第六十九話 剛勇封じ
家康の動きは迅速であった。自らの健康体を知ってか知らずか、関ヶ原から三年後、遂に源氏の頂点・征夷大将軍の官位を朝廷から引き出すことに成功。この報せは全国の豊臣譜代大名に衝撃を与えた。
「内府め、とうとう江戸に幕府を開きおった……しかも尊氏の様に曖昧ではなく、唯一朝廷から認められた将軍じゃ」
「……」
「兼続よ。上杉は如何動く。明らかな豊臣に対する下剋上、黙って見ておるしかなかろうか?」
「殿。情けない話ではござりまするが、上杉は動けませぬ」
米沢の景勝と兼続は、戦になった場合豊徳どちらに味方をするか。その方針を決めていた。秀頼は関白になる可能性を秘めているし、その噂もある。が、家康は江戸に堅城を築き上げたうえ武家の棟梁たる将軍に就任、婚姻関係も盤石。動員力の差は明らかである。
「謙信公以来の義の精神ならば、豊臣に頼まれれば味方をしてやりたいが……」
「上杉は動けませぬ」
「分かっておる」
牙の抜けた兼続に、景勝は違和感を覚えていた。普段は死に体の様であるのに、この話をする時に限っては眼に力がある様に思える。弱気な発言は相変わらずだが……。
「『上杉は』、動けませぬ」
「……」
この時、兼続は恐ろしい事を考えていたのである。
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「ようやっと、信濃の領民達の反発ものうなった様じゃの。これもお主の働きのおかげよ」
「勿体なきお言葉」
1604年。新年の挨拶のため、信之は江戸城の家康の元へ来ていた。信之だけではない。伊達・最上を始めとする東北の諸侯、更に西国からも山内、黒田等の豊臣恩顧の大名が参上していた。
「弾正殿、信濃は如何でござる」
参議となった細川忠興が話しかける。慶次郎を始め、浪人衆を多く召し抱えたと話すと羨ましそうな表情を見せる。
「しかし、上杉がよく手放し申したなぁ」
「誠に。もっともトウの立った老人にござりますれば、厄介払いのつもりかもしれませぬ」
「儂も、関ヶ原で戦うた志賀親次などを狙っておるのだが……いかんせん行方が掴めぬ」
「見つけたとて、福島殿が許しますまい」
「ごもっとも」
関ヶ原から五年。忠興も玉姫の壮絶死からようやく立ち直った様で、信之も安堵した。もっとも、信之自身は未だ精神が優れないのだが。
忠興が離れると、意外な人物が擦り寄って来た。
「久しぶりであるのう。伊豆守殿……今は弾正大弼殿か」
「右近衛権少将殿……か。珍しい事だ。文以外で話すのは」
「近頃、そなたの顔を見ておらなんだ。領地も上野から離れた故、どうしておるかと思うてな」
伊達政宗。言わずと知れた奥州最大勢力、伊達家の当主である。信之とは沼田時代からの付き合いで、度々文で連絡を取っている仲であった。
「お邪魔であったかな」
「構わぬ。何か御用で」
「用事という程ではないがな……立花宗茂を知っているか」
「知らぬわけがない。松尾山でやりおうた相手よ」
政宗の口からは意外な名が出て来た。九州の宗茂と奥州の政宗では、まるで接点が無い筈である。信之は眉をしかめた。
――まさか、召し抱えるつもりか?
「宗茂が如何したのか」
「なんじゃ、お主も狙っておるのか?」
「さに非ず!」
「残念であったな。奴は近々、江戸務めになる」
「何だと!?」
信之は驚愕した。それはつまり、宗茂が家康の家臣となるという事である。家康なら考えそうなことだが、驚いたのは宗茂にその気があるという事であった。
「将軍も考えたものよ。宗茂は義理人情に熱い、無駄に熱い気性じゃと聞いておる。お主には、この意味が分かろうな?」
「……宗茂に恩を着せるという事か」
「近習勤め程度で牙を抜かれる男なら、拍子抜けだがな。まぁ、儂にとってはどうでもよい。気になるなら、将軍に進言してみてはどうだ?」
「どこからそれを?」
「人質に送った倅からよ。だが、仕掛け人は其方の義父だと聞いたが?」
それを聞くや否や信之は、忠勝の姿を探し駆けて行った。
「せわしないのぉ」
政宗は、すぐさま他大名との話を始めた。新年会は、もはや情報交換の場と化していた。
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「某が宗茂を?」
信之が家康、忠勝に呼び出されたのは、諸侯が帰った後の話である。
「そちの考えは、恐らく儂と同じくであろう」
「……」
「宗茂を封じ込めるには、こちらから宗茂の領地を与える。さすれば奴の牙は差し歯と化す」
「御意。しかし、奴は好意を受け取りますまい。義父上、如何?」
「それよ。何度俺が誘っても、牢人で結構、捨扶持だけもらえれば良いとぬかしやがる」
宗茂は自分の気性を理解している。一度徳川に領地を……まして大名復帰などをさせて貰えれば、もう豊臣に対する恩義は捨てなくてはならない。自らの義理堅さ、気難しさを分かっているからこそ、慎重になっているのだ。
そこで、関ヶ原で対決した信之から話、反応を見るという策が浮上したのである。
「奴は某の話は……某だからこそ、聞きませぬぞ」
「しかし加藤家に頼るわけにもいかぬからな。豊臣の先鋒といっても過言でもない清正が、立花を徳川傘下に入れたいはずがない」
「信之、頼まれてくれ」
「……然らば、最善を尽くしまする」
信之は宗茂の待つ忠勝の屋敷に案内された。その日の内にである。領国でなく江戸に呼んでいるところが、忠勝と家康の手際の良さの証明であった。信之も呆れてしまう。
――早い話が、戦をするつもりなのではないか……。
襖を開ける。宗茂は先に座って茶を飲んでいた。
「久しうござる、信之殿」
「ああ。四年ぶり、松尾山以来か」
「ふっ……松尾山か」
茶道に精通している宗茂は、手慣れた様子で柄杓を扱う。茶碗を差し出された信之も一応作法通りに動いては見るものの、礼節ではとても宗茂には敵わなかった。宗茂は満面の笑みである。
「我ながら無様なものだ。作法も戦も、お主には敵わぬ」
「世間では立花が真田を破ったと、あの戦を評しておる様で」
「事実であろう」
「たわけた事を。某の戦術は貴殿に通じ申した。が、所詮某は掌の上で転がされただけの事」
「……」
宗茂は、信之に勝った。勝ったがために、三成の救出が出来なかった。つまりは負けたのである。
「あの戦は、貴殿の思い通りに展開したというわけですな」
「……午後だけだ。午前は完全に圧されていたと聞く」
「貴殿が来た途端に、か。なるほど、流石は忠勝殿の見込んだお方よ」
宗茂はもう一杯、信之に茶を立てる。
「徳川の臣下となるつもりはないのか」
「……太閤の恩を忘れる事は出来ぬよ。それに」
「秀包を殺したのは将軍ではない。俺だ」
「……」
「ここで首を刎ねるか? 別に真田の当主は儂でなくてもよい。構わぬぞ」
信之は腰刀を外し、目の前に置いた。なにせ忠勝と家康に説得を頼まれたのだ。とことん下手に出る覚悟である。
「貴殿が左様な大根役者とは知らなんだ」
「演じているのではない。本心からだ」
「某が降る事で、真田に利益があるとは思えませんな」
「弟の事だ」
茶筅をシャカシャカと掻き回していた宗茂はピタリ、と手を止める。近畿の九度山に信繁が流されたのは知っている。それが自分と何の関係があるのか、信之の考えが読めない。
「信繁殿が如何したのか」
「奴は故・太閤殿下のお気に入りだった。大坂方が合戦を望めば、奴は監視を振り切って参加しかねない」
「それで?」
「その機運が高まるか否か。それは貴様にかかっているという事だ」
信之は茶碗を腕で払い飛ばすと、宗茂に平伏した。
「頼む宗茂。徳川からの領地を受け取ってくれ」
「悪いが、もう領地に興味はないのでござる。誾千代がもうおらぬ故」
「旧領回復が、立花の悲願ではないのか。家臣に冷や飯を食わせて満足する貴様ではないはず」
「……」
「今は無理だが、いずれ柳川に帰すと家康様に約束して頂いた。故に頼む。大坂にはつかないでくれ」
宗茂は溜め息を漏らす。畳の上でも、常に戦と政の事を考えている。信之という人間の思慮深さに、こちらが平伏したい程であった。
「大坂方につかぬと、そう約束する事は出来ぬ。誰に忠を尽くすかは、儂自らが決め申す。だが」
宗茂は頭を垂れた。
「好敵手たる貴殿の顔を潰すわけには参らぬ。有難く頂戴いたすと、徳川殿にお伝え下され」
「……かたじけない」
「なに。家臣に冷や飯は、食わせられぬ故」
遂に宗茂は折れた。家臣と奥方、領地を失った苦しみを知った宗茂を、信之が折らせたのであった。
これにより徳川家は、剛勇鎮西一、立花宗茂を封じ込める事に成功したのである。
「宗茂」
「何か」
「秀包は最後に言うておった。心を健やかに、と」
「聞き申した。金吾殿、某、そして貴殿への言葉にござろう」
「俺を恨むか?」
信之の質問を、鼻で笑う大きな男がそこにいた。
「友と、妻を失い申した。されど某の心は、常に健やかにござる。今迄も、これより先も。それが友の願いにござりますれば」
人は負の感情によって小さくなっていく。宗茂は、恨みつらみを引き摺らない。秀包を殺した自分でさえも、必要とあらば許しどんどん先に進んでいく。立ち止まる事を愚とし、動く事を是とする男。
信之は、再び自分の小ささを思い知らされた。宗茂、そして秀包はどこまでも大きい。
――信繁、お前もこの宗茂の様に健やかだと信ずる。今の俺には、そうする事しか出来ぬ……。
宗茂は一月後、家康から五千石の領地を与えられた。




