第六十四話 塵となるまで
「御注進、黒田・細川・そして徳川勢! 併せて一万五千に、我が軍は包囲されかけておりまする!」
「……そうか。味方は」
「島津様、小早川の志賀様、松野様は健在の御様子。他の大名家は……」
「……ご苦労。下がれ」
「はっ! し、失礼致しまする!」
伝令を退らせると、三成はその場にいる家臣団の顔を見た。一旦戻らせた島左近、渡辺新之丞を始め、誰も彼も苦い顔をしている。
「日暮れだというのに、やつらに撤退の意志はない。今日で全て終わらせる気の様だ」
「殿。もはや選択肢は二つに一つにございます」
「申せ」
「知れた事。名を惜しみ、玉砕して果てるか。若しくは再起を図り、殿を退却させるか。どちらにしろ、我らは死にまするな」
「……」
「ご決断を」
三成は、三つめの選択肢が一瞬頭に浮かんだ。自分の命を犠牲にして、家臣達の命を救うという選択肢である。家臣達からはその覚悟だけで、既に感謝してもしきれない。殺す様な真似はしたくなかった。
しかし、それはこの戦の責任を取る事を放棄する、という事に他ならない。秀頼の親衛隊を参戦させてしまった以上、この敗北で秀頼にも責は及ぶ。戦い抜く事こそ、秀頼と秀吉への忠節に他ならない。どちらも救いたい、しかしこの二つは悲しいかな、背反しているのである。
「殿」
「何だ、左近」
「殿は御立派になられました。あの老獪な家康を、太閤殿下すら一時は破った家康を相手に、ここまで伍する戦ができたのでございます。やはり我が目に狂いなし。この左近、感服致しました」
「……何が言いたい」
「しかし、殿には一つだけ足らぬものがござる。我ら兵を切り捨てる勇にございまする」
左近は、その強靭な握力で三成の手を握る。三成が顔をしかめる程のその力強さは、今からいう事に有無を言わせないという確固たる意志の証。
「殿の優しさは、良くして頂いた我らが最も理解しており申す」
「左近……?」
「故に、我らの覚悟に一分の陰りもなし」
左近は一瞬の隙をついて、三成自慢の乱髪兜を奪い取る。
「何をする! 無礼であろう!」
「夏目吉信という武将をご存じか?」
「何だと?」
「その主であった家康が相手とは、皮肉でございますな。……我らの意志は梃子でも動きませぬぞ。殿!」
「殿」「殿!」「お逃げ下さい!」「我ら、微塵の後悔もござりませぬ!」
「お主ら……」
左近は兜を被ると、ニヤリと笑う。三成はその目、その表情に見覚えがあった。信幸と宗茂である。左近もまた、戦でしか生きられない生粋の戦人である事を悟った。
――この戦で名を成さしめるなら、それだけで良いのでござる。
口にしたわけではない。しかし目が口ほどに物を言っている。三成にはその言葉が確かに届いた。
「すまぬ、すまぬ……」
「殿の気概をもう一度、大坂城で……その時に、我らあっての事であると。その念を頂ければ誉也」
「左近、新之丞、兵庫、郷舎……」
「さらばでござる。努々、我らを無駄死にさせませぬ様! 御免!」
全員が、思い思いに陣から飛び出す。三成を逃がす。そのためには統率よりも、全員が死ぬ気で……否、死にながら戦う事が肝要。無欲な三成が唯一集めた宝物達の、最後の晴れ舞台が始まった。
******
家康は、ほぼ勝利が確定した戦況にあって未だ緊張していた。三成を大坂城に入場させてしまえば、また全てが振り出しである。恐らく、三成は影武者を使ってでも逃げると考えられる。その三成の姿形を、若い将達が捉えられるか……。自分ならそんなヘマはしないのだが、と家康はキリキリと胃を傷ませる。
本当は総力を挙げて三成を捕縛したいところだが、全軍は差し向けられない。毛利に背後を突かれるからである。現在の毛利軍の包囲は家康15000、秀忠15000、鍋島勝茂ら5000。毛利20000を35000で囲んでいる状態である。三成の掃討へ差し向けたのは、榊原康政を始めとする20000。十分な数であるはずなのだが……。
「父上、康政なら必ず」
「分かっておる。今は毛利に三成を救援させぬ事よ」
「三成さえ捉えれば、毛利は降伏致しましょう」
「左様、もう我らは勝っておる。それもこれも、お主と伊豆守のお蔭よの……」
家康は松尾山を見やった。この戦で一番の激戦がそこで行われた事は、当然知る由もなかった。
******
「諦めろ、新之丞」
「くっ……」
満身創痍となった渡辺新之丞の突きを、又兵衛は簡単に見切っていなす。つい数時間前に戦った新之丞とは、もはや別人と言える動きの鈍さであった。
それもその筈。又兵衛に辿り付くまでに新之丞が斬った人数は……十人を数えるのだから。既に負った矢傷の深さから片腕はぶらりと下がり、二つの足も疲労で震え出している。
「周りを見ろ。もう終わりだ」
「終わっておらぬ」
「果たしてあの治部少輔に、そこまでの価値が」
「手前などに……何がわかるものかぁぁ!」
新之丞の全身全霊の突きは、その体のフラツキからは予測しえない速度で又兵衛に向かう。
「殺ったぁぁ!」
「むっ」
その切先は変則的な軌道を描き、又兵衛の反応を更に遅らせ……彼の頬を掠めた。
――しくじった、か。殿、来世では約束通り、十万石にて仕官致したく……。
「御免」
「ぐふっ!!」
脇腹を後の先で、又兵衛の槍が貫いた。どこか懐かしい、熱を持った味わいが舌に広がったかと思うと、口から赤黒い血液が溢れ出す。
「十万石の傷。忘れぬぞ、新之丞」
又兵衛は顔を上げる。戦場は、もはや三成を逃がす為だけに存在する死兵でごった返していた。宇喜多が敗走し、頼みの毛利が南宮山で足止め。そして相手は東軍諸将に加え、徳川本隊一万以上が参戦。勝てる見込みは零である。
その事実を知った数刻後には、三成以外の石田軍特攻してきた。又兵衛は新之丞を探し、討ち取った。しかしそれは技術での勝利であり、気迫では完全に負けていた。だから手傷も負ってしまう。
新之丞だけではなかった。蒲生頼郷、舞野兵庫助……既に討死した石田家臣達も、十人以上の死傷者を出して散っていった。島左近などは、未だ粘って損害を負わせ続けている。
――俺にも、あの気迫が出せるなら……。劣勢の戦いも悪くはないかも知れぬ。
又兵衛は首を狩りながら、ぼうっとそんな事を考えていた。
******
「えぇい、治部ばどげんなったとね! 伝令が戻って来もはん!」
島津の陣では、豊久が吼えていた。総大将を失っては島津の面目が立たない。完全な負け戦であったが、三成の身は石田家臣と島津の奮戦によってなんとか支えられていた。しかし、徳川本隊によって完全に連絡路が断たれ、音信不通となってしまったのである。
「落ち着かんか、豊久」
「じゃっどん叔父上!」
「事ここに至っては致し方なかと。後は、我が身をどげんすっかのみ考えもうそ」
「我が身? はっ、叔父上ともあろうお方が。もう玉砕しかなか。見んしゃい、この陣形! 一分の隙もありゃあせんわ」
豊久は半ばヤケクソであった。そう、囲まれているのは三成だけではない。島津と小早川も、藤堂・京極・田中らに囲まれ万事休すの状況なのである。
「分かっておる。問題は、その玉砕ばする時を見定めっ事じゃ」
「面白か! 高橋紹運は763人で我ら島津の3000もの兵を斬り殺したでごわす。我らはこの2000の兵で、万の兵ばぶっ殺しちゃる!」
「急くな、豊久。狙うは家康の首ぞ」
「応よ!」
三成との連携を不可能と断じた義弘は、自陣に戻って兵を休ませていた。仮にも総大将である三成を助けたいのはやまやまだが、午前中から戦い続けている兵の疲労は限界だった。
――ここで休ませ、最後の一撃を……!
今はただ、密かに牙を研ぐ。勝負は松明が必要となる頃合いだと、義弘は決めていた。
******
「主馬! 生きておったか」
「阿呆か、親次! この儂が徳川勢などに討ち取られてたまるかい」
「しかし、随分と減ったのう……」
一方、島津と共に生き残っていた小早川残党の二人。7000の兵は乱戦で逸れた者、逃げた者、そして戦死した者を引いて4000までに減っていた。しかも、小早川の防護柵付の陣は松尾山に構えられている。今では真田信幸に奪われ、有効活用されているだろう。松尾山に退こうにも、島津同様包囲は固い。島津はまだマシであった。彼らには休める場所すら無いのである。
親次は必死に鼓舞するも、今のままでは兵の逃散は増えるばかりである。数が保てる内に、一点突破を試みるしかない。
「秀包殿も、秀秋様もきっと生きておられる。主馬よ、狙いは分かっておるだろうな?」
「知れた事。内府の首よ!」
二人は拳を合わせ合うと、自分達の配下の指揮を保つために持ち場に戻る。勝負は、暗闇になる寸前。松明が必要になる時分となる事を『天正の楠木正成』は考えていた。
******
「何という事だ! 味方が……誰もおらぬではないか!」
「有り得ぬ、たった、たった一日の戦闘で斯様な……ッ」
将達の怒号が走る。宗茂達が松尾山から下山し、到着したのは屍で塚が出来そうな戦場であった。一刻前に到着できていれば、石田・島津と連携が可能だったかもしれないが、その二隊が完全に包囲されてしまっている上、自軍の数は3000にまで減っている。
――あの男、この現状を隠すために儂の足止めを!
宗茂は信幸を叩きのめした。しかし、実際は信幸に戦略的敗北という土を付けられていたのである。もう伝令を送る先も無い。
「兄上! 京極が向かって来まする!」
「因縁の大名家ではないか。丁重に持て成してやろうぞ。鎮幸、惟信!」
「ははっ!」
小野鎮幸と由布惟信に先鋒を任し、京極軍と相対する。立花の地力ならば問題のない戦であるはずだが、真田・本多に続く連戦とあっては、とてもいつも通りの戦いは出来ない。包囲分断を防ぐのが精いっぱいであった。
だがそれは、兵のほとんどが戦場に漂う宗茂の意志を感じ取っていたからでもある。
――殿は、必ず何かをやる。黙ってやられはせぬ……そういう御人じゃ!
今は耐える。宗茂の合図があるまで。
「直次」
「はっ」
「松明は、あとどの位で必要かのう?」
「……一刻かと」
「うむ」
信幸にしてやられた宗茂であるが、タダで転ぶつもりは毛頭なかった。当然狙うのは、総大将の首である。
******
「我こそは石田治部少輔三成じゃあ! 黒田に細川、徳川の雑魚どもめが。大義は我にある、挑めや挑め!」
兜と馬印を三成から預かった左近は、狙い通りに敵を引き寄せていた。新之丞が逝った事を知ってか知らずか、その顔は笑みに満ちていた。
左近の声は、老齢にも関わらず良く通る。戦での憤怒、理不尽を代弁するようなその怒号に、黒田家の兵達は恐怖した。だが、その声が長政に届いてしまったが故に、看破されてしまう。
「聞け、黒田兵! あれは三成ではない! ガキの時分から奴を見て来た儂は騙されぬ、あれは影武者である。 騎馬隊! 奴は無視しろ。遥か後方を走る敵を追うのじゃ!」
左近は、三成というには余りにも猛りすぎた。秀吉の人質時代から三成に会って来た長政には通じない。左近の横を、次々と騎馬が通り過ぎて行く。一瞬、追う事を考えた左近だったが、他の大多数の大名家にはバレていない筈である。ここで必死になって追えば、自分が三成でないと認めているようなものではないか。
――ここは耐え、敵を一人でも多く引き付ける!
しかし、左近のアテは外れる。気づいたのは黒田だけではなかった。包囲に参加していた福島家・加藤(嘉明)家も、そして細川家も。激戦を続ける左近を無視して三成を追っていく。左近の考えている以上に、三成の顔は広く、記憶に残っていたのである。
それでも、島津・小早川と連携さえ出来れば命を賭して、彼らを止めることは可能であった。しかし、その連絡路は徳川勢によってガッチリと遮られている。二家共に、三成を助ける術がない。
――家康……妖魔めが!
左近は自らの描いた絵を完璧に覆した家康に感服し、憎んだ。許せなかった。自分の才能を腐らせず戦場で発揮させてくれた三成が、家康の智謀・運気故に討ち取られる。腸が沸々と煮えくり返る。にも関わらず、左近の笑みは増していく。
「ククク、カッハハハ! 然らば勝負所、見極めねばな」
血飛沫が飛ぶ。左近はまた一人、敵騎兵の首を刎ねた。
******
「殿、追っ手は我らが食い止めまする!」
「どうか生きて大坂城まで! 田辺城の援軍も、直ぐ近くに来ている筈にござる!」
「……すまぬ!」
三成は駆けた。左近や新之丞の命を無駄遣いしないために駆けた。ただ一心に馬を走らせる。
だが、旗指物を追っても、馬印を隠しても、安物の兜を付けていても……。その存在感は隠す事が出来ない。危険が迫れば、兵はどうしても守ってしまう。慕われているが故に、三成であると示してしまう。
「治部少輔であろう! 部下を見捨てて生き延びるか!」
「黙れ下郎が! 大坂方に栄光あれ! 殿、おさらばにござるぅ!」
一人、また一人。塵芥が如く親衛隊は減って行く。長政、正則、嘉明、忠興。四大名が放った追手は、三成を今にも捉えんとしている。
――最後の一塵となるまで、諦めぬ。太閤殿下……豊国大明神よ、我に御加護を!
後ろでは断末魔が次々とあがる。ゴリゴリと首の骨を削る音も、微かに聴こえた。それでも三成は振り向かない。振り向けば、その瞬間に名もなき雑兵は無駄死にとなる。
――もう少し、きっともう少しで田辺城の兵達が……。
「治部の畜生めが、よくも玉様をー!許さぬ、許さぬぞぉぉ」
細川兵の怒号も聞き流す。追手の数も、親衛隊の犠牲で徐々に減ってきていた。これならば逃げ切れる。その光明を、頭に思い描いた三成であったが。
「榊原康政、推参! 治部少輔の首を貰い受ける!」
最も体力の余っている康政が、ここで四大名の追ってを抜いて現れた。信幸が中山道軍を一日休ませた事が、ここで活きた。活きてしまった。もう三成の手勢は、100も残ってはいない。追ってきているのは三十倍、3000の兵である。
「うわぁぁぁ!!」
「ぬわっ!? くそ、どかぬか雑兵共!」
兵の八割が、康政を止めるために引き返す。雑兵とはいえ親衛隊である。さしもの康政も一時、足を止めざるを得なかった。
「殿、御無事で!」
「殿、石田に仕えられた事は望外の幸せにござった!」
決死の人間の行動は、通常の強者を上回る。彼らの犠牲により、三成は逃げ切った……筈であった。
――パァン。
鉄砲の音が響く。予想外の音に三成が驚いて振り向くと、黒田家の猛将・黒田一成が切り札・騎馬鉄砲隊を引き連れて追って来る。
「たわけめが! 当たるわけが無かろう!」
確かに、逃がさないためには馬を走らせながらの飛び道具しかない。だが騎馬鉄砲隊は落馬スレスレの不安定さで放つため、狙った的への命中率は相当な使い手でないと皆無である。しかも、馬は鉄砲の音を嫌うため、下手をすれば追撃失敗に拍車をかける事になる。唐入り時の加藤清正を始め、考える大名は少なからずあっただろうが、成功はほとんどない。それほどの博打戦術であった。
しかし。
――ブシュッ。
「何っ!?」
悪夢であった。当たる筈のない弾が当たった。的の大きい馬の胴体に命中した。まるで、運命が三成を否定するかの様に。
「治部少輔ぅぅ!!」
足が止まった三成と親衛隊を、黒田兵が追い詰める。殺さない様に、末端を狙って槍を揮う。三成は、逃げる。最後の最後まで足掻き、逃げようとする。
ザクッ。
――例え肩を貫かれようとも。
グシャッ。
――例え手足をもがれようとも。
ベキッ。
――例え全身の機能を失おうとも……俺は諦めぬ! 直江兼続の様に! 大谷吉継の様に! 真田信幸の……。
その瞬間、途轍もない虚脱感に襲われる。その隙を逃さず、三成の手足は黒田兵十数人によって踏みつけられ、押しつぶされる様に上から取り押さえられた。
――最後の、一塵となるまで……。秀頼君を……秀吉様を……。
『気概がある!お主にしか出来ぬ事だぎゃあ』
『我らには、家康程の戦の才は無い。だが、気概がある。この日ノ本の誰にも負けぬ気概がな』
秀吉と兼続の言葉が、走馬灯の様に脳内を駆け巡る。そして、最後に浮かんだのは友からの手紙であった。
『其方が勝頼公となる様、我の目に入れる事、御免こうむりたく候』
――俺は、俺は……そんな……事には……。
午前中から、約十時間以上の戦闘。もう、体に入る力が無かった。三成は、遂に完全捕縛されたのである。
捕縛の完了を確認した兵達は暗がりに気づき、松明を付け始めた。




