第五十九話 秀包の大義
南宮山では毛利勢二万と徳川勢三万が激突していた。だが高所を利用して得意の弓撃を仕掛ける毛利勢に対し、徳川勢は攻め手を欠く。更に長束・長宗我部の七千が合流し、遂に数の差を埋めてしまう。
「急げ!毛利を押し返して笹尾山に向かわねば、黒田・細川が危うい!」
急く家康に対し先鋒・吉川広家らは、矢が尽きるまで弓隊を下がらせない構えであった。徳川軍は近づけないまま兵数だけが減るという、ジリ貧状態になっていた。
広家は時間をかけて攻めている。三成が笹尾山の戦いを制すれば、連動して徳川を挟撃できる。そうすれば必ず勝てる。誰だってそう考える。
「丘から黙々と撃ちかけろ!こちらの兵を損なわず、徳川を消耗させれば……」
「ひ、広家様! 一大事にございまする!」
「何だ、小早川がどこぞを殲滅したか?」
「いえ、長宗我部が……」
「長宗我部?」
広家は、長宗我部の援軍も待つ意味を兼ねて行動している。だが、そういえば一向に援軍が来ない事が気になってはいた。
「何だ、申さぬか」
「ちょ、長宗我部の背後から、鍋島・龍造寺軍5000が現れましてございまする!」
「な、鍋島? 奴は松阪城を……馬鹿な!!」
広家は徳川軍の方を振り返る。何やら、急激に士気が上がっている様に見えた。
――まさか、内府の調略……? 一体奴は、何手先まで読めると言うのだ!?
毛利軍は地の利があるとはいえ、徐々に不利に陥ろうとしていた。
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「何故だ、何故毛利は来ぬ!」
徳川が反転してからもう数刻は経っている。にも関わらず、南宮山の毛利が徳川を押して笹尾山方面に来た、という報せは、三成の元に一行に届かない。
――まさか、計算違いが起こっているのでは……。
三成が懸念する中、南の情勢を知るために放った物見役からの伝令が駆けつける。全力疾走だったらしく、息も絶え絶えである。
「御注進、御注進!」
「ご苦労。誰かある。この者に水を……」
「三成様、小早川勢が包囲されましてございまする!」
三成の顔から血の気が引きかけた。
「ほ、包囲!? だが、残っている連中はもはや出涸らしの様なもの。小早川の強兵なら突破能うであろう?」
「そ、それが……」
伝令は躊躇ったが、躊躇ったからと言って事実が変わるわけでは無い。三成の目を見ない様に、声だけを張り上げる。
「包囲陣を組んでいるのは、本多、北条と……真田にございまする」
「そうか……」
三成は生返事をして数秒うろついた後、ようやく事態を認識して伝令の肩を掴む。
「な、何だと!?」
「み、三成様!」
「嘘だ!また徳川の間者に騙されよって!」
「考えてもみて下され! 真田以外の誰に、今の小早川の背後を取る事が出来ましょうや!?」
「嘘だ……」
三成の頭が、見ている景色が。白くなっていく。
「嘘だと言わぬかぁぁぁぁ!!」
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北に本多忠政と北条軍。西に脇坂安治ら4000の兵。そして南に真田信幸。小早川六千弱は最悪の陣形に追い込まれた。それでも、退路はある。包囲の穴である東を藤川沿いに駆け抜け、伊勢街道に出さえすれば……。
それもまた、信幸の狙いであった。完全に敵を包囲してしまえば、それはもはや死兵である。どんな臆病者であっても、死を覚悟すれば一騎当千となり得る。信幸は長い戦乱経験の中で、それを嫌という程学んでいる。故に、伊勢街道への道だけは開けておく。兵には逃げの選択肢を必ず残す。これにより敵兵の修羅化を回避するのである。
秀包もそれを分かっていた。この陣形では、殲滅は時間の問題である。秀包は覚悟を決めた。身を挺して、義弟を守る覚悟を。
「金吾様、お逃げ下さい!ここはこの秀包が引き受け致す!」
「嫌でございます!私は義兄上と共にあると誓った!もう迷いとうはない!」
「馬鹿者!」
秀包は秀秋の頬を思い切り叩く。驚きのあまり秀秋は、頬を抑えながら秀包を二度見する。
「あに……」
「その若さで死して、何の後悔もなく逝けるとお思いか!今後の身の振り方を、今度こそ自分で考えて……某の分まで、悔い無き人生を全うされよ!」
「しかし、兄上を置いては」
「自覚を持たれよ。其方は毛利両川・小早川の跡取りなるぞ! ……それに、この敗戦は某の責任にて」
そう言うと、稲葉正成と平岡頼勝に目くばせする。二人が秀秋を羽交い絞めにした。
「何をする!?放せ、放さぬか!」
「死なせたら化けて出るぞ。御二方、覚悟召されよ」
「殿を死なせは致しませぬ。ご案じめさるるな」
「頼む。……金吾様」
秀包は、先程叩いた義弟の頬をそっと撫でて微笑む。これから地獄へ突っ込む男の顔とはとても思えない。否、だからこその笑みかもしれなかった。
「お心、お健やかに。さらば!」
「あ、義兄上ぇぇぇぇ!!」
秀秋を見送ると、秀包は家臣達に檄を飛ばす。
「儂は梟雄の息子。義などなんだのというのは、お門違いかもしれぬ。それでも、秀頼君と秀秋様を御守りする事が、この戦における我らの大義ぞ!」
「オオオッ!」
「小早川の勇士共よ。命を惜しむな、名を惜しめ!毛利の戦、『表裏比興』に見せつけよ!」
逃散と死傷で既に五千弱にまで減った小早川軍は、前方の本多・北条に見向きもせず反転。松尾山の真田軍へ突撃する。戦国最高の智将・毛利元就の息子と言えども、この状況で打てる手立てなどない。奮戦している三成や毛利家のために、最も厄介な存在を消しておく事のみを考えた。
「鉄砲隊、弓隊。準備せよ。もう一撃だ」
だが、松尾山の高所を手放さない信幸の有利は動かない。死兵に近い今の小早川には、槍を合わせるよりも飛び道具が有効。言ってしまえば、石ころの一つも投げつければ立派な武器である。信幸が最も欲した物はこの地の利であった。
「手の空いている者は岩でも探して落とせ。近寄らせるな、寄らせれば討たれるぞ!」
信幸は焦っていながらも、指示は冷静であった。大谷吉継の援軍は、恐らくもうすぐやって来る。だからと言って今高所を手放せば、その前に小早川に壊滅させられる。油断は禁物である。
「放て! よし、鉄砲隊下がれ。続いて弓隊前へ……放て!」
鉄砲と弓を交互に撃ちかけ、秀包を近寄らせない作戦である。それでも秀包は、一歩一歩確実に信幸との距離を縮めていく。その死にもの狂いは、信幸の背筋を凍らせかけた。だが、その数は一つ、また一つと削られていくのだ。松尾山の山道に、屍と脱落者がごった返す。
「怯むな!真田は目の前ぞぉ!」
秀包はここを死に場所と決めている。その覚悟が信幸を震わせる。何しろ数はまだ、こちらが不利なのだ。接近されれば壊滅もあり得る。だが、信幸には確固たる自信があった。手子生城で、周防と戦った。上田城で、父と共に戦った。いずれも勝利したあの戦の方が、何倍も不利であったのだ。
――よかろう、秀包。お前の最期に華を添えてやる!
「槍を持て。奴らに、名を残させてやろうぞ」
目前まで迫った小早川を認め、信幸は覚悟を決める。数は三千弱まで減っている。鉄砲・弓隊を除けば、信幸の兵力は精々1000。
「頼康!才蔵!」
「ははっ」
「見ての通り、相手は死兵だ。彼らを一度だけ押し戻す。一度だけで良い。いいな」
「御意!」
承ると、二人は騎馬に乗って軍の先頭を走りだした。
――そう、それで良い。
信幸もその後に続く。槍隊は、更にその後ろである。普通は逆だが、死兵の相手は並大抵の将では務まらない。忍もこなせる才蔵、剛勇持ちの頼康を先に出し、出鼻を挫けば死兵と言えども一度は退く。
「頼康様に続けぇ!」
「信幸様を守るぞ!」
死兵を押し戻す唯一の策は、自らも死兵となる事。上司が命をかけて飛び込めば、信幸が散々労ってきた家臣団は死にもの狂いで戦い出す。そうして、秀包の軍と激突した。
「真田ぁぁ!」
「小早川を押し戻せ!たった一度だけで良い、一撃の槍に全てを賭けよ!」
加速を止めない秀包に対し、真田軍は一点集中で槍衾を形成。だが死を覚悟した小早川兵はそれすらも潜り抜ける。先頭に立った頼康が囲まれそうになる。
「なんのっ」
しかし剛の将・矢沢頼綱の、れっきとした真田の血を引く頼康は信繁並の体術でこれを圧倒する。槍を崑の様に使い、周囲の敵の腹部に強烈な一打を放っていく。それでも倒れない兵士達は、一斉に頼康に襲い掛かる。
「えぇい、ままよ!」
この危機に対し頼康は、何と槍を構えている前方の敵の手元目がけて飛び込んだ。首筋を切先が掠める。しかし動脈は無事を保ったまま、槍の仕えない間合いに入る事に成功した。すかさず小刀を抜くと、喉元目がけて思い切り突き刺した。
――ブシュウッ。
一瞬、噴水の様な出血が死兵達の目に映る。返り血を被った頼康の姿に、彼らは一瞬死の恐怖を思い出し、思わず反転、退いてしまった。
動揺を感じ取った秀包が、すぐさま刀を抜いて活を入れる。
「退くな! 大将首をあげるまで退いてはならぬ!」
その言葉を聴きとった信幸は、抜いた刀を鞘に納める。
――もう遅いのだ、秀包。
「義兄上ぇぇ!!」
秀包はその声に反応し、心が折れた。そう、小早川軍が一瞬押し戻されている隙に、本多・北条・脇坂らの軍勢が、背後から追いついてきたのである。
秀包はもう、指示を飛ばさなかった。雑兵の誰一人に構う事なく、ただ真っ直ぐ、前に見える六尺の男……真田信幸目がけて単騎駆けの暴挙に出た。
「死に土産、置いて行けぇぇ!!」
信幸は一歩も動かず、ただ立っている。背後から弓矢が、秀包の左肩に刺さる。
――治部殿。負け戦じゃ。どうか、其方は逃げ延びて再起を……毛利のためにも!
徐々に大きくなる信幸の姿。確実に迫っているのに、全く動じる様子が無い。槍も持っていないし、刀も抜いていない。秀包は出血で頭がボヤけている自分に気づく。濁点のつく適当な音を口から発しながら、気力を必死に維持して走る。
背後から、今度は右肩に矢が刺さる。
――まだだ、まだ、儂の槍は奴に届いていない!真田、真田ぁぁぁ!!
止まらない。死に際の人の意志は、力尽きるまで止める事はできない。近づくその脅威から、本当なら信幸は逃げ出したかった。しかし、その怨念を受け止める義務が自分にはあるのだ。二人の距離はあと五尺、四尺、三尺……。
――ボグッ。
あと二尺。肉薄の寸前……信幸の元へ戻って来た才蔵の強烈無比な当て身を腹に喰らった秀包は、途切れ行く意識の中で思う。
――ありがとう、宗茂。お前のお蔭で、儂は義将として生涯を終える事が出来る。お前さえ生きてくれれば、儂は……!
その体を、才蔵が支えた。大将の捕縛は、遂に小早川軍の士気を完全に削ぎ、敗走させた。こうして松尾山は、真田信幸らによって完全に制圧されたのである。




