第七十六話 謀将再臨
城内こそが死の間。唯一逃げ口となっている南に真田丸を築き、木津川の守りを固くし南西からは近寄らせない。そして他の門の前衛を敢えて薄くし、近づいた所を伏兵が捉える……。
豊臣軍の指揮に、東軍はかき回されていた。傍観している上杉、伊達は別として、善戦を続けるのは立花宗茂や藤堂高虎ぐらいであった。しかし、それも飽く迄『善戦』である。数で圧倒するはずだった徳川方にとって、兼続の策略による大坂の増強は重ね重ね痛手だった。
「という次第にございまする」
「ご苦労だった。誰かある! 才蔵に水を」
出浦盛清が前線に出なくなった後、才蔵は僅かではあるが吾妻忍の一部を統括している。にも関わらず、伝令役を買って出るのは大坂と信濃、即ち信繁と信之の両方が気になるからである。
「……才蔵」
「はっ」
茶碗に注がれた水をグイと飲みほすと、才蔵が平伏する。信之は真剣な眼差しで大坂城の周辺図を指さす。
「おかしくはないか。大坂城は自然と堀を利用した堅城中の堅城。勾配も急なために侵入は容易ではない。にも関わらず、南と西以外は敢えて城内に誘い込むやり方をとっているではないか」
「はぁ、確かに」
「……まさかとは思うが」
「殿!」
信之を才蔵が大声で制する。
「殿は御病気の筈。斯様にピンピンなされては不味かろうかと。徳川に知れたら」
「む……分かっておる」
「では、これにて」
才蔵は逃げる様に去って行った。才蔵と入れ違いに、小松が居間に入って来る。
「徳川は、苦戦の様ですが?」
「ああ。頼康も慶次郎も、いわんや息子らも。何の手柄も挙げられんそうじゃ」
「忠朝も、散々だったそうですね。あの子は全く、私が着いていないとすぐこれじゃ……」
忠朝は酒を飲んだところを敵の奇襲を受け、敢え無く敗走に追い込まれていた。家康の叱責も受けたらしかった。
「弟には、お互いに苦労させられるな」
「はい。されど苦労を掛けさせられるのは、生きている証であり……」
「……」
二人は黙り込んでしまった。そう、今敵味方に分かれて戦っているのは、二人の弟同士なのである。どちらかが……或は両方が命を落とす可能性がある。
「信繁は、俺の中ではもう死んだ。『信繁』という名を授かっておきながら家を潰す様な輩となったのだ。もう死んだと言っても過言では無かろう」
「されど、まだ生きておりまする」
「死んだのだ。出丸を使って大層なご活躍らしいが、俺は僅かなりとも嬉しくは無い。本当だ」
それでも、小松の前で隠し事は出来なかった。もはや日ノ本が信繁を認め始めている事、その事が信之の頭の中を複雑にしているという事に、気づかない小松ではなかった。密かなる祈りを、戦地の弟へ送る。
――出来れば、ダンナの出陣まで窮せずに、戦を終わらせて欲しい。忠政、忠朝……。
そして信之の胸には、才蔵の報告から端を発して、嫌な予感がよぎっていた。
――まさか。そんな事はない筈だ。俺の見当違いに決まっている……。
******
「伊達に動けと言え!」
「再三願い出てはおるのですが……」
「若僧が……」
大坂では、十一月末になっても攻め手を欠いている徳川軍がいた。大坂方は敢えて城内に誘い込む作戦も最早使わず、城外の野戦ですら勝利を増やしつつあった。
伊達・上杉の無気力試合がそれに拍車をかける。上杉軍は直江兼続と相対する位置にいるため、それを言い訳にするつもりかもしれない。
「だからと言って、上杉を北に回してはならぬぞ。正純、監視の目を緩めるな」
「ははっ」
だがそんな家康の指示とは裏腹に、無情にも伝令が走って来る。
「申し上げます」
「苦しうない、申せ」
「う、上杉景勝殿、陣を北へ移動中! 強行され申したぁッ」
「阿呆ォォォォッ!!」
景勝は表だって内応……と言うより兼続の味方は出来ないため、東においておけばそのまま兼続の抑止力になるはずだった。しかし景勝は陣を北に移したと言う。つまり、東側は5000の大軍を失ったと同時に……。
「直江軍、東側へ奇襲! 伏兵を潜ませていた模様」
「だから言ったであろうが! 真田に迎撃させよ。良いか、家の存亡を賭けて戦えと伝えるのだ!」
「ははっ!」
徳川への雪辱に燃える兼続にとっては、信繁の実家がどうなろうが問題では無い。そしてそれを見越したこの奇襲作戦を立てたのは、秀頼の軍師・伝心であった……。
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『この俺に、景勝公と睨み合えと言うのか、御坊』
『ゲホッ……左様。直江殿が正面におる限り、上杉は仕掛けますまい。されど、家康はそれを良しとせず、景勝公に無理にでも動く様に命じるはず。さすれば上杉は……』
『北へ向かうか』
『その瞬間を突くのです。でなければ真田は……ゴホッ、矢沢頼康と前田利益は討てませぬ』
『胡散臭いな』
『乗るか乗らぬか、あなた様次第にございますれば』
『……』
兼続は策に乗った。東門に攻め入っていた軍は上杉景勝の戦線離脱により混乱、忽ち死傷者を多数生み出す。
「かかれぇッ、城攻めは数。その数を少しでも減らすのだぁ!」
「オオッ」
平野川を渡河した直江軍5000は、目の前の牧野・酒井ら徳川の精鋭部隊に真っ向勝負を仕掛ける。だが、隙を突かれた時点で部隊としては機能していないうえ、密集している事が仇となった。がっぷり四つに組んだかと思われたが、直ぐに直江軍が圧し出した。
「隊列を乱すなぁッ! おお、落ち着けぇい!」
二度の上田合戦の恐怖が徳川兵の足並みを乱す。その時も攻城戦、僅かに出来た隙を昌幸に突かれ続けて負けているのだ。そしてその心理を一人の僧に見抜かれ、また繰り返そうとしている。
「退くな、退くな! 意地の張り所ぞ!」
「チッ、止められたか」
倍の一万人の人垣を無理やり集め、徳川軍は直江軍の突進を受け止めた。これ以上増えれば逆に敗走の危険もあると見た兼続は転進し東門に戻ろうとする……が。
「何ッ!?」
後方を見やり度肝を抜かれる。姿を見せないと思った真田軍が、大きく北側に迂回して手薄となった東門に攻撃を仕掛けんと走っている。頼康は兼続の仕掛ける瞬間を見抜いていたのである。
「頼康に慶次郎……抜かったか!」
だが今すぐ背を向ければ、徳川兵に背後を突かれて全滅してしまう。退却するにも相手を怯ませてから、じっくり悠々と退くつもりだった。それすらも頼康の計算の内であった。頼康とて人質として、長い間を上杉家で過ごしてきた『身内』なのである。兼続の攻撃的な思考を多少は読む事が出来た。
東門の守り手は若い木村重成。父・矢沢頼綱と歴戦を共にしてきた頼康と比べると流石に経験の差がありすぎる。勝利を確信していた頼康だったが……。
「これは……全軍、足を止めよーッ」
「うわ!? 伏兵、伏兵だ!」
門の陰にさらに猛将・明石全登の伏兵が潜み、真田軍の横っ腹を突かんと左右か迫って来るではないか。兼続の先を読んだ頼康の、更に先を読んだ伏兵である。こうなっては個人技に頼りながら脱出するしかない。兼続が徳川軍を片付けて戻って来れば、一巻の終わりである。
「将を討ち取れ! 矢沢頼康を討てば、真田の士気は落ちようぞ!」
だが真田軍は劣勢での戦いしかしてこなかったためか、この事態にもさして慌てない。個人技では戦国有数の老人の存在がそうさせるのかもしれなかった。
「落ち着けよ、罠ならば……罠ごと食いちぎってしまえばええんじゃからのう!」
共に老いた愛馬・松風を駆り、慶次郎はその槍で一人、また一人と蹴散らしていく。首を狩る余裕までは無いが、七十過ぎとは思えない剛勇が窮地を救う。
「チィッ、息切れがしてきおった!」
真田軍は奮戦虚しく、既に百人近くが死傷している。だが彼らの犠牲のお蔭で、慎重策を取った全登・重成は一旦退いて行く。
「今だ、直江軍が戻ってくる前に撤退するぞ!」
「ははっ」
命からがら撤退する頼康は、ある人物の存在を確信する。
――不味い……この戦、負けるやもしれぬ。
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真田丸、木津川、そして平野川と、敗北を続ける徳川軍の気力は徐々に削がれて行った。家康は焦っていた。何れかの門を突破したと言う情報……吉報を届けなければ、この戦はもう続けられない。南門の藤堂高虎、北門の立花宗茂が頼りであったが、未だ連絡はない。伊達政宗は相変わらず、後方支援のみを続けている。
「……もう待てぬ。儂が直々に指揮を執るしかあるまい!」
「お待ち下され! 大御所様にもしもの事があったら」
「放さぬか正純ぃ! そういう時に備えて将軍職を譲ったのじゃ!」
「されど御身は」
家康はブンブンと腕を振り回して正純をド突く。慶次郎と同じく、七十過ぎとは思えない力強さであった。
「良いか。儂が生きておる内に、秀頼と大坂城だけは絶対に残してはならぬ。秀忠の圧力では、諸将を縛ることは出来ても動かせぬ」
「されど」
「されどされどと、賢しいわ若造が! 戦、戦で生きて来た儂じゃ。あの武田信玄以外、太閤含め唯の一人にも負けなかった儂じゃぞ!」
この戦が終わった後、自分は死ぬだろうという事は健康オタクの家康が誰よりも知っていた。だからこそ最後の最後に、後世に残る大戦を差配して圧倒的勝利を収める算段だった。
だが現実は理想と大きく乖離する物である。直江兼続と、恐らく存在するであろう謎の軍師というイレギュラーが、家康の理想をぶち壊した。
家康は基本的に、我慢の武将である。だが、ここ一番で黙って手を拱いているには、まだまだ悟りが足りないのである。三方ヶ原でも、小牧長久手でも、関ヶ原でも。立場が変わっても、結局は常に現場にいるのだ。
――この儂こそが、切り札よ。それを大坂に思い知らせてくれるわ!
「分かった、正純。儂は出ぬ。だがこの状況は変えるぞ。前線の高虎へ、本陣の『半分』を送れ」
「兵を……半分でございまするか!?」
「そうだ。行け!」
「は、ははぁッ」
家康の狙いは、分かり易く本陣を手薄にする事であった。
――さて、指揮官が嵌ってくれれば良いが。
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「数が……合わぬではないかぁッ! 物見は儂が算盤が出来ぬとでも思うたか!?」
「いえ、間違いございませぬ!」
長宗我部盛親と激戦を続ける高虎は憤っていた。大坂方は完全に攻撃を仕掛ける頃合いを読み、戦闘の無い各陣から兵を連れて来て水増ししている。そのため、攻撃を仕掛ける度に予想を超える人数と戦わねばならない徳川軍は士気を見る見る削がれて行くのである。
「誰だ……あの城には、一体誰がおるのだ!?」
その様子を櫓から見下ろすのは、秀頼と伝心であった。
「伝心様、伝令が戻りましてございます」
「ご苦労。混乱の続く東側は暫し長考するはず。明石全登の軍をこちらへ回せ」
「ははっ」
秀頼は、ただただ感服していた。相手の隙を突く戦術が、こんなにも防衛戦にはまるとは思っていなかったからである。父・豊臣秀吉は攻城戦の天才だが、果たして籠城戦ではこの男とどちらが上なのか……。
「いかがなされました、秀頼様……ぐ、ガハッ!?」
「伝心! 其の方、また血を吐いたのか!?」
「大事ございませぬ……それよりも家康め、藤堂に援軍を送った様にございます。流石に油断なりませぬな」
「少し休め。今はこちらが優勢なのであろう」
伝心は、今にも永眠しそうな虚ろな目で、秀頼に必死に訴える。
「とんでもない! 今の優勢など、四方の内一方でも落ちれば忽ち覆りまする。某が休んでは、勝ちはございませぬぞ」
幽鬼の様な、物言わせぬ迫力であった。もう彼の命は半分程度尽きている。だからこそ、天下の後継者たらんとする秀頼にも踏み入った発言が出来る。
「……すまぬ伝心。其方の命。我が貰い受ける」
「ゲフッ、有難きお言葉。元よりその覚悟でございまする」
「其方が、ここにいてくれて良かった……改めて礼を言うぞ伝心。否……」
身分を偽った学僧は、数年ぶりに我が名を聞いた。
「豊臣家臣・真田安房守昌幸よ」
次は来週です




