第七十七話 敗着の一手
大坂の陣勃発から、遡る事一年前の事である。
「真田左衛門佐から兵糧だと?」
「はっ。しかし、その……たったの十俵足らずで」
秀頼は、一瞬緊張した肩の筋肉が解れる感覚を味わっていた。俗にいう拍子抜けというやつである。
「ふぅ……いくら一所懸命に文を書いたとて、我へ届く吉報はこの程度のものよ、な……」
諸大名からの返事が一切届かない、閑古鳥の鳴く大坂で秀頼は途方に暮れていた。福島正則の物資搬入の助け以外には、所領を持つ大名からの助けは一切なかったのである。
――父の威光が、永劫続くと思っておった。これが我への罰、なのであろう……。
「如何なさいまするか。真田の使いを待たせておりまするが」
「通せ。数少ない客じゃ、丁重に持て成してやろうではないか。『金銀だけは』たんまりとあるでな……」
秀頼の謁見を許された使者は佐助であった。
「拝謁に預かり恐悦至極。真田左衛門佐が家臣・佐助にございます。秀頼君におかれましては、御健勝の程喜ばしく思いまする」
「うむ、苦しうない。面を上げよ」
「はっ。では失礼して……」
しかし佐助は何を思ったか、後ろに控えてある兵糧に向かって走り、縄を解き始めた。このままでは殿中に米が飛び散る大惨事となってしまう。あわてて大野治長が止めに入る。
「無礼者! 真田の山猿は作法も知らぬのか!」
――ザッ、ザァァァ……。
「ああ、何と言う事……を!?」
が、抵抗した佐助は遂に米俵を開帳してしまう。そこから現れたのは、青白い顔をした老人であった。
「大殿、無事にございまするか」
「ゲホッ……佐助、ようやってくれたのう。流石は、信繁の忍じゃ」
「有難きお言葉」
佐助を押しのけ着座した老人は、力を振り絞って名乗りを上げる。
「お初にお目にかかり申す。『豊臣家臣』、真田安房守昌幸にございまする」
「さ、真田昌幸!?」
徳川を相手に、一度は倍の、二度目は十倍の戦力差を跳ね返した軍神が、今目の前にいる……。秀頼の心は、メトロノームの様に揺れた。
「まこと……まことに昌幸か!?」
「馬鹿な! 真田昌幸は九度山で病死したと、先だって報があったばかりぞ!」
治長の啖呵に首を振る昌幸。
「かろうじて、生きてございまする。この大坂にはせ参じたい、その一心で……」
「……何用であるか」
昌幸は秀頼の手を握った。不敬であるが、その眼からはこれ以上ない敬意がこもっている様に、少なくとも秀頼には見えた。
「死に場所を、所望致しまする」
豊臣秀頼の軍師・伝心の誕生であった。
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「家康の陣が手薄に?」
「はっ。藤堂の人垣が厚くなり、間違いなく本陣は貧弱にございまする!」
「ふむ……」
時は戻って大坂の陣。南部を守る長宗我部盛親・大谷吉治らに届いたその報告は、諸将の頭に同じ案を浮かばせた。これは味方の来ない籠城戦。最終目的は、有利な条件での和睦であるのだが……。
――家康を討ち取れるなら、それに越した事はない。
それが簡単でない事は重々承知である。だが戦とは、乾坤一擲に勝利が宿る事もまた、確かであった。藤堂の部隊は明らかに万を超えている。ならば今、家康の元にいるのはたかだか数千。当たれば名将、しくじれば愚将。『抜け駆け』の機を、本人たちも知らぬうちに彼らが伺っていたのである。しかも、目の前の藤堂軍は数こそ揃っているものの、関ヶ原とは比べ物にならない弱兵であった。
さらにその後ろに控える伊達軍は、明らかに西に寄っている。今抜け駆けすれば、それに対応できるとは思えない。
「行くか?」
「行けるか」
「行ける……機さえ逃さなければ」
そして、藤堂高虎の兵が、何度目か分からない射撃を喰らった、その瞬間であった。
「今だ、藤堂の横をぬけぇぇ!」
大谷吉治ら3000が、遂に抜け駆けを敢行した。さらに後続に、隊列から離脱した千人あまりが続く。明日の見えない籠城からの抜け駆けであった。
「殿、大谷が我らを抜いて本陣へ!」
「良い。行かせておけ。我らは長宗我部を警戒する」
「と、殿!? 大御所様の危機にございまするぞ! またしても大谷に情けを?」
高虎の鉄拳が飛ぶ。
「たわけ。お主は何も分かっておらぬ」
吉治を見逃した高虎の顔には、憐れみすら垣間見られた。
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「大谷が抜け駆けだと!?」
昌幸の元へ伝令が届いた頃には、既に指揮系統は混乱していた。功名心に駆られた南側の有象無象が、「次に抜け駆けするのは俺だ!」と言わんばかりに乱心している。
だが、昌幸が案じたのはそれだけでは無かった。
「いかん、これは家康の策じゃ! 吉治を呼び戻せ!」
「無理にございます、既に茶臼山付近まで兵4000を進めてしまい……」
「愚か者めが! 本当に、本当に家康が本陣を手薄にしたと思うのか!」
「は……?」
――このままでは、我らは南から負ける!
「ガハッ!?」
「ま、昌幸! 誰かある! 伝心に薬を持て!」
「秀頼様……お気遣い……なく……」
昌幸は朦朧とする意識の中で、敗着の一手を悟った。
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「殿、大谷吉治が動きましてございます!」
「来たか! して、数は?」
「ざっと、三、四千かと」
「はぁ……!?」
茶臼山の麓、安井天神から大きく西に布陣していた伊達政宗は、その報告に唖然とした。
「本陣は『二万』だぞ? 何故そんな尖兵で突撃するのだ。 二代目小十郎、どう見る」
「さぁ……この重長にも分かりかねまする」
「暗愚だという事なのか? これに乗じて家康を討てるかと思ったが……話にならんな。またの機会としよう」
「殿! 御戯れを」
「分かっておるわ! 重長、本陣に援軍を差し向けよ。数は二千で十分だ」
「御意に」
はぁ、と溜息を吐きながら政宗は茶臼山を見やる。彼には、これも家康の策である事が薄々分かっていた。
――狸めが。これでは大谷は犬死であろうの。刑部少輔も浮かばれぬわ。
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「何だとぉ!?」
親の仇、家康の首を獲る。それは旧領回復、そして亡き父への手向けとなる栄光の一手のはずだった。だが現実は、茶臼山に進軍した大谷吉治を絶望へ追い込んだ。藤堂の兵力増強は、明らかに本陣からなされた物であった。にも関わらず……本陣の兵は全く減っていなかった。どう見ても二万はいる。
「そ、そんな馬鹿な! 斥候の誤報か!?」
「いえ、本陣からの援軍は間違いなく……」
「なら何故、本陣の数が合わんのか!」
混乱した吉治に、家康本陣の精鋭が迫る。その歩兵の装備を見て、ようやく吉治は得心した。
――武具を……つけておらぬだと!?
藤堂の兵があまりに弱い時点で気づくべきだった。増強された兵力は、本陣から出た兵では無い。大方、受け入れ先の避難民に銭を撒いて出兵させたのだ。防具をつけて送り出し、金物で人数を多く見せ、援軍の数を誤魔化したに違いない。
つまり、本陣にいるのは無傷の大軍で間違いない。気づいてしまえば、余りに稚拙な仕掛けであった。だが、それにつられるのもまた功名心に駆られる若い武将であると、家康は知っていたのである。
「終わったな。我らはまんまと家康に釣り出されたわけじゃ」
「殿! 諦めてはなりませぬ」
「者ども、死を覚悟せよ。良いか、後続にも抜け駆けの兵は折る筈。そ奴らを無駄死にさせぬ為にも、少しでも本陣の兵を削ぐ」
「撤退を!」
「ならぬ! 我らは、義臣たる大谷はここで死ぬる! 命知らずの武者共よ、この吉治に続けぇぇ!」
退路を自ら断った吉治は、烏合の衆に過ぎない浪人兵の先頭に立ち、五段構えの本陣へ突っ込んだ。
――父上も、恐らくはこの様に……。
判断を誤った一生であったとしても、その散り際にはずっと拘り、考えて来た。五段構えの一段を破ったところで、援軍に来た片倉重長に挟まれ、大谷軍は四散、壊滅した……。
大谷吉継の息子にして、真田信繁の義弟・大谷吉治。享年三十三。
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「南が乱れだしただと?」
「大谷軍が壊滅したそうにございます。大将の吉治は討死との事」
「大谷……関ヶ原では、一番の強兵だったはずだが」
直江軍に攻撃を続ける頼康の元へ、吉治討死の連絡が入る。一瞬、信繁の心中を心配した頼康であったが、パンパン、と頬を叩くと再び陣頭指揮を執り始める。
「南が崩れれば、直江兼続も今まで通りには行かぬはず。攻め手を緩めるな!」
「オオオッ!」
昌幸の存在を確信している頼康は、これ大坂方に付け入る最初で最後の好機であると考えていた。ここで東を崩せば、北を攻めるは本多忠政と立花宗茂である。あの二人なら北の攻略も可能である事を、頼康は身をもって知っている。その為にも、味方の統率を今一度整えておこうと、部隊長である慶次郎に声をかける。
「慶次郎、努々《ゆめゆめ》抜け駆けはならぬぞ……む、奴は何処に」
「と、殿ぉぉっ!」
「如何した、慶次郎は何処じゃ」
「け、慶次郎殿が……五百騎を連れて前田の援軍に行かれましたぁぁッ」
「は、はぁぁぁ!?」
ただただ、仰天するしかなかった。頼康には、慶次郎の考えが全く読めなかった。
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「利常殿ー! 久しゅうござるのー」
「貴殿はけ、慶次郎殿!? 何故、ここに?」
篠山の前田利常もまた仰天していた。頼んでもいないのに真田が一番厄介な男を援軍に寄越してきたのだから、当然である。
「なんじゃなんじゃ、加賀百万石の大名と言っても我らは従兄弟ではないか。快く援軍を迎えてくれ」
「は、はぁ……」
年が五十近くも離れた従兄弟の登場に、若い利常はタジタジであった。以前に数度、会った事はあったし慶次郎の一族は今も加賀で保護している。関わりがあると言えばあるのだが……。
「何用だ、慶次郎殿」
「おお、これは元直江家の政重殿。左衛門佐にこっぴどくやられた様ですな」
「貴様!」
これまた上杉時代の顔見知りである本多政重が鞘に手を掛けたところを、利常が諌める。失態を犯した手前、政重も強くは出られなかった。利常は、慶次郎の老体からただならぬ決意を汲取り、眼を見て話す。
「話を聞こうぞ」
「単刀直入に言おう。もう一度、真田丸へ攻め込みませぬか?」
「何……?」
慶次郎の眼は、年に似合わず爛爛と光っていた。
続きは来週です




