第五十八話 密なるを以て
「今だ、放てぇ!」
関ヶ原に信幸が着いた頃。上田城では昌幸の築いた出丸を使い、信繁率いる鉄砲隊が仙石軍を蹂躙していた。
「父上、戦果は上々。このまま数を減らせれば森家への侵略も可能かと」
「ようやった。しかし仙石もしつこい。流石は織田家古参の将、やりおるわ」
仙石秀久の奮戦により、信繁と昌幸は上田城に足止めされていた。そこで出丸を築いて挑発を重ね、何とか仙石軍を誘き出したところへ一撃を加えたのである。信繁の手柄であった。
「出丸は大事じゃ。良いか源次郎、出丸にて相手をねじ伏せる感覚……よく覚えておけ。必ずそなたを助けるものぞ」
「承知!この防衛戦、兄上がおらず不安でございましたが……寡兵でも中々どうして。持ちこたえられるものですな」
「当然じゃ。これが真田の戦よ」
「ははっ!」
ペラペラと喋る信繁を見て、昌幸は昔信幸を叱った事を思い出した。
『父上!何故某の書物を燃やしてしまわれたのです!』
『嘘八百、下らぬ宗教の類。どこの商人に貢がれたか知らぬが、あの様な悪趣味な物は真田に必要ない。禁を破ったお前が悪い』
『されど……まだ読み終えていなかったのに……』
幼き信幸はポロポロと涙を流していた。昌幸はその姿を見かねて、ポンポン、と頭を撫でて教訓を与えたのだ。
『そうまでして守りたかったなら、儂に自慢などしなければ良いではないか?』
『え?』
『良いか。敵を欺く際は、口を開くな。謀は密なるを以てよしとするものだ。沈黙こそ、最大の妙手と心得よ』
『沈黙こそ、最大の妙手……』
謀は密なるを以てよしとす。三略という兵法書に記されていた言葉である。昌幸は、何度も何度も、遥か西・関ヶ原へ想いを馳せた。
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「六文銭……真田、真田だ!」
「真田が来た!我ら大坂方の援軍じゃあ!」
六文銭の出現に、西軍の士気はうなぎ上りとなった。それもその筈、残り六万以上の敵兵を援軍なしで殲滅しなければならなかった所へ、元気な援軍が現れたのだ。『後は彼らに頼れば良い』と、沸き立つのも当然である。
「殿ぉ!真田殿が、我らの援軍として関ヶ原に参上しましたぞ!」
「さ、真田が!?旗は、真紅(信繁)か?群青(信幸)か?」
「いえ、黒地に金との事で……どなたかは分かりかねますが、ともかく真田軍に相違ございませぬ」
「うむ!いずれにせよ我が友、我が合婿の家が、来てくれたのじゃ!今迄生きて参って、斯様に嬉しい事はなかった!」
報せを受けて、狂喜乱舞する三成。しかし六文銭の持ち主は三成への挨拶はせず、迷わず松尾山へ駆けて行く……。
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時を遡る事二刻(約四時間)前。周防と北条氏盛は中山道を進む信幸の軍勢を発見した。
「孫弾正!こちらだ」
「周防!関ヶ原の戦況はどうなっておる!」
「布陣図がある。これを見よ」
信幸は周防の手から乱暴に書物を奪うと、クシャクシャと音を立てながら広げた。
「これは……」
三成の寄越した適当な布陣図と、詳細は違うが大筋が似ていた。笹尾山の石田、南宮山の毛利に徳川本隊が挟まれている。撤退は難しい。
「内応は!?内府様の事、無策ではあるまい!」
「吉川、小早川に調略を仕掛けたが……筑後守秀包の参陣でご破算よ」
「秀包が……!?という事はまさか、あの男も?」
「あの男?」
「立花だ。奴はおるのか、おらぬのか?」
周防は首を横に振る。その情報を得た信幸は、頭の回転数を上げる。
「そうか……ならば、迷っている時間はない。周防、お主なら儂が何をしたいかわかっておるな?」
「ふん、北条軍に説明はしておいたが……上手くいくかのう」
「慣れておる。それに、情報は漏れておらぬ。上手くいかぬ理由がないわ!」
「相手は、どうする。お主の策が使えるのは一度きり。即ち、一人の相手にしか通用せぬのだぞ」
信幸は、その質問に長考した。周防は頭を掻きながら詰め寄る。
「小田原評定ではあるまいし!ハッキリ申せ、石田治部少輔を討つと!」
「……いや、お主にも分かっているはず。生命線は、小早川。三成はその後だ」
「大将を討ち取ればよいだろうが」
「否。俺は私情で申しておるのではない……小早川だけが元気なのだろう?そこを潰さば、相手の士気は零となる」
「お主……」
「行くぞ忠政。敵は小早川秀包。早急に殲滅すれば、形成は逆転する!」
「はっ!義兄上を信じまする!」
「本多家と北条家にかかっておる。……頼むぞ!」
「承知!」
周防は駆けていく信幸と忠政の後ろ姿を見つめる。
――甘い。一度情を入れた者には、どこまでも甘い……!
「氏盛様。参りましょう」
「ああ。我らも策の要らしいからな。頼むぞ周防」
「分かっておりまする……」
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そして現在。六文銭を掲げる真田信幸軍1500が、松尾山へとひた走る。その旗を見た誰もが、京極・藤堂攻めの援護に回るものと期待した。
だがその後方から、別の旗をはためかせた軍隊が追ってきている事に気づく。『三つ鱗』北条の旗と、『胴黒に本の字』本多の旗。約2500程度の軍が、信幸を追っていく。
「何だ!?」
「義兄上、あれは真田……と、北条と、本多……?」
秀包と秀秋は、よく見れば後ろをチラチラと振り返りながら、或は転げまわりながら惨めに逃げている真田の軍隊を見つけた。それに、逃げるなら大将を真っ先に逃がさなければならないにも関わらず、長身で知られる真田一族の姿は見えない。明らかな雑兵が先行していた。
後ろからは何と、もはや大名ではない筈の北条の旗が見える。秀包は、宗茂の言葉を思い出した。
『敵方には、北条がいるらしい。奇襲部隊も撃退された』
三成の話では、真田家は満場一致で西軍についたという事であった。昌幸から来た書状までもを、西軍諸侯に見せて回っていたから、間違いなく真田は味方である。そして本多は言わずと知れた徳川の家臣である。つまり、今目の前に見える光景は……。
「いかん、真田は本多・北条と一戦を交え、敗走しているのだ!」
「義兄上、如何致しまする?」
そう、悲惨な敗走を見せる真田軍は松尾山……小早川軍の方角へ向かってきている。ならば、『同じ西軍である小早川』の取る道は一つであった。
「方々、真田を助けるぞ!北条、本多を迎撃する。心配無用、見た所こちらの数が圧倒的に上だ!」
「オオオオッ!」
「先鋒はこの秀包自らが引き受け申す!金吾様は、真田勢を迎えて吸収して下され!」
「承知!」
秀包は手勢二千を引き連れて忠政と周防の軍勢へ突っ込んでいく。彼らを足止めしている隙に、秀秋が逃げ来る真田軍を自軍へと吸収し、反撃に転じる。当然の策であった。
――かかった!
兵に塗れてヨタつきながら、信幸は脈拍の異常な加速を感じた。もし、もしも策が看破されたなら、統率のない今の真田軍は、勢いに乗る小早川相手では瞬殺されるに違いない。その事を誰よりも理解していたからである。
だが、信幸には成功の確信があった。
――俺は信じる。『三成を信じる』。
「かかれぇぇ!」
「あれに見えるは小早川秀包!大将首ぞ、討ち取れぇ!」
だが如何に秀包と言えど、構成の内の主力は本多家の精鋭部隊である。真田への追撃を邪魔するのが精いっぱいであった。
「真田殿、ご安心を!敵は義兄上が足止めまする!」
秀秋が呼びかける。だが、真田の雑兵達は小早川の軍をすり抜けて、更に南へ走って行く。秀秋と、側で指雑兵へ示をしていた稲葉正成は驚いた。
「なっ?真田は何をしておる、そちらは松尾山……」
「真田め、相当慌てておる様子でございますな。接収して落ち着かせませぬと」
信幸は、走った。バクン、バクンと心拍の振動を体に感じながら、走った。
――気づくな、まだ気づくなよ……!
真田を戦力と数えたい小早川は、反射的に真田の後を追う。そして、真田軍が松尾山の丘上に達した時。最後列にいた雑兵が素早く整列し、種子島に弾を込め始める。
「え?」
状況を飲み込めていない秀秋軍の顔を見て、信幸は安堵と、更なる緊張に包まれる。
――……逃げ切った。この博打は俺の勝ちだ、秀包。
信幸の甲冑の下は、手洗も満たすような汗であった。賭けに勝った信幸は、震えの止まらない右手を静かに掲げた。
「……鉄砲隊。構えい」
秀秋は、そう聞こえたような気がした。銃声鳴りやまぬ戦場で、耳が可笑しくなったのだと思った。だが、銃口は向けられている。縄には、既に火が点いていた。
――まさか……まさかそんな!?
『その事』に秀秋が気づいたのは、自軍の前列、一千余りが死の間に半歩、踏み込んでからであった。
「いかん!全軍、止まれぇぇ!!」
しかし、秀秋の指示は間に合わなかった。小早川軍は鉄砲の、必殺の間合いに誘い込まれ……。
――すまぬ、三成。
風と、情を切り裂いて。彼の右手は振り下ろされる。
「……放て」
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――パパパン、パン!
「え?」
後ろに敵はいない。その間違いない事実を突き破るかのように銃声が聴こえて来た。本多主力と鍔迫り合いを演じていた秀包は思わず疑問符を漏らしながら、斬りざまに後ろを振り返る。
その網膜に飛び込んできたのは、助けた筈の味方に高所から撃ちかけられている、未来ある義弟の姿であった。
「……え!?」
その衝撃的光景が生み出した秀包軍の油断を見逃さず、忠政と周防は槍隊を前面に押し出す。
「よしっ、流石は義兄上!皆の者、挟撃は成功した!突け、圧せ!急げ、小早川を滅せよ!」
「急げ!他の隊が気づけばこの軍略は破綻!急いで壊滅させるのじゃあ!」
「挟撃……?壊滅……?」
そうなのである。東軍の大名・重臣は、真田が来ることを周防から聞いて知っている。西軍の大名は、この関ヶ原に来る真田が敵であるという事を、誰一人として知らなかった。つまり、双方から無警戒のまま、敗走を装ってこの松尾山へ来れる。そして、容易に小早川の背後と高所を占拠できた……。
信幸が選んだ策。それは両軍の情報網の中で、唯一ねじれの位置にいる自らを最大に活かす策。即ち沈黙という名の、最大の妙手であった。小早川軍は、挟撃の陣形を完成させるための信幸の敗走演技に、まんまと嵌められてしまったのである。
――馬鹿な……。
唖然とする秀包。信じられなかった。大垣城で三成が『さいつ殿が味方についてくれた』と、あんなに嬉しそうに手紙を見せて回った、その相手が。敵方の最大戦力である、三万八千の秀忠軍を引き止める役を買って出る。その男気に皆が涙したその相手が。
「我らを、治部少輔を裏切ったというのか……真田ァァァァアア!!」
秀包は殆ど反射的に、自軍に秀秋を援護する様指示を出した。だがそれは同時に、猛将である忠政と周防に対し背を向ける事を意味していた。
「今じゃ!敵の背後を突けぇ!」
「しゃあらぁぁ!!」
そんな当たり前の事を忘れさせるほど、秀包の頭は衝撃を受け、熱くなっていた。本多隊に次々に討ち取られていく小早川兵に、秀包の鼓舞は中々届かない。
「落ち着け!まずは敵を押し返した後に金吾中納言、小早川秀秋様を助ける。皆の者、奮起せよ!あと少し、あと少しで我ら大坂方の勝ちなのだ!」
「ひぃぃ、もうお終いだぁ!!」
「本多、あの本多が来るぅ!」
「止まっていては討ち取られる、逃げろぉ!」
小早川は唐入りも経験した古参兵が多く、挟撃された場合の絶望を『無駄に』経験している者が多かった。戦況を的確に把握し、少しでも命を長らえるために四散していく。
「馬鹿者!持ち場を離れるな!ここで踏ん張らなければ、全ては振りだしぞ!落ち着け、留まらぬかぁ!」
秀包の必死の統率も虚しく、兵の数は減って行く。そして松尾山麓の秀秋は、高所を獲得した信幸の鉄砲隊により、確実に死傷者を増やしていく。
「グワッハァ!?」
「秀秋様、敵の射撃精度が高い様でござる!この地に留まっていては、被害が増えるばかりにございますぞ!」
「い、いかん!義兄上と合流し、体勢を立て直す!」
一点狙撃をも可能とする、信幸の高精度な鉄砲隊の前では、秀秋のその判断は大正解であった。しかし秀秋は猛進を得意とする勇将。十九歳という若年も手伝って、退き戦の経験が全くと言っていいほど無かった。相手を押し戻さず、殿の奮戦もないその退却を、信幸の戦術眼は見逃さない。
「騎馬隊、槍隊。突撃せよ!秀包との合流前に、少しでも多く金吾中納言の兵を討つのだ!」
「応ッ」
「き、来たぁ!?徳川をも倒した真田、敵うワケがねぇぇ!」
「逃げろ、逃げろぉ!」
七千の兵はあっという間に五千弱までに減ってしまう。だが秀包は諦めていなかった。何故なら、松尾山の麓にはまだ無傷の西軍大名が残っているからである。秀包は彼らに援軍要請の使者を送ろうとした。
しかし。
「秀包様、御注進にござる!」
「何だ、後にせよ!今は援軍要請が先だ!」
「脇坂安治、赤座直保、朽木元網、小川祐忠殿、四千の兵が」
「おおっ、救援要請の前に駆けつけてくれたか!」
「いえ、我が軍の側面から……こ、攻撃を仕掛けておりまする!!」
――は?
秀包の頭は、一瞬真っ白になった。そして直後には、憤慨と動揺の混じった灰色に変わる。
「わ主もか、脇坂ぁぁ!!」
四つの旗印を確認した周防は、自らの読みの冴えにニヤリと笑う。ここまで戦線に参加しなかった脇坂安治らは、藤堂高虎に調略されていた。勿論タダでは転ばず、最も多く恩を売れるタイミングをずっと伺っていたのである。それは即ち、一つの大名家の軍を丸々戦闘不能に出来る今をおいて他には無かった。信幸にとっては嬉しい誤算である。
だが、時間がない。信幸の知る智将・大谷吉継ならば、必ず援軍を差し向ける筈だからである。大声で、自軍と使者に檄を飛ばす。
「一刻だ!一刻の間に、小早川を殲滅しろ!」
小早川を打ち破り戦況をまずは五分にしなければ、東軍の勝ちは無い。運命の天秤は今、松尾山で揺れていた。
次回更新は日曜の予定です。




