左衛門佐信繁様が、既にお待ちでございます。どうぞこちらへ」
信之の体に、頸動脈が絞められるような緊張が走る。運命の一間へ、ゆっくりと歩を進めた。見かねた才蔵が、自らも部屋に入ろうと試みる。
「殿、某も」
「ならぬ」
「殿……」
「気を悪くするな。お主がいては、必ず失敗する。必ずだ。そこで待っていてくれ、頼む」
「……はっ」
才蔵を信頼していないわけではない。だが、才蔵とて信之ではない。信之の思考の全てを理解し、動けるわけではないのだ。僅かな挙動が信繁を逆撫でしかねない。故に、信之は独りで行くのである。
「御免」
ゆっくりと襖を開けた。簡素な、仄かに檜の香る部屋であった。幼少期を過ごしてきた、岩櫃城を彷彿とさせる……。
「兄上」
だから、弁丸――源次郎信繁がそこにいる事も、ごく自然に思えた。信之は悟った。自分は弟に気を遣われたのだと。
「お久しうございまする」
「息災であったか」
「この通りにございまする」
「飯は食っておるか。早寝早起きを心掛けておるか。諸将と諍いは起きておらぬか」
「兄上……」
「あっ」
こんなに平常を失った自分に出会った事に気づき、信之は息を整える。だが、整えても整えても、込み上げてくるものが疎ましい。
――しっかりしろ。俺は兄である前に、大御所の使者ぞ!
思い切り太腿をつねる。何とか話せる状態になったところで、赤い眼の信之が切り出す。
「此度、お前がした事の重大さは自覚しておろうな」
「重々承知にございます」
「お前のした事は、真田家にとって益無き事。大御所様も当初はお怒りでござった。されど、今となっては戦は終わっておる」
「……」
「大御所様はお前を買っておられる。十万石の大名に取り立てるとの仰せだ」
これは信之の嘘であった。だが、信繁が許されれば、自分は喜んで十万石の領地を割く。その覚悟もまたあった事は間違いない。
しかし、信繁の眉間に皺が寄る。
「兄上。本当に戦が終わったと、本心から御思いか?」
「ああ」
「兄上らしくもない。常に大局を見、機を見て敏。それが真田でございましょう」
「何が言いたい?」
「兄上は某を甘く見ていると申しておるのです」
――やはり、口八丁で騙せる相手ではないか。
つまり信繁は、先の和睦が形だけのものである事を知っているのである。必ず来る再戦のために、家康が大坂の戦力を削ぎに来ている。その事を確信しているのだ。
信之は視点を変えることにした。
「なるほど、かつての弁丸ではないらしい」
「試したのですか」
「そうだ。ここからは、対等な立場で話をしよう。信繁殿」
「むっ」
信之は、弟としての信繁を突き放した。徳川方の武将と、豊臣方の武将とで話をつけようと考えたのだ。しかしそれならば、使者が信之である必要が無いのだが……。
「まず、豊臣方の利を説かせてもらう。貴殿が徳川方に付くことによって、現在水面下で火が着きかけている豊臣征伐を回避する事ができる。片桐且元に代わって、貴殿が調停役となるからじゃ」
「……それで」
「その為にはその役目に合う格が要される。されば豊家六十五万石から五万石、徳川四百万石から五万石の領地を拝領し、十万石の大名に任命してもらう。さすれば、豊徳両方の家臣となる。即ち橋だ」
「橋?」
「形だけとは言え和睦は成ったのだ。されば豊家側が口実を与えなければ、一つの家として存続できる。片桐殿はしくじったが、信繁殿ならば必ずできる!」
言い切った信之の剣幕を見て、信繁はおかしくなって笑う。
「……ふふっ」
「何がおかしい」
「これが笑わずにいられましょうや? 私を侮っている兄上が、私に信を置くと申される」
「何を? 偽らざる本音だ。 対等に話をすると申したであろうが!」
「兄上は対等な目線など持ってはいない。某のみ救おう等と、虫のいい話だと思いませぬか?」
「誰がッ……! 誰がお前などを救おうと思うものか! 己惚れるな阿呆!」
信之は心中を覗かれた想いだった。弟に対する怒りが頭を支配しかける。だが寸でのところで脳内を立て直す。失敗はできないのだ。ここで切れてしまっては、目の前の人間が死ぬ。
――大丈夫。弁丸など、口で俺に敵う筈がないのだ。落ち着け、他愛ない事、造作もない事……。
「兄上、昔の話を致しましょうか」
「は?」
「吾妻川で色々な事を話し申した」
「ああ……そうであったな」
信繁に、話題の選定を先んじられた。信之の体が発汗を望んでいる。
「勝頼様の所へ、人質に行く前の兄上は天下に名を轟かせる武人になるのだと、そう言っておられた」
「そうであったかな」
「故に私も、その心意気に応える武力を身に着けるため励んだのです。しかし新府から戻って来て、兄上は変わられた」
「何も変わってなどおらぬ」
「御家が第一、沈黙こそが妙手、黒子に徹せよ。そう言う様になられた」
「大人になったという事だ」
「それは違う。兄上は、今の某を羨ましがっている」
「馬鹿を申せ」
「ならば何故、関ヶ原で三成殿を討たれた!」
「阿呆が、まだ分からぬか! 真田家と本多家を守るための最善の策であろうがッ!!!」
「大谷家を滅ぼしたのもまた、兄上ではございませぬか!」
剣幕の後に続く静寂の中で、二人の眼光が激しくぶつかり合う。が、信之はここで気づく。信繁は一人では無い事に。
「父上の御様子はどうだ?」
「父上は逝きましてございます」
「これ以上謀られる俺だと思うのか?」
「本当の事にございます」
なるほど、と信之は得心する。今までの信繁らしからぬ会話術、昌幸に仕込まれた物だったのだ。決して兄に丸め込まれぬように、策を授かってきているのだ。もはや信繁を言いくるめることは出来ない。信繁はきっと、自らの本心を吐露する事を固く禁じているからである。
よって、打つべき手はもう一つしかなかった。
「もう良い。俺の負けだ」
「何と?」
「何を言おうが、お前の心は動かされんらしい。ならば、俺はもう何も言わぬ」
「兄上、私は……」
「だから」
信繁は一瞬の隙を突かれた。信之は懐に仕込んだ短刀を取り出し、自らの頸動脈に押し当てた。
「兄上!」
「お前と、戦場で相対するわけにはいかぬのだ。 頼む、弁丸! 大坂を出てはくれまいか!」
「卑怯でございます!」
「そう、俺は比興だ! お前は誰よりも知っているはずだ。俺は斯様な、器量の狭い男だとな。だが、何が悲しくて兄弟同士が戦わねばならぬ! 俺はお前も救うために、関ヶ原に行ったのだ!」
「兄上……!」
――気づけ! 最もお前を必要としているのは誰だ!
ここから先は喋れない。信之は必至に念じた。眼で弟に問うた。信繁は拳を畳に圧しつけ、歯を食いしばって何かと必死に闘っている。その口を開かせた時が、信之の勝利の瞬間である。
はずだった。
「兄上、お許し下さい」
「なっ……」
信繁もまた、どこからともなく取り出した短刀を、首筋に押し当てた。動揺したのは、先手を取ったはずの信之である。状況は五分となった。これ以上なく混沌とした五分五分である。
「貴様ッ!」
「お収め下さい。でなければ私が先に掻っ切りまする!」
「お前がやめろ! 俺が臆すると思うのか!」
「兄上こそ、某を侮り召されるな! 某も歳を取り申した。今や、覚悟はこの日ノ本の誰よりもございます!」
「信繁ぇぇッ!」
「兄上!」
それぞれが性質の違う眼でお互いを睨みつける。膠着状態のまま四半刻、半刻と時が過ぎる。着飾った正装は、もはや緊張から来る汗で変色してしまっていた。二人はもう、肩で息をしている。
そして先に刃を降ろしたのは……。信之であった。
「糞……餓鬼が……」
信之が短刀を落とすのを見て、信繁もぐったりと腕を下げる。そのまま短刀を前方に置くと、再び喋り始めた。
「誓いを覚えておいででしょうか」
「何の事だ」
「吾妻川で、昔交し申した。私が武功を求め、真田家にとって不利益な行いをした時には」
「……覚えておらぬ」
「兄上の介錯の元、私は自ら責任を取ると」
「……」
「最後の機会でござる。兄上ならば、私は抵抗いたしませぬ。この六文銭に誓って、そう言えまする」
信繁は着物をはだけさせ、腹を出した。改めて短刀の前に着座して、眼を閉じる。大坂は出ない。しかし、死ならば甘んじて受け入れてやる。信繁はそう言っている。
「そうすればお前も、俺も、楽になる。そういう事か」
「……」
「楽な道とは、総じてツケが来る。俺は弟殺しの汚名と、お前の怨霊を死ぬまで拭えんのは御免だ」
「……それでよろしいのでございますか」
「…………」
信之は無言で、襖の向こうへ消えた。聴こえはしなかったが、二人は同時に口を開いた。
「兄上……」
「信繁……」
――もっと話がしたかった。
この日、兄弟の道は真っ二つに分かれた。もう、望んだ道へ逃れる事は出来ない。
次は土~日曜日です。




