第六十八話 枯れ果てた気概
蔵入り地。それは豊臣家の直轄領であり、豊臣臣下である他大名への恩賞として貸し与えられた領地である。二百万石を超えるこの豊臣領=蔵入り地を論功行賞で徳川臣下・親戚に割り振る。それが関ヶ原前からの家康の狙いであった。自らが政務を取り仕切る筆頭大老だからこそ出来る芸当である。
上杉は九十万石、毛利に至っては百万石の減り幅。これが他家に割り振られたのだから、蔵入り地の減少も推して知るべしである。家康の思うが儘に、豊臣家の領地は減少し、二百万石の天下人だった秀頼は六十五万石の一大名へと追いやられた。
「これは大坂方が黙っていない」
そう人々は噂した。戦が起こると、そう思った。しかし、異議を唱える物はいない。もういないのだ。
この決定に逆らう気概のある人物は、石田三成、大谷吉継、そして何より五奉行の財務担当・長束正家であった。家康はこの策を使う際の一番の障害は彼であると踏んでいた。何故なら、一奉行衆に過ぎないにも関わらず、丹羽家臣時代に秀吉に猛反発した気概の持ち主なのだから。
だから関ヶ原において、長束には逃げ道を与えなかった。鍋島勝茂に連絡を取り挟撃する事で追い詰めた。頭の良い長束正家の事、逃げられれば弁明をされる。逃がしてはならないのである。結果、腹を斬らせる事に成功した。
「正家を排除できたお蔭で、全ては上手くいったという訳だ」
「内府め……何と卑怯な行いにございましょう」
九度山では、その話題を肴に昌幸と信繁が碁を打っている。信繁は昌幸に遠く及ばないうえ、この話題を出されて頭がカッカしている。無残にも大敗を喫した。
「分かるか、源次郎」
「何がでございまするか?」
「お主は今の話題を出した途端、頭に血が上った。最善手を見失ったのだ」
「あっ……父上、わざと!?」
「左様。これが論理的に導き出される勝利よ」
「論理……?」
「源三郎に有って、お主に無い物。儂やあ奴……そして内府が強い由縁だ」
信繁が身を乗り出す。昌幸はニヤリと笑いながら、説明を続ける。
「良いか源次郎。お主は一部隊の指揮を執るには優れておる。つまりは鼓舞する力、勇猛さよ。それは先の戦でハッキリした」
「勿体なきお言葉」
「じゃが、それでは足りぬ。大将首、家康や信之の首を獲るには、もう一つ……画を描く力がいる」
「画を?」
昌幸は白の碁石の周りに、黒の碁石を並べ始める。囲い込んで、白の碁石を掴みとると不敵に笑う。
「黒石で囲めば白石は取れる。白紙の上から墨を垂らせば、その白は消える。それと同じ」
「は?」
「家康という黒は今、豊臣という白を消そうとしておるのだ」
「……」
「まずそのために奴が踏む手順を考える。その上でそれを防げる手順を思案し、こちらが踏む。これが論理じゃ」
「……父上」
「おう」
「もう一局」
その目は燃えていた。信繁は囲碁という遊戯が、正に論理の塊である事に気づいたのである。真田源次郎信繁、三十四歳。今、信之のいる領域に肉薄しようとしていた。
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信濃国主となった信之は多忙であった。検地台帳の確認及び年貢の設定、城の接収、それに伴う反乱の鎮圧。森、仙石等信濃の他大名は旧宇喜多領(岡山)へ加増移封となったため、全て信之が行わなければならない。
「この書状を、豪族衆へ届けよ」
「はっ」
「さて、小諸にも出向かねば」
だが、忙しさが信之を助けていたとも言える。動きが止まってしまえば、三成の念に押しつぶされそうになるからである。
「殿、精が出ますな」
「才蔵か、いかがした」
「御耳に入れたき義が」
「火急か?」
「はっ。北条氏盛殿、備前二十二万石に栄転との事」
「何ぃ!? 大名として、北条家の復興か……」
信之は筆を止めた。真田栄転の功労者・多目周防守の遺言……願い通りの展開になった事が、少しだけ嬉しく思えた。
「周防殿も喜んでおられましょうな」
「どうだろうな。奴は北条どうこうより、自分の軍略が活かせる事の方が嬉しかろう。しかし……」
「豊臣は黙っておらぬでしょうな」
北条は太閤秀吉に逆らった謀反者として、正式に処罰された大名家。にも関わらず『家康の手で』勝手に復興が成ったとなれば、豊臣家の面目は丸潰れである。それが家康の狙いだろうと、信之は考えた。
「誘っているのでございましょうか」
「だろうな。和解派の動きはどうだ」
「加藤清正殿、福島正則殿が目立っているかと。豊徳両者へ頻繁に文を書いておる様子」
「分かった。ご苦労」
「殿」
「何だ、まだ何かあるのか?」
才蔵は、信之の顔色を窺った。今は政務に没頭し、以前通りの顔をしている。
――だが、きっと夜になったら……。
「いえ。何でもござりませぬ」
「そうか。忙しいのだ、去ね」
「はっ」
才蔵は出来る事なら、一日中信之の健康だけを気にしていたかった。
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『信濃を得たか。俺の言うた通りになったのぉ』
『義ある我らを裏切っての栄華。その味はどうじゃ?』
『聴こえたか』『聴こえたか』『聴こえたのか、信之!!』
「――ンナ、ダンナ!」
小松がピシャリ、と信之の頬を叩く。
「……寝ておったようじゃ。すまぬ」
「眼は開いておりましたよ。寝ているはずがございませぬ」
「うん……。どこまで話したかな、そう、松尾山で宗茂と戦うた話じゃ」
「関ヶ原の話は、もうよいですから」
信之は小松のために土産話をしている。だが小松は、関ヶ原の話をする度に信之の寿命が縮む気がした。
「何を言う。お前が好きな戦の話ではないか。自分で言うのもなんだが、後世に語り継がれる名勝負であったと評判で……」
「もう何度も聞いております」
「え……」
「宗茂殿との戦が、よっぽど激しかったのでしょう。それはもう分かっておりますから」
関ヶ原における信之にとって宗茂は、心に清い風を送ってくれる相手だった。だから、信之は無意識の内にその話ばかりしていたのである。
「忠政が」
「それも聞きました」
「義父上と忠朝が」
「それも聞きました」
「……三成が……」
その名詞を聞いた小松は、すかさず信之の首を引っ張り、自らの膝の上におく。
「おい」
「お静かに。耳の掃除をして差し上げます」
「ん……」
小松は持ち前の器用さと強引さで、耳の裏側を優しく擽りながら信之の耳垢と取り除いていく。五分もした頃、小松の膝上で寝息を立てる信之がいた。
「これ」
「はっ」
「寝室へお運びせよ。苦労したのだ、決して起こしてはならぬぞ」
小姓を呼ぶと、信之を布団へ運ばせる。瞼を閉じれば、幻影が映る。信之は上田に移って以降、そう言って夜中中眠れなかった。安心できるのは、仕事をしている時か、小松の側にいる時だけである。
「三成殿ではなく、私を選んだばかりに。斯様な苦しみを……」
小松は嬉しさと、悲しさの入り混じった顔を、決して信之に見せまいと気丈に振る舞ってきた。そしてそれは信之も同じである。寝入っている顔だけは、子供のそれであった。
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上田城の信之の元へ、まさかの来客が来たのは翌月の事である。
「と、殿、殿ぉぉ!」
「何だ志摩、政務の最中ぞ」
「な、直江兼続様が……ッ、お越しにございます」
「はぁ!?」
砥石城を任せた筈の乳兄弟・根津志摩が大慌てで兼続の来訪を告げに来た。書状を認めていた信之の手元が狂う。
「馬鹿な、上杉の筆頭家老が、何故ここに来る!」
「何やら、家臣を引き連れておりまする。戦やも」
「……いや、分かった。俺が出迎える」
信之は甲冑も着けずに門へ向かう。主君の身を案じた志摩は必死に止めたが、信之は構わず歩く。
「お久しぶりにございます。直江山城殿」
「ご機嫌麗しゅう、真田弾正殿」
その名で呼ばれるのは初めての事だった。だがそんな事はどうでも良かった。それよりも兼続の変貌振りが信之を驚愕させたのだから。
――何だ、これは!?
一年前に見た時は、こんなに白髪は無かった。こんなに頬がこけていなかった。こんな……死んだ魚の目をしていなかったはずである。
何より、以前から周りを支配していた、あの人を不快にさせる傲慢な空気が完全に消え失せている。
「直江殿……」
「本日は、折り入って頼みたき儀がござる」
「はぁ……」
その事については、予想がついている。上杉の巨額減封、更に兼続が直々に来ると言う事は考え得る理由は二つ。金策か、人材である。この場合は、後者であった。
「よう、久しぶりであるの」
「やはり、お主か……」
兼続の後ろから姿を現したのは、これも白髪交じりの老人……前田慶次郎利益であった。
「こ奴を、引き取れと?」
「察しが良くて助かり申す。お頼み頂けますかな?」
兼続の要求を、信之は鼻で笑ってみせた。
「ご冗談を。前田慶次郎と言えば、音に聴こえた高名の士ではござらぬか。仮にトウが立っているとしても」
「失礼な。儂はまだまだ動けるわい」
「黙っていろ爺」
信之は慶次郎の実力は買っている。信之だけではない、前田家も、上杉家も手放すには惜しい人材と分かっているはずである。それだけに、どうにも合点がいかない。
「上杉の名折れですぞ」
「もはや名など……どうでもよいのだ」
「直江殿……一体」
「前田慶次郎とその配下五十騎、お願いいたしまする。今の上杉の財政では、彼らに払う俸禄はもはやないのだ。この通り!」
信之は絶句した。あの兼続が頭を下げている。確かに今や、真田の石高は上杉の上を行くが……。元は百二十万石の大名家の筆頭家老の頭が、ここまで低くなるなど……。
もはや信之は、兼続に対する毒気が完全に抜けていた。勝頼を助けなかった事をあれほど恨んでいたのに、三成と決別した今ではそんな事を恨む資格すらないのではないか、と考えている事もある。だがそれ以上に、あれほど気概を持っていた人物がここまで萎びた事に対して、同情せずにはいられない。
当然である。関ヶ原を上杉飛翔の時と賭けて反乱を起こした。にも関わらず、結果は九十万石の減封、多くの家臣の不興を買ったに違いない。口惜しさを通り越して自失してしまっても無理はないのだ。せめてもの償いとして、召し抱えきれなくなったこうやって再仕官先を探して回っているのだ。
――盛者必衰、いずれ俺もそうなる……いや、なっているのか?
「分かり申した。前田利益を千石で引き受け、配下も召し抱え致す」
「有難き幸せ。では」
「直江殿」
信之はさっさと帰ろうとする兼続を引き留めた。
「某に何か言いたいことがあるのでは? 関ヶ原で徳川についた某に」
「……」
兼続は無言で去って行った。だが信之は見ていた。その握り拳が戦慄いていた事を。
「と、言う訳で寝床をくれぬか信之。米沢から歩いて参ったんで、足がクタクタなんじゃ」
「……クソ爺め。臣下となるなら、せめて敬意を払え阿呆」
「信繁とも会いたかったがのう、入れ違いとは残念至極じゃ。まっ、いいか」
口の減らない十五年来の友人が、思わぬ形で配下に加わる事となった。
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慶次郎は直ぐに真田家に溶け込んだ。持ち前の武勇伝で同僚を虜にしたかと思えば、酒盛りでは酒豪っぷりを見せて尊敬を勝ち取る。海津城を与えた矢沢頼康や諏訪に入った昌親(昌幸の四男)に岩櫃の信勝(同三男)、さらには箕輪城を任せた出浦盛清までもが噂を聞きつけて面会に来るほどである。
せっかく来た重臣を無碍にするわけにもいかず、連日の宴は続いた。
「そうらそら! これが太閤殿下の前で披露した『横に結った髷』でござぁい!」
「うわっははは!」
如何に旧友とはいえ、余所者にいきなり千石を与えるのは反発があるかもしれない、と信之は思ったが、杞憂に終わった様である。
「信勝、昌親。貫高制はどうだ」
「はっ、米の値打ちは思うた以上にバラバラで……上手く徴集できるか不安にござる」
「やはり難しいか……臨機応変に行かねばの」
「御意。兄上もご無理はなさらず」
弟達に丁寧に政を教える信之は楽しそうである。それを見ていた頼康は幽鬼の様だった信之の顔色が、少しだけ良くなっている事に気づいた。間違いなく小松と、慶次郎の功績であった。
そして年月が過ぎ、豊臣と徳川の間に、少しづつ亀裂が生まれつつあった……。
次回更新は日曜です。




