第七十一話 連なる訃報
「不都合はございませぬかな」
忠勝がこの世から去って数月。九度山に蟄居している昌幸と信繁は、ある人物に連れられて川釣りに来ていた。和歌山三十七万石、浅野幸長である。
「浅野様と、兄上のお蔭で不都合なく」
「左様でござるか」
幸長は昌幸達に、密かな物資援助を行っていた。好意である事は間違いないが、微妙な立場にいる浅野家の事。家康に親豊臣派の存在を見せつける意味もあるのかもしれない。
「それで? 家康と秀頼君、見えるのでございまするか?」
「安房守殿、キツい問答をお仕掛けなさるな」
「それを伝えに参ったのでは?」
幸長はポリポリ、と頭を掻く。図星だった様子である。
「仰る通り。※甲斐時代から付き合いのある其方らには申しておこう。我らは……儂と清正殿は、家康に斬られるやもしれぬ」
「十分有り得ますな」
信繁は特に驚くでもなく返した。十年の兵法修行で、その程度は当たり前の計略だという考えに至ったのである。
「後の事は、其方らに託す」
「領地を持たぬ我らに、何を託すと?」
「気概」
幸長は餌を括りつけ、竿を振る。三人ともものの見事に釣れない。腕が悪いのか、それとも三人の発する気概が魚を寄せ付けないのか。傍から見る人は、後者と判断するかもしれなかった。
「残念ながら、それ以外は残せませぬ。御二方、頼みましたぞ」
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天皇即位に便乗した、二条城での家康・秀頼の会見は成功した。成長した秀頼の凛々しき姿を諸侯に見せる事も出来たうえ、豊臣には清正と幸長という見方がいるという事実も家康に改めて認識させる事が出来た。家康は二人の存在により、易々と豊臣を縮小出来なくなったのである。
清正が動けば、福島正則や加藤嘉明も動く可能性がある。しかも大坂城には和議の際の条件として田辺城の兵だけは残してあるため、戦となれば関ヶ原の繰り返しである。誰もが、豊臣の復活、あわよくば復権を予感した。
だが、梯子は唐突に外された。加藤清正、浅野幸長の両者が相次いで病死したのである。あまりにあからさま過ぎる時期であった。
和解派の二人の死は、当然豊臣の歯車を狂わせる。焦った豊臣配下の将達が、片っ端から浪人や官位を獲得し出す。幕府への牽制の意味は当然持つが、家康の大坂攻め……その大義名分を与えてしまうスレスレの行動が続いた。
だが副産物もあった。血の気の多い男達の集う、その大坂城で一つの出会いが発生した。
「おやおや、穏やかじゃないねぇ」
「まぁ、戦になってくれた方が俺達は助かるってもんだが」
「違いねぇ」
大坂城にごった返している浪人の中に、一際強い存在感を放つ男が二人いた。その二人の目が合った途端、彼らの取り巻きも含めて、ざわついていた空気が凍り付く。
「おい」
「何用でござろう」
「目が合ったろう」
「然り。それが何か」
「気に入らねぇのさ。あんた、俺をこの辺の雑魚どもと同等に扱ったな」
「……」
「図星か。増々気に入らねぇよ」
二人は脇差と、更には槍を持っている。もはやこの空気で、やる事は一つしかなかった。
「抜きな」
「……」
大柄な男が脇差を抜こうとした、その時である。
「はきゃっ」
寄生を上げて壮年の男が突っ込む。居合いの気が大男にはないと断じ、一挙に間合いを詰めた。
「ぬんっ」
老人は脇差を抜く前に拳骨をぶち込んだ。老人とは思えない、力強く早い踏み込みであった。だが、驚きの声は拳骨を喰らった大男に浴びせられた。あの加速度の乗った拳を喰らって、ゆっくり、迫力満点に立ち上がって来るではないか。
「てめぇ……」
咄嗟に体を反応させ、柄で防御していたのである。大男を殴ったのは、大男の脇差の柄に過ぎない。拳は当たっていなかった。
「気はお済みか。可児吉長殿」
「可児、だとぉっ!?」
大男が呼んだその名を聞いて、大坂城が揺れる。関ヶ原で十七の首を獲った行ける伝説。『笹の才蔵』が自分達の目の前にいる。浪人達も興奮せずにはいられなかった。
「知ってやがったか」
「関ヶ原で見かけ申した。その前にも、何度か」
「俺もお前を知ってるぜぇ……何故ここにいやがる? 後藤又兵衛基次よぉ」
「後藤又兵衛ぇぇッ!?」
再び騒めいた。基次は関ヶ原で武将首をいくつも挙げた豪傑である。それ以外の武功も挙げればキリがないほどである。この二人が何故この大坂にいるのかは定かでは無い。だが、ここにいる。浪人達の血を滾らせるにはそれで十分だった。すぐさま、適当な因縁をつけては喧嘩を始めて行く。
「ちっ、白けちまった。おい、今日は勘弁してやる」
「有難い。これよりの味方同士、つまらぬ争いは御免にござる」
「よく言うぜ。殺る気満々だったくせしてよぉ」
大坂城の熱気に当てられたのか、浪人は時間に比例して増えて行ったのである。
******
「ゴホッ、ガハッ!」
「父上、大事ござりませぬか」
「大有りだ、阿呆」
大坂城での会見の後、九度山の昌幸は倒れた。六十五の高齢は、流石の怪物・昌幸でも抗えない病魔を拾ってきたのである。
「もう、儂は死期を悟ったわ。せめて、最後の望みじゃ。源次郎」
「はっ」
「この後、秀頼君の御元へ、ありったけの兵糧を運び込め。お主らの分は、また信之と浅野家にせがめ」
「御冗談を」
「本気だ。良いな。『米俵』を貢げ」
「……」
信繁は、昌幸の眼を見た。体は萎んでしまった昌幸だが、まだ眼は死んでいない様に見える。昌幸の意志を、眼で確認する。
「良いか、信繁よ。お主はもう若くは無い。若くはないが、それが幸いする事もある」
「幸い?」
「左様。信之は軍略を独学で学ぶ際、書物やら頼綱やらに頼った。故に、戦場での誤差に苦しんだ」
「誤差……」
「だがお主は、儂が直接教えた、唯一の男よ。戦場での経験も十分、戦果を想像するにはた易い。もはや誤差も無い。後は舞台が整うのを待て。そして、全てを発せよ」
信繁の頭に、信之の顔がよぎる。もしかしたら、昌幸も同様によぎったかもしれない。命を賭して助命を嘆願してくれた兄。大坂へ行けば、その兄を裏切る事になる。
「見くびるな」
「……」
「真田源三郎信之とは、我らが心配するほど小さな男では無い」
「兄上は我らを助けて下さいました」
「捨て置け。お前の命は、お前が燃やすのだ」
昌幸は力なく、信繁の肩を掴んだ。昌幸の妻・山手殿や信繁の妻・利世が止めようとするが、信繁が目で制した。力強い眼であった。
「源次郎……いや、弁丸よ」
「父上」
「もう我慢は止めにせぬか……一度でいい。この儂に、お主の武才が躍る姿を」
昌幸はずっと、信繁の才を発揮する機会を与えられなかった事を悔やんでいた。自分と信之、頼綱さえいれば、何もかも上手くいってしまう。だが、誰もが信繁の才を、大物である事を分かっていた。分かっていたから、尚更死なせるわけにはいかなかった。
安全な越後、さらには大坂へ人質に出した。結果、信繁はここまで生き延びた。生き延びたが……。彼の武功は信之と大きく開いてしまった。
「お主は、奴に負けぬ才がある」
「……」
「治部少輔と、太閤のために戦いたい。その気持ちに背くな。燃やせ、最後まで『それ』を燃やせ」
「父上、もう……」
「信繁、大坂へ……」
昌幸は体力が尽き、ゆっくりと床に突っ伏した。
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――もう許されている。そう思っているのではあるまいな?
夢の中で、奴の声が聴こえた。もう、一人でも眠れると思った。それでも眼を閉じると、三成の幻影が現れる。悍ましい笑いを含んだ生首が、脳裏に焼き付いて離れない……。
小松に肩を抱いて貰わなければ、眠りに就く事さえ出来ない。信之は子供の様な自分の現状に歯噛みしていた。
「ダンナ、生気を失ってはなりませぬ」
「……分かっておる」
忠勝の葬儀の後、落胆した小松は信之に抱いて貰いながら眠った。だがその腕は冷たく、生きる気力が減っている様に彼女には思えたのである。
――父の次は、夫なのではないか。
それだけは嫌だった。自分が信之を生かさなくてはならない。各地では今、死神が鎌を揮うが如く訃報が連なっている。加藤清正、浅野幸長、浅野長政、堀尾吉春、池田輝政、前田利長……そして家康の次男である結城秀康。この流れに巻き込まれ、夫を失う事だけは絶対に避けなければならない。
「……才蔵か」
「えっ」
信之の震えが突然止まり、むくりと起き上がる。小松は気づかなかったが、襖の奥に才蔵がいるらしい。部下の前では、どんなに眠れる夜を過ごしても気丈に振る舞う……信之は根っからの戦国武将であった。
「はい、その……」
「小松は構わぬ。隠し事はせぬ決まりゆえ」
「御意に。先日、九度山で……」
――九度山!?
信之の体に再び緊張が走る。信繁か、それとも……。
「大殿……真田昌幸様、ご逝去なされた様子にござります」
「父上、が……?」
「もう、葬儀も済んでいるとの事でございます。それでも九度山への訪問、幕府へ願い出るがよろしいかと」
「あ……」
信之はしばし呆けたが、何とか声帯を震わせる事に成功する。昌幸が死んだ。あの恐ろしく、頼もしい父がこの世にいない。その事実が、足元をフワフワさせているのが自分でも分かる。
「……罪人に会いに行くわけにはいかぬ」
「ダンナ、何という事を!」
「例え父でも、真田の当主として俺は行かぬ。それが幕府への忠節の証となろう」
「ダンナ、意地を張ってはなりませぬ!」
「行けぬ。お前なら分かるであろう、小松」
才蔵は、襖を開けなかった。信之はこういう時、決まって、喜怒哀楽の入り混じった複雑な表情をしている。その表情を見る度に、家臣の心は酷く傷むのだ。
「九度山に悔みの言葉と、大坂へ行かぬ様忠告を書く。それで終わりだ」
「それだけでございまするか」
「才蔵、下がれ」
「しかし」
「下がってくれ」
「……御意」
信之は小松を見る。昌幸の訃報を聞いて、どこかホッとしている自分もいる。大坂方についたら、間違いなく自分や家康の脅威になる、あの軍神がこの世から消えた。その事が自分を安心させ、また嫌悪させた。
「小松」
「はい」
「今、俺はどんな顔をしている」
酷く醜い顔をしているのではないか。下卑た笑みを浮かべているのではないか。実の父だった。だが同時に、生涯の好敵手と呼んでも過言では無かった。常に脅かされ、また脅かして生きて来た。二人の間に柔軟な空気が流れた時など、果たしてあったのであろうか。
「大事ございませぬ。しかと……泣いておられますよ」
信之は小松の胸に顔を埋めた。小松の真っ白な衣は、忽ちに涙に濡れた。
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罪人である昌幸の葬儀は、『身内だけ』で行われた。信繁や山手殿、利世殿や信繁の息子達だけである。後日、信繁は遺言に従って、大坂城へ米俵を送る事にした。
「浅野長晟様から、大阪への貢ぎ物は控える様にとの仰せです」
「父上の遺言じゃ。通してくれ」
「しかし」
「通せ。そなたに人情があるならば、名将の最後の願いぞ」
信繁は監視している浅野家臣を説得し、信繁は十俵の米俵を佐助と共に大坂城へ送る事に成功した。
「父上……」
信繁は、米俵の乗った荷馬車を、見えなくなるまでずっと眺めていた。とても大事な物を見る目で、ずっと眺めていた。
※甲斐……幸長は豊臣政権時代は、父・浅野長政と共に甲斐を治めていた。
次は水曜らへんです。




