第六十一話 宿敵来る
北側から迫る大谷吉継。猛っていた彼であるが、頭脳はなお冷静であった。騎馬隊に砂埃を巻き起こさせ、兵数の減少を誤魔化している。これにより、脇坂・小川・赤座・朽木らが大軍と錯覚し、後退する事を期待した。
が、策とは上手くいかない物。松尾山の地の利に味を占めた彼らは、安全地帯を手放そうとはしなかった。四者の合計兵力は3500。吉継・平塚・戸田は3000。兵数で劣っている上、相手は丘上。射撃の良い的である。信幸の前に難関が立ち塞がっていた。
だが、吉継らは既に死兵である。吉継の死力はまるで流行病の様に、兵達に伝染していく。吉継は思った。これは、日頃から兵達を労ってきた、確かな成果なのだと。媚び諂うのではない。本心から兵の安全を考え、褒美を与え、語らってきた。これは友・三成に倣っての事である。
――その三成を、伊豆守信幸……手前は!!
兵力では劣る。しかし士気の差では圧倒していた。そして、彼は知らない。南側に強力な援軍が来ていた事を。
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「すまぬ、才蔵とやら。援軍は出せぬ。いや、真田の功を考えれば出せぬとは言えぬが……300が精いっぱいなのだ」
「ご、御無体な! 我らが小早川を消さなければ、今頃この戦場がどうなっていたか。分からぬ高虎様ではございますまい!!」
「控えよ、下郎が!」
肺が破裂するかと思う程の全力疾走で、高虎の陣に辿り着いた才蔵であったが、高虎の反応は渋いものであった。怒りを露わにする才蔵に対し、近習が刀を抜きかけるのを高虎が片手で制す。
「怒りは理解できる。分かってくれとも言わぬ。だが大谷吉継・小早川秀包の攻撃を受けて、我が藤堂軍の兵力は2000を割った。討死だけで500だ。500だぞ? 負傷兵がその何倍か、想像もつかぬであろう」
「う……」
「援軍は出す。出すが、今は自陣の防衛と宇喜多の殲滅が最優先だ。それは伊豆守殿も分かっておられるはず」
――功を妬んでいるのか?
才蔵はそれを言葉に出すのを、寸でのところで堪えた。危うく手打ちにされるところだった。ここまでの戦功を上げた真田が消えれば、恩賞は自分達の所へ転がり込む……そう考えるのが自然だ。高虎に限らず、全ての大名がそう考えている様に、才蔵には思えてしまう。主君の身を案じるあまりに。
無論、高虎はそんな事を考えてはいないし、その余裕もない。それは今の彼が伝令に出す指示の細かさから見て取れる。それでも、筋違いと分かっていながらも、全軍を差し向けてくれない高虎を才蔵は恨んでしまう。
「重ね重ねお願い申し上げる! どうか、どうか藤堂家の全力を、大谷軍に差し向けて頂きたい!」
「しつこいぞ下郎! 下がらぬか」
「儂には謝る事しか出来ぬ……。すまぬ、才蔵。 今三成と秀家を逃がすわけにはいかぬのだ」
「しかし! このままでは殿が……伊豆守信幸様が!」
「…………500。これが限度だ」
「藤堂様!」
「援軍は出す。下がってくれ、才蔵殿」
今の高虎にとって、最大限の譲歩であった。現在藤堂・京極・福島・田中らが総動員で宇喜多秀家軍15000余りを、それ以外の全てが三成を包囲しようと躍起になっている。徳川家以外のほとんどの兵が満身創痍だが、首謀者であるこの二人を逃がすわけにはいかない。少しでも人数が必要なのは、高虎も同じなのだ。
才蔵は諦めきれないが、これ以上は利が必要となる。持てる握力を使い果たすまで拳を握りしめ、藤堂の陣幕を潜ったその時であった。
「……あ!?」
数騎の馬が、才蔵の横を横切った。真田の者なら、よく見知っている旗印を付けていた。才蔵がハッ、と後ろを振り返ると……1000を超える様な軍が、松尾山方面へ駆けて行く。それを見て、才蔵は藤堂の陣に戻り、高虎に平伏した。
「藤堂様! 今、今!」
「儂が呼んでおいた。……助かると良いな」
「はっ、ありがたき、ありがたき幸せ!」
援軍を引き出した才蔵は、再び松尾山へ疾駆した。
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「これが俺の策だ。周防、異論があるか?」
「……確かに、大谷軍を放っておけば他軍は壊滅するやもしれぬ。だが、その後に立花。兵の気力・体力が持つと思うのか、孫弾正」
「持つ。それが真田の兵だ。一度も負けなかった兵だ。貴殿にも徳川にもな」
「……まぁ良い。乗ってやろう」
松尾山城で兵が水分補給や腹ごしらえをしている間、周防は渋々信幸の説明に頷く。信幸はこの素直さが意外だった。てっきり、自分の軍略を揮いたいがためにこの関ヶ原に来たものだと思ったからだ。これでは周防は信幸にとって、ただの配下武将に過ぎない。
「忠政、本多家の武勇が頼りだ。お主にかかっておるぞ」
「承知。兄上と姉上、そして父上のため。必ずや」
「よし。あと半刻で奴は来る。兵の士気を上げておけ」
「応!」
忠政と周防を陣へ返した後、頼康が信幸へ近寄り、無言で手ぬぐいを渡す。
「お使い下され」
「すまんな……」
信幸は、ビッショリと冷や汗をかいていた。信幸の体質を、長年付き添った頼康はよく理解している。兵に緊張を伝染させない様に対処したのである。
「武者震までしよるわ。頼康、思えば遠くまで来たのう」
「はぁ」
「今なら父上の苦労、よく分かろうと言うもの。俺は若かった。蝙蝠の様に臣従先を変える父上に、義だのなんだの説いていた時分が懐かしい」
「義、でございまするか」
「家を守るなら、敵を撃退するだけで良い。上田は豊穣の地ゆえ、父上はそれだけに必至だった。義だのなんだのは、力のある家だけが語れる名分よ。もし、領土を広げようと思うなら……誰かを出し抜かなければならぬ。古今東西、誰もがそうして来たのだ」
その言葉は弱弱しかった。頼康は、信幸の中にまだ、三成がいる事に気づく。真田と徳川を守る為。戦人としての本能の為。もう行動は興してしまった。もう戻れなくとも、忘れたくとも、頭から離れない存在。頼康は案じた。果たして、信幸はこの業を背負って生きていくのか。
それとも、立花が解放者……否、地獄への使者なのか。
「奴なら、忘れさせてくれる」
「は?」
だが、戦いを前にして信幸は、体とは裏腹に笑っていた。
「奴となら、俺は余計な事を考える暇もなく戦える。挟み討たれて、冷や汗をかくほど追いつめられているのに……俺は嬉しい。奴の存在をただただ、ありがたく思う」
「殿……」
「俺は思う。死ねば天国、生きれば地獄とな。頼康、お主は死ぬな」
「御戯れを!」
頼康が激高したところで信幸は兵卒達へ振り返り、演説を始めた。
「皆の者、よく聞け。俺は昔、宗茂、刑部らと呑んだ事がある。我らの世代で最強の武将は誰か、と。その方らも度々している、他愛もない話だ。俺は当然、小松の顔が浮かんだがな」
ドッ、と笑いが漏れる。頼康は、つくづく信幸の大きさに感じ入る。大谷吉継、立花宗茂の二大強者に挟まれているのに、信幸は笑って昔語りをしている。兵の不安を和らげる、いつもの人心掌握術である。
「刑部少輔は我が弟・信繁と言った。宗茂は、誰とは言わなかったが……その目を見て分からない者はいない。謙遜しながらも、奴は立花こそ最強と、反り返っておったのよ」
「何と!」
「我ら真田や、本多家を差し置いて!」
「許せぬ立花め、傲りよって!」
雑兵も、歴戦の将も殺気だってきた。信幸は昔語りをしただけで、まんまと士気を上げたのである。そして、トドメの台詞を叩き込む。
「良いかお前達。この戦が終われば、俺は加増される。十万石か二十万石か、或はそれ以上かは知らぬ。どこに飛ばされるかも分からぬが、栄達だ」
「おお!」
「だが、それもこの戦に生き残ってこその話よ。相手は立花、小細工はして来ぬ。功を競え。功を焦れ。考えるのは俺がやる。功を上げれば加増してやる。お前達はただ、栄光だけを追うのだ」
「加増……!」
「良いか。家族、親族。戦後の保証も必ずしてやる。ゆえに何も考えず、敵を討て。真田家空前の栄達を前にして、祖父・幸隆や大叔父・頼綱、父・昌幸……そして弟の守って来た真田の武名を、奴らに決して渡してはならぬ。その方らの人生全てをこの一戦に賭けよ!」
「オオオオオッ!!」
信幸は声を張り、ムチを放つ様に言葉をぶつけた。冗長にならない簡潔な信幸の演説に、兵は沸き立つ。
「軍備はこれにて完了、だ。先程は馬鹿を申したな、頼康。忘れよ」
「信幸様……」
既に信幸は、三成の事が頭から外れ始めている。その余裕を無くしてくれた宿敵・立花宗茂の存在を、主君を案じる頼康も感謝した。同時に、死んでも信幸を守る覚悟を決めた。
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「秀包……間に合わなんだか!」
大津城を攻めていた宗茂は、胸騒ぎを感じていた。中山道に放っていた諜報部隊から、秀忠の軍数万が関ヶ原に間に合う、という情報を得たためである。大津城入城を宗義智にまかせ、自分は4000の兵と共に関ヶ原に向かった。義兄弟・小早川秀包と友・志賀親次の無事を祈りながら。
しかし、秀包殲滅の情報が入った。信幸がワザと逃がした小早川の捕虜によって。秀包が、松尾山新城に囚われているという情報のオマケ付きである。
「惟信(由布)。鎮幸(小野)。如何思う」
宗茂は、最も信頼する立花双璧・由布惟信と小野鎮幸に意見を求めた。
「罠でしょうな」
「右に同じく」
生涯で六十以上の合戦に参加した猛将の意見は一致した。宗茂も同意見だったらしく、およそあの真田らしくない策に拍子抜けしていた。が、直ぐにその考えは改められる。十時連貞と四人で議論した結果、立花家の方針が固まる。
「真田討つべし。秀包様助けるべし」
「同じく」
「同じく」
宗茂は苦笑した。罠と分かっていながら、その罠に飛び込む危篤な大名家は、我が立花くらいだと。しかも、宗茂も同じ気持ちであるから性質が悪い。否、性質が良いというべきか。
「しかし殿、籠城戦なら話は別です。治部少輔殿の救出に急ぎましょう」
「松尾山新城は伊藤殿が普請した堅城。山城である事も手伝って、易々と落ちませぬ」
「分かっておる。ばってん、奴なら城を出て戦うであろう」
「何故? 相手は最強・立花でございまするぞ?」
「治部殿を見限った不忠者。左様に堂々と戦いまするかな?」
宗茂はニヤリと笑う。
「不忠だの、裏切りだのはどうでもいい。伊豆守信幸は、儂と決着をつけたがっておるのじゃ」
「ははぁ、何かございましたな?」
「殿にも、負けられぬ理由がおありと見える。顔がニヤついております故」
「ふっ、勘の良い爺共よ……行くぞ!」
宗茂は迷わず、松尾山を登る指示を下した。秀包が捕縛された。親次も危ない。そんな状況で宗茂は、笑っている。信幸の行動に思う所はあれど、嬉しさが先行した。
――やはり、奴も儂と同じであった。左様な敵と巡り合えた事……神よ、感謝の極みにござる。
馬を走らせる宗茂の心は逸る。秀包の救出に逸っているだけでは無い事は、誰の目にも明らかであった。
「やはり、戦人の血は争えぬものよ。なぁ惟信」
「左様にございますな。殿を見ればわかり申す」
――だが伊豆守よ。貴方の敗因は、大義の薄さ。家を守るだの、新しい世だの。友を捨てた貴殿が左様な戯言で、この立花を倒せると……思わぬことだ。
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陽が落ちようとしていた午後六時、遂に大谷軍は松尾山に侵入した。
「脇坂安治の軍が見えたり!」
「吉継様!お下知を!」
全てを捨て、死兵となる覚悟を決めた吉継の配下達。吉継は痺れと戦いながらも、その幸せを噛み締めていた。
――ああ、良き家臣哉。
吉継はゆっくりと軍配を掲げ……渾身の力で振り下ろした。
「かかれ、敵は脇坂ら4000。真田の前に、前菜を平らげよ!」
「っらぁぁぁぁ!!」
歩兵部隊が飛びかかる。一日中、藤堂・京極軍と戦った筈の疲労を、今は精神が凌駕していた。体を騙していた。一人一人が、一騎当千と見紛う勢いで飛びかかる。
「お、大谷刑部の軍だぁ!」
「退くな、当たれ!藤堂の陣まで押し返せ!」
安治は必死の指揮を執る物の、元々会津出兵=吉継の最後の戦のために死にもの狂いで訓練を積んだ豪傑達である。防戦だけでも容易では無い。
「平塚因幡守為広、参る!」
「戸田勝成隊、続くぞ!」
二人の猛将が動くと、脇坂・赤座らの軍に動揺が生じた。元々連携の甘い即席の連合軍であったため、吉継の流言策によって同士討ちが発生しているらしかった。
「行けるぞ!この勢いのまま、真田の喉元に刃を突きつけよ!」
「父上!某も参りまする!」
吉継の息子・大谷吉勝も参戦し、被害を出しながらも大谷軍の圧倒的な展開が続く。
「くそ、藤堂はまだ来ぬのか!」
高虎の援軍を期待している四将は、兵の士気を保てていなかった。吉継が突破を確信した、その時である。
「放て!」
野太い声で発せられたその声に、歴戦の将である小川・脇坂はすぐさま反応した。
「退け! 斉射に巻き込まれるぞ!」
「下がれ! 弓矢が飛ぶ!」
――ヒュヒュン、ヒュパッ。
大谷軍の軍列後部に目がけて、真田軍の弓が斉射された。まさか真田が自ら出てくるとは思わなかった吉継は、面喰ってしまう。命令が途絶えた。命令を絶えず出し続けなければ、吉継を敬愛する配下達は……。
「殿を守れ!」
「吉継殿が危ない! 本隊へ合流する!」
戻って来てしまうのだ。吉継が人望を逆利用された事に気づいたのは、4000の兵に大打撃を与える好機を逃した後であった。
だが、真田は引っ張り出せた。元より、無事に帰るつもりなどない。持てる力の全てを余さず出し、特攻するのみであった。
「行け! 真田を、信幸を討ち取れい!」
吉継は軍を再前進させ、真田のみを目がけて歩兵をぶつけようとした。が。
「鉄砲隊、放て!」
――ドン、ドウゥン!
「うおっ!?」
吉継軍の足は止められた。丘に配備された鉄砲隊の放つ砲の威力と、その音にどうしても雑兵は足を止めてしまう。鉄砲の長所、音による恐怖心を利用した一手であった。
「怯むな! 子供騙しの鉄砲ぞ!」
吉継は必死に軍の前進を試みる。が、痺れた足はすぐには動かない様に、もう一度駆け出すまでの間は確かに生まれた。その隙に、四将が大谷軍の側面を突く。
「構うな! 進め、かかれ! 相手は真田のみぞ!」
しかし敵兵を蹴散らしながら進む大谷軍は、グングン真田軍へと迫る。遂に指揮官らしき人物の顔が見えようかというその時。吉継の目に、狼煙が映った。
「なっ!?」
松尾山城からの、立花宗茂迎撃の準備を知らせる合図であった。真田軍は事前に知らされていたのか、堂々と背を向け反転し、物凄い勢いで南へ駆けて行く。殲滅の好機であったが……。
「逃がすか、伊豆守!」
「行かせぬぞ、大谷刑部!」
「糞、どかぬか雑魚どもがぁ!!」
脇坂らに阻まれる。彼らが吉継を止めている間に、信幸は宗茂との対決に向かったのである。
真田・北条・本多連合軍3500対立花宗茂軍4000。勝利条件は、三成・秀家の捕縛まで宗茂を止める事。しかし、問題は吉継が四将の囲みを突破した場合、万事休すとなる事であった。
危機には変わりない。籠城をすれば、この危機は防げたのである。しかし、信幸はわざと背後を見せ、宗茂を誘い出す策を選んだ。三成を逃がさないため、そして、宗茂と戦うために。
――今参るぞ、宗茂!
九州・唐国を貫いた最強の矛・立花。徳川をも止めた最強の盾・真田。最強議論の解が今、明かされようとしていた。




