第六十五話 中央突破
「「「今じゃぁぁぁあ!!」」」
離れていたはずだった三人が、同時に檄を飛ばした。やや北から志賀親次、やや西から島津義弘、そして南から立花宗茂。全員が松明を突ける頃合いを狙っていた。
「前進! 狙うは徳川本隊、徳川家康の首一つ!」
「我らの前は井伊、松平か。不足はなか!」
「治部との連携はもはや絶望だ。ならば立花・高橋の名を東国諸侯に刻んで散ってやろうぞ!」
驚いたのは、勝利を目前にしていた東軍の面々である。特に井伊直政・松平忠吉は、このまま包囲を続ければ島津・毛利は降伏するとも考え、気を緩めていた。急いで迎撃態勢を立て直す。
「兵を固めて受け止める! 絶対に包囲の外へ出すな!」
直政の必死の指揮が陣形を動かしていく。しかし、計算違いがここで起こる。
「待て、何だこの兵の少なさは!?」
三成の追撃には、最小限の兵のみを割いたはずだった。しかし、他の将達は三成憎し、三成捕縛すべしと躍起になり、石田勢への追撃に力を注ぎ過ぎた。囲みは確実に薄くなっていたのである。
――不味い!!
直政は不利を悟る。島津はここまで三成の護衛に回り、牙を隠していた。考えてみれば、島津にしては戦い方は大人しい方である。つまり体力の低下はそこまででもないのではないか。そんな推測が直政の背筋を凍らせる。彼の思う事は一つ。死んでも忠吉を守り切る!
「来い! 三河武士の武勇、思い知れ!」
「井伊侍従の軍を蹴散らせば、包囲は崩れもんそ! 皆の者、死ぬ気で生きよ!」
「オアアッ!」
二つの軍がぶつかり合う。御曹司である忠吉を後方に下げた魚鱗の陣。徳川四天王でも筆頭の功を持つ直政は自ら、先陣を務め島津と相対する。
しかし、直前まで松明を付ける準備をしていた井伊兵の隙は形となって表れる。
「止まりませぬ! 第一段、突破され申した」
「何ぃ!? 相手は二千にも満たぬというのに……」
「相手先鋒・島津豊久と川上兄弟、奴らの武勇が邪魔で雑兵を減らせませぬ!」
「くっう……忠吉様を離脱させよ! 絶対に傷つけてさせてはならぬ」
が、その指示を出す前に五段しかない魚鱗が二段まで突破される。しかもまるで眼中にないのか、直政の横を島津兵が通り過ぎて行く。彼らは明らかに『その先』を見据えていた。
「行かせるかぁぁ!!」
直政は親衛隊と共に反転し、忠吉救出に向かうが、陣は前方の豊久・後方の義弘によって完全に分断されている。井伊・松平軍の混乱は避けられず、忠吉の護衛が精いっぱいであった。直政は島津の後ろ姿を見て歯噛みしたが、それも一瞬。直ぐに陣形を整えて追手に変身した。今度は自分では無く、主君の危機であると理解したのである。
こうして島津は包囲を突破し、桃配山へ向かう。
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「行かせぬわ親次! 裏切り者が内府殿を狙うなど」
「圧せ! 福島・黒田を抜ければその先は家康ぞ!」
志賀親次と松野重元も、島津と同時に仕掛けていた。虚を突かれた福島軍は井伊家同様に混乱したが、瓦解を食い止めたのはやはり可児才蔵である。午前中から槍を振り続けているというのに、その技の鋭さは幾ばくも変わらない。
――終わるな戦よ。ああ、まだ早い。終わってくれるな!
彼にとっての戦場とは、疲労を忘れさせ、集中を研ぎ澄ませる神聖なる場である。一枚、また一枚と死体に笹の葉を噛ませていく。後藤又兵衛と同等の怪物と言えた。
「ちっ……あの可児才蔵のせいで包囲を崩せぬではないか! 抜かったわ!」
松明を点ける瞬間を見計らった親次の奇襲も、常在戦場の士・可児才蔵の武勇で隙を埋められてはどうしようもない。このままでは強固な包囲が復活してしまう。知勇兼備の『楠木正成』、志賀親次にも流石に焦りが見られた。
「当たれ! 百人でも二百人でも良い、可児吉長を包囲せよ!」
無策となった親次に痺れを切らし、松野重元が動いた。進軍を遮っている可児才蔵に決死の包囲陣を引いた。自らの身をもって才蔵を止める気である。
「主馬!?」
「何をしておる親次! 決死の突撃、誰が行っても同じことよ! 辿り着けぬは恥辱、お主の槍で貫いて参れ!」
「しかし、貴様は!?」
「戦場で死ねる誉、逃してなるものかよ。行け、親次! 秀頼君を貶める内府、お前が止めて来い! 儂に無駄死にをさせる気か?」
「……すまぬ!」
親次の背中を見送ると、重元は手勢1000と共に殿を引き受けた。
「島津で言う所の『捨てがまり』か。面白い、皆の者! 死ぬまでにいくつの首を取れるか競争じゃ!」
「オオオッ!」
「首実検は、あの世で行う。 励め! 百人殺したら、百万石だってくれてやらぁ」
可児才蔵は首を獲られないまでも、手勢と共に包囲を突破できない。それほどまでに重元の武勇は光ったのである。二十万石の福島軍が、一部隊長に過ぎない重元に足止めを喰らう。
「雑魚ども、どけぇ! あの治部の何処に、そこまでする価値がある!」
「忠義を尽くすべきは大坂よ! 儂を取り立てて下さった秀吉様と共に、あの世で福島の行く末を見守ってやるわ!」
重元は吠えた。吠えながら小早川の鉄砲隊に最後の一撃を命じると、その射撃直後に抜刀し敵軍へ突っ込んでいく。それを見た兵達も、まるで全員が重元に成ったかのように火中へ栗を拾いに行った。
やがて黒田・細川が合流すると、彼らは笑いながら血を吐いた。小早川一の勇士、大坂への忠義は死に際まで。松野主馬首重元、関ヶ原に散る。
彼の犠牲と引き換えに、志賀親次は包囲を突破した。
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遂に死にもの狂いとなった立花勢に、もはや疲労は関係なかった。唐入りで何十万という大軍を相手にしてきた彼らにとって、この戦いはそれらをスケールダウンしたものに過ぎない。
兄同様に危機回避能力で生き延びて来た京極高知はその殺気の鋭さを感知し、数回当たっただけで身を引いた。これ以上は命の危険があると判断し、藤堂との挟撃に移る。が、高虎にとってはたまったものでは無かった。
「冗談では無い! 何故元気な京極が止めてくれぬのだ!」
憤るのには理由がある。高虎の軍は松尾山に800、笹尾山に500の援軍を出している。もう残りは1000もいないのだ。万全な状態ならばともかく、今はとてもではないが宗茂の敵は務まらない。
「真田も本多も京極も……役に立たぬ者ばかりじゃ。 もう良い、儂が玉砕覚悟で止めてくれるわ。皆の者、今日最後の戦ぞ! ここで活躍した者は、首実検を楽しみにしておるが良い!」
「ははっ」
「かかれぇぇ!」
高虎は、もう十分に戦功を立てている。唐入りに参加して宗茂の恐ろしさを知っている彼にとっては、ハッキリ言って宗茂と戦うのは不利益以外の何物でもない。それでも高虎を動かすのは忠義である。せっかく見つけた使えるべき主君を、殺させるわけにはいかないのである。
「行かせぬぞ宗茂!!」
「天晴な覚悟なり、高虎殿。しかし、京極との挟撃は御免こうむる」
勝負は一瞬で決まった。大谷・宇喜多と一日中戦い続けて来た高虎の軍は、もう溜まり切った乳酸の支配を免れられない。真田・本多との連戦を終えた後でも、宗茂の軍は鍛え方が違う。宗茂はここからが強い。
二段に構えた高虎の陣形は、瞬く間に吹き飛ばされた。雑兵の槍に吹き飛ばされたのである。よく見れば、宗茂の先陣はガタイがまるで違うではないか。先陣の選び方からして、既に違う。一番屈強な者達を持って来たのだ。その突破力に、高虎はかつての主君の面影を見た。
「か、員昌様……!?」
宗茂は猛然と高虎の人垣を突破。三者は一路、桃配山を目指す。
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「北より小早川1500、正面より島津1500、南より立花3000! 三大名がこの本陣へ向かっておりまする!」
「なっ……五万以上の兵がいて、何故包囲が突破されるのだ……!?」
驚いたのは本陣に参加していた秀忠である。たかだか6000の兵に、数万の大軍が敵わない。上田城の真田兵を思い出し、ゾッと背筋を凍らせる。
「急いで毛利攻めに向かっている諸将へ連絡を! こちらの防御に回せ!」
「ならぬ!」
家康の鉄拳が飛ぶ。秀忠は驚いて家康の顔を見る。
「分からぬのか!? 奴らの狙いは毛利との挟撃。それに一縷の望みを賭けて動いたのだぞ!」
「あっ……」
「固めるべきは逆だ。毛利の包囲からは一人たりとも動かしてはならぬ!」
家康は歯噛みした。本多正信もそうだが、秀忠には戦の勘という物が備わっていない。秀康は上杉を封じ込めているのに対し、どうも戦時には頼りない印象を受ける。それでも、家康の言が届く前に上田城から出発した功は認めざるを得ないのだが……。
「こちらの数は」
「二万です」
「古田、金森らをこちらに回せ。その後は……儂自らが相手をする」
「ははっ!」
秀忠はギョッとする。家康は怯むどころか笑っているではないか。三方ヶ原で糞を漏らすという失態を犯した男には、どうにも思えない。考えてみれば、計算に入れていたのは上杉の挙兵までとしても、これは家康が誘った戦も同然なのだ。考えてみれば怯む理由もない。
秀忠はこの戦時に、別の事が頭に浮かんだ。この男、爪をずっと隠し続けて来たのではないか。あの絵だって、誰が見ても情けない男だと思う。遜った男だと思う。その心理を利用して……?
秀忠は、家康の底知れなさを知った。
「来るぞ来るぞ、果てさて、武田とどちらが強いかのう?」
古田重勝、織田有楽斎、金森長近の兵数は3000弱。死兵6000の敵では無かった。
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「あれは宗茂!? 何故ここに……まぁ良い。これで俄然面白くなったわ!」
親次軍は宗茂の旗印を認めて、一気に士気を上げた。正直松野軍無し、自軍だけでは家康にぶつかる前に玉砕すると思ったからである。しかし立花3000がいるのなら、万の軍勢に値する。
「行くぞ! 内府殿に冥土の土産じゃああ!!」
「うおおお!」
九州勢の阿吽の呼吸か。唐入りで培った連帯感か。三将は一つに纏まった……というより、目指す所が一つしかないのである。
徳川二万と志賀・島津・立花連合軍6000。この日最後の激突である。加速度のついた槍で、親次と豊久が突き進んでいく。が、今迄の大名と違い徳川は引かない。意外であった。守る物がある、ありすぎる徳川が一番与しやすいと思っていたからである。しかし引かない、崩れない。宗茂と義弘は動揺し、自ら前に出て指揮を執り始める。
「徳川など恐れるな! 所詮この日ノ本を出た事すらない弱小よ!」
「崩せ、正面から崩せるはずだ!」
しかし崩れない。三河武士は崩れなかった。戦国に誇る二大武将の武勇を持ってしても、崩れない。宗茂は悟った。自分や信幸、忠勝などではなかった。真の最強はここにいる!
家康はもとより、宗茂・義弘に的を絞って兵をぶつけて来たのだ。彼らの突破力を止めることが、勝利への第一段階と知っていたのだ。二人の突撃は止められた。後は手足よりも信頼できる彼らに、任せるしかない。
「豊久、行け! おはんに全て賭ける!」
「親次、任した! 大友の威信、貴様に託したぞ!」
叫び終わると、義弘と宗茂は加速を止めた。4000の兵を持って、20000の兵を引き受けたのである。
「島津と我らなら、二万も二千になるわい! 方々、首の数を競い合え! より取り見取り、手柄は一面に広がっておるぞ」
「立花との同士討ちに気をつけい! 唐入りでの合い言葉を使え、奴らも覚えておるはずよ」
西国無双と鬼島津が、20000を見る見る薙ぎ払う。しかし彼らは三河武士、下がらない。三河における家康の人望は、あの前田利家のそれをも上回るのである。拮抗する両者、間違いなく名勝負であった。
その二人の威信を賭けて、島津豊久と志賀親次は人垣を突破。家康本陣に迫る。
「来たぞ来たぞぉ! 島津家久の倅と天正楠木! 数は千、相手にとって不足無しじゃあ!」
家康の熱が親衛隊に伝わった。1000対1000。誇りと天下を賭けて、方法は真っ向勝負である。
「ぶち当たれ! 三河武士の意地を見せぬかぁ!」
「叔父上に任されたのだ! 家康の首級、死んでも獲っど!」
「旧大友家の……否、立花宗茂の名に賭けて。 志賀少左衛門尉親次、参る!」
もはや三成は関係が無かった。家康の首を取って、自軍の面目躍如をするか。家康を最後まで守りきり、天下人として君臨させるか。両家臣は、一歩も譲らない。
とはいえ榊原康政、本多忠勝、井伊直政。主力を欠いている徳川軍の不利は否めなかった。武勇では、豊久・親次に敵わない。
――ならば、意地で! 心でぶつかるまで!
減って行く。確実に徳川軍は減って行く。しかし、その変化量は限りなく小さい。一体どれほどの時間をかければ良いのか、二人は気が遠くなるようであった。
「家康様! 家康様万歳!」
「抜かせぬ! 断じて家康様へは届かせぬ!」
進まない。半島ではあれほど軽快だった島津の軍が進まない。その島津を一時は圧倒した筈の志賀の軍も遅々として進まない。もう時間が無い。出し抜いた井伊・福島・藤堂らが、早くしなければ追いついて来る。そうなれば挟撃、一巻の終わりである。
もう迷っている時間は無かった。豊久は驚愕の策に出る。
「島津軍、喜べ! 面白い事をやっど!」
「防御を捨てろ! 死にながら前に出よ!」
徳川軍にもその策は伝わった。伝えるために大声を出した。『死にながら前に出る』。目の前の兵と戦うのをやめ、殺される覚悟で家康だけを目指す。死兵達は、死兵の更に上に昇華したのである。
「ふざけるな、殺せ、殺せぇ!」
三河武士の槍に、一人、また一人と減って行く。だが、確実に進んでいる。殺した兵の後ろから、兵がまた出てくる。討ち漏らしが、確実に増えてくるからである。
「くっそ、止めろ、止めろぉ!」
無防御戦法。ただ家康の首に槍を突き立てる。そのために命を賭けた1000人。そして、遂に最後尾に達した。
「来た来た、来たぁ!!」
「豊久様、家康ぞ!」
「我こそは島津中務大輔豊久! 徳川家康、その首貰いうけっどぉ!」
家康は旗印を掴んで、一歩も引かない。三方ヶ原での屈辱を繰り返さないための覚悟、命の危機はこれが初めてでは無い。百戦錬磨の笑みを、豊久は見た。
――こ奴のどこが狸だ。まるで狼ではないか!
「家康ぅぅぅぅ!!」
辿り着いた百名が、家康に襲い掛かる。そして遂に首を獲るかと思われたその時。
――グチョッ。
彼らの腹を、血と同じ味の物質が貫いた。
「届いた……ぞ、天下人の、首、に、しま、ずの、や、り……」
その槍は、家康の軍配に防がれていた。そして馬印は倒れなかった。
島津豊久、享年三十。栄光の眼前の散り様であった。
******
遂に直政らの軍二万が追いついてきた。義弘と宗茂は、家康の首を諦めざるを得なかった。
「豊久様、御討死! 家康の首未だ獲れず!」
「甥御が……あい分かった! 退却すっど! 生存した後、豊久の墓を建てん!」
島津と立花はがら空きの伊勢街道を目指し、退却を始める。この日最も家康の命を脅かした二人を逃がすまいと、猛追が始まった。追いつかれまいと、次々に捨てがまられていく命。双方が死にもの狂いである。
しかしここで遂に、立花軍が先頭を行く井伊・松平軍に捉えられようとした、その時である。
「立花はやらせぬ!」
引き返してきた小早川=志賀軍が井伊軍の横っ腹を突いた。
「何だとぉ!?」
「ぐわぁぁっ!?」
左翼は無警戒だった。直政、忠吉が銃撃を受け重傷を負う。これに東軍諸侯は堪らず足を止めた。止まったのである。
「親次……!」
「宗茂、お前のお蔭で楽しませて貰ったわ! 生きろ、生きてもっともっと楽しんでみせよ!」
聴こえはしない。二人の距離はもう何里離れているか見当もつかない。宗茂と義弘を逃がした後で、親次は吠える。迫りくる死から、体を守るために吼える。
「逃がすな! 志賀親次、奴だけは逃がすなぁ!」
『天正の楠木正成』志賀親次が乱戦の中に消えて行く。
福島・藤堂が襲い掛かろうとした、またしてもその時、後方から新手が現れる。
「家康、覚悟ぉぉ!!」
「何!?」
家康は守ったという、安心が彼らを油断させた。無警戒となった後方で躍動するのは……島左近と500の石田兵である。ワザと突撃のタイミングをずらし、家康への道筋の出来るこの瞬間を、ずっと狙っていたのである。その一瞬をついて、親次は戦場を離脱する。
「くそっ、左近だ、左近だけは討ち取れぇ!」
再び刃が家康に向かう。しかし福島・黒田の兵は左近の名を聞いただけですくみ上る。鬼の様な武勇が、脳裏に焼き付いて離れない。
「フハハ、どうしたどうしたぁ!!」
左近の近臣は一人づつ討ち取られる中、左近だけは討ち取られない。遂に最後の一人になった左近を、徳川兵だけが必死に止める。
「うおりゃあああ!!」
「ひぃぃぃ!?」
その渾身の長刀は、細川勢をも怯ませた。それでも、数万対一人の差は、最終的には覆せなかった。
――殿、お喜びを。我らの名は、後世まで残りまする!
「来いやぁ!! 島左近の首、安くは無いぞ! ガッハハハ!」
笑いながら左近が大軍の中に消えて行く。死体が見つからないほどの乱戦が、関ヶ原の終幕を告げた――。




