第八十話 政宗の挙動
「『仮病なのは分かっている。取り潰されたくなければ駿府に参上せよ』との事でございます」
「心外な。殿は仮病ではござらぬ」
「しかと伝えましたぞ。御免」
「チッ……」
信之の居城・上田城に使者がやって来たのは、大坂で和睦がなった後、二月の事であった。信之にしてみれば、遂に最後通牒が来た、といったところだった。
信之が駿府に呼び出される理由は、一つしかない。信繁の事である。
「おい、どうするのだ」
「これを、殿にお知らせすれば、大坂で信繁様と相見える事になるのでは……」
「だが、伝えぬわけにもいくまい。だが、ご兄弟でそれは……うぅむ」
「これ、何をしておるのです!」
伝言への対応に迷った家臣達を、凛とした声がビクつかせる。裾を引き摺って迫って来るのは、真田家の大黒柱・小松である。
「どの様な事であろうと、判断は殿がなさる。家臣は委ね、命を待つ者じゃ。早う伝えなされ」
「されど……」
「えぇい、書状を寄越せ! 私が持っていく!」
「お、奥方様!」
「五月蠅い!」
強引に書状をブン取り、いざ行かんと振り返った小松は、その場に立ちすくんで赤面した。
「だ、ダンナ。居るなら居ると……」
「其の方の猛り声で起こされた。相変わらず男勝りよ」
「ふぐっ……」
「さぁ、戻るぞ。俺は病気だからな」
信之は小松の肩を抱いて、居室に戻って行った。その気丈に振る舞う様は、なおも家臣の胸を傷めつけているとも知らずに。
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「信繁め、やはり働き過ぎた様だ。俺も、もう信濃に籠っておるわけにはいかぬな」
「ダンナは病じゃ。気兼ねなく寝ておればよいではありませぬか」
「もう良い、小松。これ以上は、本多家にまで迷惑がかかる」
「私は真田の嫁。ダンナの足かせになると言うなら、この場で果てまする」
「阿呆、余計に足枷になるわ」
「余計にって、やはり私が足枷なのじゃな!?」
「そんな事は言っておらぬ」
「なら、私が直々に大御所に会いに行って、談判致しまする!」
「いい加減にしろッ!」
信之は、小松の頬を思い切り張った。この世で最も美しいと思う物を殴った。『痛かった』。
「お前程の女人なら分かっている筈であろう。ここは女の出る幕ではない」
「それでも! ダンナがこれ以上すり減って、無くなってしまうくらいなら」
「小松……」
「私は上田合戦の折、沼田城を見事守って見せ申した。私は戦えるのに! ああ、自分が女人である事をこれほど悔しく思うた事はございませぬ!」
過呼吸を起こしそうなほど猛る妻の口を、信之の胸板がスッポリと覆い尽くした。
「ありがとう。心配せずとも良い。儂はきっと、信繁を説得して戻って来る。仏門にでも入れば、あ奴も余生を使い切れる」
「本当に?」
「ああ、お前の考え過ぎよ。だが、お前を娶って本当に良かった」
力強く抱きしめ小松を落ち着かせると、信之は駿府行きの準備を始めた。内心は、この愛妻の元へ次に戻るとき、自分はどんなにすり減っているだろうと思いながら。
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「よう参ったのう弾正。久しく見なかった気がするぞ」
「申し訳ございませぬ」
「具合が優れなかったなら仕方があるまい。そちの家臣達も頑張った様であるしの」
「何の功績も残せませんで」
「いやいや、あの前田慶次郎……死なすには惜しい男であった。真田の徳川への忠義、あの者が示してくれたな」
「前田家は何と?」
「案ずるな。あれで真田丸の威もいくらか落ちたでな。面目を保てたと感謝しておったぞ」
信之は慶次郎には、頭の下がる思いだった。現実に生きていたら、そういう事を最も煙たがる男であるし、信之もそうはしなかっただろう。亡くなった今だからこそ、存分に頭を下げられる。不思議な感覚であった。
「儂も二度しかあっておらぬが、良き漢であった」
「はい。誇るべき友でございました」
「そうだ。縁とは大切にせねばな……御二方、入られよ」
襖の開く音と共に、二人の若人が入室して来た。信之にはまるで見覚えのない二人だったが……。
「覚えておるか。お主が関ヶ原で見事撃退した小早川の家老じゃ」
「家老?」
「稲葉正成、平岡頼勝。今は小早川を離れ、この儂が扶持を与えておる」
『健やかに』
信之は秀包の最期が頭を過り、脈拍が高まった。
「いずれは、こやつらも大名にする。大仕事をしてもらうからのう」
「大仕事?」
「小早川秀秋を、徳川方に寝返らせる」
「できますまい」
「何?」
「志賀親次。彼奴がいる限り」
信之は親次の有能さ、頭の回転の速さを宗茂から聞いていた。その点に関しては自分以上であると、あの宗茂に言わしめた武将である。秀秋が舵取りを間違えれば、直ぐに取り直すであろう。
「その親次は、宗茂を遣わす」
「何と!?」
「この二人がここにおる理由が分かるか? 関ヶ原の折にとっておいたこやつらの身内を、未だ殺さずにとっておいたからよ」
「身内……」
「そう、身内じゃ。分かっておるのう」
「信繁の懐柔、でございますな」
家康は察しが早くて助かる、と言いたげであった。
「標的は直江兼続、そして秀頼じゃ。後の者は懐柔で済ます」
「弟は動きませぬ」
「お主が行って駄目なら、諦める」
信之は更に察した。家康が大坂の力を弱めるために、信繁を懐柔させるのではない。これは信之に与えられた最後の好機なのである。これで駄目なら、信繁の命は……。
「どうする、弾正」
「誠心誠意、御役目を務めまする。然らば、大坂へ赴き」
「待て」
「……」
触れられたくない部分に触れられる。その予感が体に走る。
「兼続は、自陣に『軍師』がおると申したそうじゃ」
「『軍師』?」
「其の方、儂に隠している事は無いか」
「ございませぬ」
嘘はついていない。昌幸が生きているなど、自分と頼康の妄想に過ぎないのだから。だが、あの防衛戦の経過は、まさしく昌幸の戦い方であった。
「……深くは聞かないでおこう。だが、その『軍師』を引き抜けたなら、そちの位は一つ上がる。それほどの功績ぞ」
「……ははっ」
******
到着が夕方になってしまったため、その日は駿府に逗留する事となった信之は、人払いをしてから深く溜息をつく。畳の上での駆け引きは慣れたものだが、どうにも寿命を縮められる。
――弟を救う、最後の機会か……。
失敗は許されない。負ければ、最愛の弟は死ぬのだ。だが、一度身の振り方を決めたら梃子でも動かないのが信繁だった。器用な生き方は出来ない男なのだ。
昔から必要以上に聡くなるのを嫌い、信義にしたがって生きる頑固者。大局が見えないのではなく、目の前の事が見えすぎる。だが信之は思う。むしろ、自分が身近な者をおろそかにしてはいなかっただろうか。信繁の本当の望みから、眼を逸らしてはいなかっただろうか。
『お前は何者になる』
『武名を所望』
幼少の頃、夢を語るその姿は真っ直ぐ伸びる苗木の様。だがその武名でさえ、今迄信繁は信之に遠く及ばなかった。昌幸と信之で、ほとんどの問題を解決してきたせいで、出番が回らなかった。ならばその最期は、大戦で散らすのが戦国武将の華……。
昌幸がいるのなら、尚更焚き付けているだろう。この状況をひっくり返すには、もはや情に縋るしかない。
――命を賭けよう。みっともない話だが、信繁を救えるなら……。
「殿、よろしうございますか」
「なんだ」
共をした小姓が、障子越しに声をかける。
「伊達政宗様がお見えでございます」
「政宗が? ……分かった、通せ」
政宗も、偶然にも駿府に来ていたらしい。二人の連れの影が見える。一人は片倉重長だと分かったが、もう一人は見覚えがない。
「驚いたか、弾正」
「ああ」
「儂もそなたが駿府に来ているとは思わなかった。せっかくだから酒でもと」
「驚いたのは、お前の背後にいる異国人よ」
信之の視線は政宗の背後に向けられていた。政宗はしてやったりの大笑いをしている。
「ウィリアム・アダムス……今は三浦按針と名を改めた。そちも豊後に漂着した大船の事は知っておろう」
「あの『りいふで号』とやらに乗っていた者か!」
「キリスト教の宣教師に殺されそうになったのを、心の広い大御所が助けて下さったわけだ。ちょうど駿府に来ていた故、お主にも会わせてやろうと思うてな」
「三浦按針と申しまス」
片言ではあるが、意思の疎通が可能であることに信之は感動した。その佇まいも、異国からの漂流人とは思えないほど武士然としている。
「小十郎。持って来た酒をくれ」
「これに」
「奥州の酒だ。明日には立つのだろう? 今夜は按針殿と共に、見聞を広めぬか」
「……まぁ、良いだろう」
「ありがたキ幸セ」
宴は大いに盛り上がった。重い任務を背負った信之には、一服の清涼剤となる有意義な飲み会であった。
「そうだ弾正、あれを見せてやれ」
「あれ?」
「持っているのだろう、六文銭。真田家の象徴だと教えてやったが、按針殿は首を傾げるばかりでの」
「まぁ、異国の者には分からんだろう」
信之は懐から、紐に連ねた六文を取り出した。按針は手に取り、事細かに調べたが、やがて普通の永楽通宝だと分かって信之に返上した。
「特別な物でハありませんネ。これハ何のためニ?」
「冥府、三途の川を渡るときの通行料だ」
「メイフ?」
「有体に申せば、死後の世だ。儂の祖父は、一度滅亡の憂き目にあった。だが甲斐武田家の力を得て復活し、数多くの城を落した。それ以降この六文を身に着けている限り、死を恐れる事は無いという精神が真田の家訓となったのじゃ」
「死後ノ世界……あア、ハデスの事ですネ」
「ハデス?」
聴きなれない響きに信之が首を捻る。どうやら異国語らしい。
「私の国エゲレスの神話でハ、死後の世界をハデスと呼びまス。なるほド、死後の世へ行くための通行料、ハデスの六文銭ですカ」
「ぎゃっはは、それは珍妙な響きだのぉ」
信之は六文の精神を馬鹿にされた様な気がしてムッとしたが、せっかくの交友の場を険悪にするのも何なので大人しくしておくことにした。自分が酒乱でなくてよかった、と体質に感謝する。
「私はそろそろ失礼しまス。明日、平戸へ立たなけれバならぬのデ」
「そうか。二代目小十郎、送ってやれ」
「二代目はお止めください。しかし殿は?」
「儂はもう少し信之殿と語る故……な?」
「はぁ」
重長と按針が出て行くと、政宗は信之に密着した。そして信之は悟る。政宗は企みがあって来たのだと。
「お主、按針を連れて来たのは大御所様を欺くためか」
「そこまで分かっておるのなら話が早い。お主は、真田信繁と通じておるのか」
「信繁は敵だ。今はそうとしか言えぬ」
「よく言うわ。お主が使者となるのだろう?」
政宗は家康の行動を読んでいたらしい。家康が信之に託した事をピタリと言い当てた。
「宗茂とお主なら、確かに成功するかもしれぬなぁ」
「俺は何も言われてはおらぬ」
「その反応が何よりの証よ。まぁ良い、単刀直入に言おう。お主と儂、そして大坂城の信繁が組み、天下を乗っ取らぬか」
「はぁ?」
政宗の眼が爛爛と燃えている。冗談の様な話だが、冗談を言っている眼ではなかった。
「儂は大御所の側に陣を敷く。数は五千から一万といったところだ。だが、大御所は儂を信用しておらぬ。だから、信のおける者を必ず近くに置く。六十万石の伊達に対抗しうる親徳川の大名と言えば……」
「真田だと言うのか」
「御名答。信濃四十万石、しかも率いるのは『信濃の獅子』真田信之じゃ。まともに当たれば伊達も危ういのぉ」
「否定はせぬ」
「そこは否定せぬか」
政宗は咳払いをして、話を戻す。だが、戻すまでもなく信之には全貌が見えた。
「追い詰められた信繁が大御所様の本陣へ特攻する。本来なら我ら二人が死守するところを、踵を返して本陣を攻撃する。虚を突かれた大御所様は成す術もなく……か?」
「お前凄いな。そこまで読めるのか」
「幼稚な策だ」
「だが究極の策であろう。失敗の可能性は無い。相手が徳川家康と言えど、この策は防げまい。そして混乱しきった将軍家を、我らが悠々と討つのだ」
「阿呆が」
「無礼な。どこが阿呆か」
信之は政宗の胸倉を掴む。その形相は奥州王・政宗をもたじろがせた。
「確かに成功はするやもしれぬ。だがその後の日ノ本は誰が治める。ようやく乱世が終焉を迎える所を、貴様の私利私欲でかき乱す気か」
信之が家康についた一番の理由である。秀吉にも、十分それが出来たが唐入りを始めとする晩節の汚しぶりを見るに、やはり徳川家康こそ天下の器。豊家は天下のためにも滅ぶべきと考えていた。
その豊家との決戦を、政宗に邪魔をされたのでは堪らない。だが政宗にも信念があった。
「誰が治めるだと? この政宗に決まっておろうが!」
「何だと!?」
「儂は父を殺してまで、奥州に覇を唱えた。生まれる時代がもう少し早かったならば、太閤が台頭する前に、儂が天下をとっておったのじゃ!」
「阿呆、デカい声を出すな!」
「儂こそが、天下人の器! 異国との交流の準備も進めておる。戦の無くなった世の中で最も上手くやれるのは、この儂ぞ!」
信之は突き飛ばされた。物理的に掌底を喰らったのか、政宗の気迫に圧されたのか……ともかく後退させられた。政宗の執念が、ヒシヒシと信之に伝わる。
「石田治部少輔の無念、晴らすは今ではないのか!」
「ッ……!」
三成の名前を出された信之の心は、僅かにざわめいた。だが、家康を裏切る気など毛頭ない。
「お主と俺の仲だ。ここだけの話にしておいてやる」
「この話を、左衛門佐信繁に伝えてくれるだけで良いのだ。頼む!」
「政宗ッ!」
「獅子には、お主には本来、牙が備わっておるはずじゃ!」
「……帰れ」
政宗の去った後で、信之は一人、物思いにふける。
――思えば、俺の周りは凄い奴ばかりじゃった。信繁、父上、慶次郎、周防、兼続、忠勝、三成、宗茂、政宗……それに小松。
信之は思う所あって、庭に出て大の字に寝そべった。
「――大物め」
信之は懐から、ハデスの六文銭を取り出し夜空に掲げた。もう一つの持ち主との対面が、直ぐそこにまで迫っていた。




